斎宮跡はテーマパークみたいに楽しい

2024年5月23日木曜日 10:56
斎宮跡さいぐうあとは、三重県多気郡たきぐん明和町めいわちょうにある史跡。かつて、天皇の名代として伊勢神宮にお仕えする皇族女性の居所だった。周辺は整備されており、斎宮さいぐうの歴史が学べる斎宮歴史博物館や、平安前期の建物を復元した「さいくう平安のもり」などがある。
近年、考古学調査でも大きな成果のあった地だけに、ワクワクしながら行ってきたんだけど、期待を大きく上回るほどに面白い所だったよ!一種のテーマパークといっていいかもしれない!

斎宮は「いつきのみや」とも読み、祓い清めて神さまをお祀りする場所という意味。斎王さいおうとは、伊勢神宮に奉仕するために選ばれた未婚の内親王(または女王)のこと。斎宮という言葉は斎王を指して用いられることもあるけど、紛らわしいので以後、場所のことは斎宮、皇女ひめみこのことは斎王として、区別して書いていこう。

斎王の始まりは『日本書紀』崇神すじん巻にある。
これより先、アマテラス大神・ヤマトノオオクニタマの二神を、天皇の御殿の内にお祭りした。ところがその神の勢いを恐れ、共に住むには不安があった。そこでアマテラス大神をトヨスキイリヒメに託し、やまと笠縫邑かさむいのむらに祭った。よって堅固な石の神籬ひもろぎ(神の降臨される場所)を立てた。
このアマテラスを託されたトヨスキイリヒメが、伝説上とはいえ最初の斎王ということになるね。
それにしても、ヤマトノオオクニタマを皇居外で祀れば済むかと思えば、アマテラスまで出されるのが、不自然に感じるところ。そもそも『日本書紀』神代巻の本文では、アマテラスは降臨していないのに、いつの間にか皇居内にお祀りされている。辻褄を合わせようとするなら、第九段一書(第二)に、
アマテラスは手に宝鏡を持って、アメノオシホミミに授けて、「我が子がこの宝鏡を見るのに、丁度私を見るようにすべきである。共に床を同じくし、部屋を一つにして、慎み祭る鏡としなさい」と祝って仰せられた。
とあることを参考にするしかない。本文と一書の関係は難しいね。この場合、単なる異伝ではなく、総合的に考えないといけないんだから。
詳しくは別エントリーで述べるけど、元来の皇祖神こうそしんは、アマテラスではなくタカミムスヒだった可能性が濃厚であることを踏まえれば、皇居外で日神ひのかみをお祀りすることがあった、というくらいの理解でいいのかもしれない。それも、神籬ひもろぎを立てるだけの素朴な祭祀を。
続いて垂仁すいにん巻。
アマテラス大神をトヨスキイリヒメから離して、ヤマトヒメに託された。ヤマトヒメは大神の鎮座なさる所を探して、各地を遍歴。伊勢いせ国に至った時にアマテラスが、「この国に居りたい」と仰せになったので、その祠を伊勢国に立てた。そして斎宮いつきのみや五十鈴いすずの川上に建てた。
アマテラスを伊勢いせにお祀りした最初の皇女という意味では、このヤマトヒメも元祖斎王といえる。
次に景行けいこう巻。
イオノ皇女を遣わして、アマテラス大神を祭らせた。
ヤマトタケルは東征に際し、寄り道をして伊勢神宮を拝まれた。ヤマトヒメに別れの挨拶をすると、草薙剣くさなぎのつるぎを授けられた。
天皇が代替わりして、ヤマトヒメに代わってイオノが派遣されたのかと思いきや、ヤマトタケルは伊勢神宮でヤマトヒメと出会っている。これも良く解らない。
ヤマトタケルの東征ルートは、往路はいきなり駿河するがに着いたところから語られるので不明だが、帰路を参考にすると、伊吹山いぶきやまから尾張おわり国に戻ったあと、伊勢国桑名くわな郡の尾津おつ・同国鈴鹿すずか郡の能褒野のぼのと進んでいることから、陸路で北伊勢を通っている。南伊勢の奥まった所にある神宮へは、寄り道にしても随分遠回りだ。『古事記』に至っては、大和やまとから九州へ向かう前にもヤマトヒメの所へ寄っている。伝説に合理性を求めるのはナンセンスかもしれないけど、ヤマトヒメは大和にいた、と考えたほうが自然じゃないだろうか。トヨスキイリヒメがそうだったように、大和で日神祭祀を行っていたんじゃないだろうか。
ただ、伊勢などの地名が詳しく記されていることから、現在知られているヤマトタケル伝説は、伊勢地方で語られた異伝だった可能性がある。元は大和を舞台としていたけど、伊勢神宮の霊験を語るものとして派生したのかもしれない。

