金峯山寺の金剛蔵王大権現
2022年11月11日金曜日
09:57
春に吉野山の桜の歴史について調べまくっていたら、金峯山寺の御本尊・金剛蔵王大権現にも強く惹かれちゃって、秋の特別御開帳にて拝ませていただくことにしたんだけど、これがもう感動体験だった。
吉野山の桜のエントリーと重複する部分もあるが、金峯山寺の由緒を改めて整理しておこう。
開祖・役小角は飛鳥時代の呪術者で、実在の人物と考えられる。「小角」は「おづぬ/おづの」と読むことが多いがはっきりせず、「おすみ」と読むとする説もある。役小角は
文武天皇3年5月24日、役小角を伊豆島に配流した。はじめ小角は葛城山に住み、呪術を使うことで有名だったが、人々を惑わすとの讒言により、遠い所へ流された。とある。
伝わるところによると、「小角は鬼神をよく使役する」云々とも。良く知られた伝説でも、
南北朝時代の成立とみられる『金峯山秘密伝』上巻の金剛蔵王本地垂跡習事の条によれば、
即相伝云。昔役優婆塞天智天王御宇白鳳年中開金山大峯而勤求仏道、祈末代相応仏、尋濁世降魔尊。于時大聖釈尊忽然現前示護法相。行者白言。辺土衆生不堪見仏身、強強衆生所不応也。願示所応身。時釈尊忽然不現。更千眼大悲尊自然即涌現。行者亦白。今尊五部具成仏大悲抜苦尊。雖為無双柔軟形体。故尚所不応悪世也。于時大聖化滅亦弥勒大慈尊自然影現、行者亦白言。大聖此釈尊補処、大慈与楽尊也。此土縁深。雖爾末代尚不応。願現降魔身。其時宝石振動従磐石中金剛蔵王青黒忿怒像忽然涌出、即住磐石上。于時行者大歓喜敬重奉崇。此其元始也。という。
(役行者は大峰山山上ヶ岳に登り、仏道修行をした。そこで人々を救う御本尊を求めて祈ると、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が次々と現れたが、さらに祈った。その時宝石が振動し磐石の中から、青黒く忿怒の形相をした金剛蔵王像が、突如として湧き出でた。これを行者は大いに喜び、崇拝すべきものとして尊んだ。これが金峯山寺の始まりである)
それから、中巻の金剛蔵王名号習事の条に、
天智天皇御宇白鳳十一年(辛未)正月八日、役行者始登金峯山、開蔵王宝窟、拝生身御体、其後行者以柘楠草霊木、奉摸彼生身像、行者自手造立之、建立八角堂、被安置之。此根本山上蔵王堂是也。と続く。吉野町の金峯山寺と天川村の
(その後、行者は蔵王の姿をトベラの霊木に刻み、八角堂を建立して、その像を安置した。これが山上蔵王堂である)
山下蔵王堂は、
根本となる寺伝『金峯山秘密伝』を基にまとめたけど、後世に渡り様々な伝承があることを付記しておく。役小角が感得した像やその出現順、山下蔵王堂の由緒などなど。
ちなみに、金峯は音読みでは「きんぷ」で、訓読みでは「かねのたけ」という。
日本書紀の記述で思い返したいのが、古人大兄皇子も大海人皇子も、出家して吉野に入っている点。つまり吉野は、早くも飛鳥時代には、世俗を離れた世界として知られていたということ。
それを裏付けるように、山上ヶ岳山頂付近の発掘調査で、鈴杏葉や和同開珎、奈良三彩など6世紀から8世紀の遺物が出土。また測量調査においては、上岩倉遺跡や金照坊地区から大規模な遺構群が見つかり、9~10世紀にはこの地区に建物が存在していた可能性が極めて高いことも判明している。
しかし一方で、
桜の季節ほどではないにしても、混み合う週末よりは平日に行きたい吉野山。そうだ、島根旅行のために丸一週間休暇を取ってあるんだし、いっそその旅程にくっつけてしまえばいいんだ。というわけで、島根の4泊5日に1泊1日の奈良行きを加えた次第。
