西谷墳墓群と鹿島神社と膳夫神社蹟
2022年11月9日水曜日
15:16
出雲の王の墓……なんてロマンを感じさせるワードなのか。
出雲の王と聞けば、オオクニヌシをついつい連想してしまう。オオクニヌシといえば、国譲り神話。
古事記に、
於出雲国之多芸志之小浜、造天之御舎而、水戸神之孫、櫛八玉神、為膳夫、献天御饗之時、祷白而とあり、「
(出雲国の多芸志の小浜に宮殿を造り、ミナトの孫のクシヤタマが料理人となって、お食事を献上した時に、祝いの言葉を言って)
ここは、国譲りの交渉成立をお祝いする宴が開かれた場所といえ、国譲り神話ゆかりの地として外せない。
上記の古事記の一節にはなかなか厄介な問題があって、主語が判らないため、解釈が分かれること。国を譲ってもらった天つ神が、宮殿を造り、クシヤタマに命じて料理をオオクニヌシに振る舞ったのか、それとも逆に、服属儀礼としてオオクニヌシが、神饌を天つ神に捧げもてなしたのか。「天之御舎」が国譲りの条件に出されたオオクニヌシの住処――すなわち出雲大社――であれば、天つ神が宴の主催ということになるし、個人的にはそう取りたい。
なお、『雲陽誌』の神門郡・武志の条には、
小浜明神。武甕槌命をまつる。とあり、それぞれ鹿島神社と膳夫神社を差すと考えられる。
中島明神。櫛八玉神の鎮座なり。九月十九日御供神楽を奏す。旧記曰、膳夫明神、是なり。
古代出雲歴博から南東へ十数キロ移動して、出雲弥生の森博物館へ。ミュージアム・トゥ・ミュージアムとは、我ながらキツい旅程を組んだものだ。ここは西谷墳墓群などのガイダンスと、埋蔵文化財センターの機能を併せ持つ施設。予習してから墳墓群を見ようという目論見で行った次第。
入館すると、まずスタッフの方が施設の概要を教えてくださった。
2階の常設展示室が、なかなか凄いボリューム。中央の西谷3号墓1/10スケール模型には、マツリの場面などのジオラマが展開しており、これだけでも面白い。
特に印象に残ったのが、3号墓から見つかったガラス勾玉。女王の宝らしく、とても珍しい形なんだとか。とにもかくにも、その青さと造形が美しくて……。
じっくり見学していると相当時間を取られそうだったので、写真には収めつつざっと流していく。あー、図録買えばよかったな、失敗した。
収蔵庫の一部が公開されていたのも、興味深かった。
外へ出て、隣の西谷墳墓群史跡公園へ。先ほど模型で学習した西谷3号墓、実物はやはり巨大だ。王の墓に相応しい。最大の特徴である「よすみ」から、墳丘の上に登ることもできた。実際、こうして上に登るために設けられた通路と考えられている。そしてマツリを行うのだと。
続いて2号墓。こちらは墳丘の斜面の貼石、墳端の立石・敷石が復元されており、より壮観で荘厳。
葺石を復元した古墳を見たことあるけど、弥生時代の墳墓でこの迫力だからなぁ……出雲、おそるべし。
2号墓内部は展示室になっている。各種説明のほか、3号墓第1主体の発掘状況を再現した展示も。そこにあるボタンを押すと、埋葬当時の出雲王の姿がぼうっと浮かび上がってきた。これが結構なホラー。視覚に訴える分、理解はしやすかったけどね。
さて、もう1か所予定しているんだけど、だいぶ時間が押しているし、どうするか。少し逡巡したものの、距離も近いし、ぱっと行ってこなしてしまうことに決めた。よくよく考えたら翌日のほうが余裕あったので、そっちに回しても良かったのに……とは後で思ったこと。
ということで最後に向かったのが、市内武志町の鹿島神社。境内東側に駐車場があった。疲れ気味の嫁には車で休んでいてもらい、まずは参拝。
御祭神はタケミカヅチ・フツヌシ・アメノトリフネと、合祀されたクシヤタマ。国譲り神話と関係のある神さまばかりだ。
そのまま境内を北に抜けて、東へと向かうと斐伊川の土手にぶつかる。そこの道を駆け上がり、河川敷へ下りた。坂を走って上り下りすると、さすがに息が切れるな。
野球場の奥に、「膳夫神社蹟」の石碑。ここ数日、国譲り神話ゆかりの地を巡ってきて、その締めくくりの舞台に立てた。せわしなくなったけど、それでも感慨深い。出雲の山々の眺めも、清々しい。
とはいえ、あまりのんびりもしていられないので、急いで嫁の元へ戻った。
決して暑くないのに汗までかいて、バタバタしてしまったけど、どうにか予定していた所をすべて回れた。この日は嫁にろくに休憩する時間をあげられなくて、申し訳なかった。嫁も、ゆっくりしすぎたって気を遣ってくれたけど。ただその分、あとは温泉でゆっくりできるぞー。