崇神・垂仁・景行と続いた斎王の記事が、成務せいむ安康あんこうの代には無くなる。次に斎王の記事が現れるのは、雄略ゆうりゃく天皇の代。
稚足姫わかたらしひめ皇女〈またの名は栲幡姫たくはたひめ皇女〉。この皇女は、伊勢大神の祠に仕えた。
この栲幡たくはた皇女には不思議な説話があるのだけど、こちらも詳細は別の機会に譲って結論だけ述べると、斎王は伊勢国度会わたらい郡の五十鈴川いすずがわの近くに滞在しており、そのそばに宝鏡も安置されていた可能性を窺わせる。
しかし一方で、これも大和が舞台で、石上いそのかみ神宮の祭祀に関わる采女うねめ説話がベースだったかもしれない。虹は蛇・剣を連想させるもので、本来は剣を得た話だったのかもと。
清寧せいねい武烈ぶれつの代にもまた斎王が途切れるけど、6世紀に入ると史実と考えて良さそうな記事が連続する。
継体けいたい天皇:荳角ささげ皇女。これは伊勢大神の祠に仕えた。
欽明きんめい天皇:磐隈いわくま皇女〈またの名はいめ皇女〉。初め伊勢大神に仕えられた。後に皇子茨城うまらきに犯されたので解任された。
敏達びだつ天皇:菟道うじ皇女を伊勢の祠に仕えさせた。しかし池辺いけのべ皇子に犯されるということがあり、露見したので解任された。
用明ようめい天皇:酢香手姫すかてひめ皇女を伊勢神宮に遣わし、日神の祀に仕えさせた。〈この皇女は、この天皇の時から推古すいこ天皇の世まで日神の神祀にお仕えし、のちに葛城かずらきに退いて亡くなられた、と推古天皇紀に見える。ある本に、三十七年間も日神の祀にお仕えし、自ら退いて亡くなられたとある。〉
ほぼ1世代に1名の斎王が任命されており、これが史実だとすれば、何らかの理由から6世紀頃は伊勢神宮の祭祀が重視されたことになる。
気になるのが、磐隈いわくま皇女・菟道うじ皇女と、続けざまに皇子に犯されるという事件が起こっていること。皇子たちはわざわざ伊勢まで出かけていって皇女と関係を持ったのか、皇女たちは大和にいたから襲われたんじゃないか、などと勘繰りたくなる。
だけど、こうも考えられる。斎王は独身を強いられ、よほどのことがない限り大和には戻れない。もし斎王に恋した皇子がいたとしたら、もし大和に帰りたくて、思い人を呼び寄せた皇女がいたとしたら……強引に、あるいは合意の上で行為に至ったなんてことも、あり得たかも。ちなみに、退任後に結婚した元斎王なら実在するし、『伊勢物語』には架空の物語ではあるけど斎王との恋も描かれている。
一方、長く斎王を務めたという酢香手姫すかてひめ皇女について、「推古天皇紀」には実際は載っていない。『日本書紀』の中で明らかな矛盾を露呈していることから、この皇女の記事の信憑性が疑われる。
これら皇女たちの実在性は疑えないにしても、斎王の伊勢への派遣があったのかなかったのか、判断しかねるというのが正直なところ。