西尾ICから松江だんだん道路へ乗り、山陰道・米子道・中国道と帰宅するようなルートだが、播但道には向かわず、そのまま東進。加西SAなんて、こんな機会でもなけりゃ寄らなかったよ。ただ厄介だったのが、中国池田~吹田と阪神高速松原線の喜連瓜破~三宅、2か所も通行止めがあるため、これらを迂回する必要があったこと。カーナビがそういうルートを選んでくれないから、自分で迂回できるよう経由地設定して、面倒この上ない。そんな地味な苦労がありつつも、在住県を横断なんていう初めての経験をし、奈良県天理市のフェアフィールド・バイ・マリオット奈良天理山の辺の道に到着。何度もトイレ休憩挟みながらだけど、350kmを走り抜けた。たぶん最長記録。
もう20時になろうとしていたから、ご飯食べて寝るだけ。ホテルの部屋にて、しじみ汁であったまり、のどぐろの缶詰めなどを肴に島根の地酒を飲んだ。余韻に浸りまくっている。そうして寝心地最高のベッドで就寝。
奈良で迎えた朝。この日も晴れ。結局旅行中ずーっと晴れていた。めちゃくちゃツイてるね。
なるべく拝観開始時間に合わせたいからと、7時半に出立。桜井吉野線を南下するのも初だ。下千本駐車場には8時半頃着いた。料金を支払って駐車。観光バスを含め、そこそこの数がすでに停まっている。だいぶ人の流れが戻ってきていることを実感するなぁ。
頑張って坂道を上り、金峯山寺へ。
境内には修学旅行生と思しき団体が、ぞろぞろと整列している最中だった。ひとまず彼らより先には入れそうだ。追いつかれそうだけど。
蔵王堂は国宝であり、吉野山の象徴的存在。現在の御堂は天正20年(1592)の再建で、全国でも屈指の規模を誇る木造建築。同時代製作の重文・木造蔵王権現立像3躯を安置する。その3体の御本尊は秘仏で、例年春と秋に特別御開帳される。
特別拝観料を納めると、御札とロゴの入ったエコバッグを頂けた。エコバッグに靴を入れ、蔵王堂内に入る。すると厨子の中から巨像たちが、こちらを見下ろしていた。これこそ役小角が感得したという釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の権現であり、そのご様子はまさに「青黒忿怒像」。中尊が7m、左右の像がそれぞれ5mを超えるが、ただ大きいだけではない、異様な迫力がある。
少し進むと、お坊さんがどうぞとおっしゃって、障子の仕切りを開けて招いてくださった。感染対策なのか、いくつか仕切られた個室が設けられていたのだ。プライベートな空間で、じっくりと、蔵王権現と向き合える時間……なんて贅沢な!気の済むまで拝めたから、色々感じた。なんといっても、写真で見るのと、実際にお会いするのとでは、まるで印象が異なる。ご尊顔は確かに怒りの表情なんだけど、なんていうか、叱られている感じはしないんだよね。カッと見開いた眼で、邪なるものだけを退けるような。また、隅々まで装飾が細やかで、見惚れてしまう。
拝観順に沿って巡っている途中、案の定学生たちの波に飲まれた。興味のない子が多いだろうから、どんどん追い抜いてもらおう。
そのまま進んでいくと、蔵王権現本地堂にも入ることに。本地堂はその名の通り、蔵王権現の本地である釈迦・千手観音・弥勒の三尊のほか、役行者・前鬼・後鬼像を安置する。
そしてまた蔵王堂に戻ってきたら、再びどうぞと招かれる。そうか、3体とも個別に拝観させていただけるのか。つくづく有り難い……。
その時、外から法螺貝の音が聞こえてきた。修験道の聖地に響く音色まで聴けるとは。権現像の前を離れ、外を見てわかったのが、それが修学旅行生たちへの旅の安全祈願だったこと。彼らのお陰で、おこぼれに預かれたわけね。嫁も、貴重な体験に喜んでいた。
御堂から出ようとしたとき、ふと振り返って見上げてみた。すると、網の向こうに仏さまのお姿が。網は落下防止だろうか。どうやら蔵王権現3躯の前に1躯ずつ……あ!これも釈迦と千手観音と弥勒なんだ!権現の前に各々の本地を、蔵王堂内でも表しているんだ!これに気づいて感動しちゃったよ。深みがあるわぁ。
ただひたすらに、金剛蔵王大権現に手を合わせる。それだけなのに、とても充足感を得られた。春からずっと気になっていたけど、お参りして本当に良かったぁ。