実在がほぼ確実とされる斎王は、天武てんむ天皇の代から。
天武てんむ天皇二年(673)四月、大来おおく皇女をアマテラス大神の宮に仕えさせるために、泊瀬はつせ斎宮いつきのみやにお住まわせになった。ここはまず身を清めて、次第に神に近づくための所である。
同三年(674)十月、大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神の宮に向かわれた。
史跡斎宮跡西部からは、なんと飛鳥時代の掘立柱建物ほったてばしらたてものなどが検出されている。掘立柱塀に囲われた方形区画があり、その内部空間には正殿せいでんなどの建物が整然と並ぶ。まさしく大来おおく皇女の斎宮だろうね!伊勢に行く前に1年潔斎けっさいのために籠っており、平安時代に成立する「野宮ののみや」を彷彿させる。実質的に斎王が制度化されたのは、この天武天皇の時代と考えられる。
大来皇女は13年間斎王を務めたが、天武天皇の崩御ののち、
朱鳥元年(686)十一月十六日、伊勢神の祠にお仕えになっていた皇女大来は、京師みやこに帰った。
とある。持統じとう天皇の代には、斎王は立てられなかった。ただし、発掘調査から、7世紀末から8世紀初め頃に、宮殿域を拡張していることが判っている。続く文武もんむ天皇の代になると『続日本紀』に、
文武もんむ天皇二年(698)九月、当耆たき皇女を遣わして伊勢の斎宮に仕えさせた。
とあり、その後いずみ内親王(大宝元年二月己未)・田形たかた内親王(慶雲三年八月庚子)が選ばれている。持統朝に斎王が差遣されないのは、改変工事のためだったのかもしれない。
元明げんめい朝には、斎王任命の記事が『続日本紀』に無い。鎌倉時代成立とみられる『一代要記(いちだいようき)』に、元明朝の斎王として、
神祇記がいうには、この時斎王は定めず田方たかた内親王・多貴たき内親王・智努ちぬ女王・円方まどかた女王が各一度参入した云々。
とあり、大来皇女の代から続いていた飛鳥時代の遺構も一旦断絶することから、やはり斎王の派遣はまた途絶えていたんだろうね。
元正げんしょう天皇の代になると、再び久勢くせ女王(養老元年四月乙亥)などが任じられている。飛鳥時代の遺構の南に、奈良前期とみられる遺構が確認されており、この代あたりから使用されたんだろう。聖武しょうむ孝謙こうけん淳仁じゅんにんの代にも斎王がいたが、孝謙天皇が称徳しょうとく天皇として再び皇位に就くと、またしても途切れる。制度としては、まだまだ流動的だったといえる。
結局、斎王が安定的に任命され始めるのは、光仁こうにん桓武かんむ朝に至ってから。平安時代には斎宮の規模も大きくなり、都市として整えられていく。
飛鳥時代から平安時代まで、少しずつ変容しながらも、斎宮はずっとほぼ同じ場所にあったわけだ。

斎王の、祭祀への関わり方にも触れておこう。
「律令」には伊勢神宮の規定が無い。天皇の権限も同様なので、それに準じた扱いといえる。平安時代成立の『皇太神宮儀式帳こうたいじんぐうぎしきちょう』や『延喜式』であれば、伊勢神宮で執り行われた行事の次第が、事細かに記されている。「斎宮式」の三時祭さんじさいの項には、
五月・十一月晦日には近くの川(現在の祓川はらいがわ)で禊ぎをし、八月晦日には尾野(大淀浦)の湊で禊ぎをする。
三時祭の月の十五日に離宮院に向かい、十六日に外玉垣御門内の東殿につく。命婦みょうぶから太玉串を受け取り内玉垣御門から入り座につき、前に進んで両段再拝(最も丁寧な拝礼)し、玉串を命婦に授けたあと、それを物忌ものいみに授け瑞垣御門の西の頭に立つ。その後、斎王は戻り本座につく。
などとある。斎王は太玉串を捧げるくらいで、特別な神事行為を行っていない。神事の中心はもっぱら神宮司たちで、斎王はほとんどお客様扱いだ。三時祭とは、6月・12月の月次祭つきなみのまつりと9月の神嘗祭かんなめのまつりの総称で、三節祭さんせつさいともいう。つまり、年に3回しか斎王は神宮での祭祀に参加しないのだ。これを知った時は意外に思ったよ。もっと頻繁にお参りするものとばかり。
とはいえ、斎宮でも様々な祭祀が行われている。普段は斎宮の中でお仕えし、特別なお祭りの時には15kmほど離れた神宮へ赴く、そんな生活を送っていたんだろうね。

さてさて、実に9年ぶりのお伊勢参り。域外の別宮や斎宮跡なども回りたいと思い、計画した。前回は特急列車を利用したけど、今回は自家用車を選択。自在に回りやすいし、何より気が楽だからね。
三重県まで3時間ほど要するので、仕事を終えたら軽く夕食を摂って、出発。第二神明から阪神高速北神戸線に入り、中国道を経由して名神、新名神を走る。亀山JCTで伊勢道へと進み、松阪ICで出たら、ホテル駐車場までは割とすぐ。例によって前泊だ。宿泊先での休養の重要性を痛感したことから、広いツインの部屋のあるジャストイン松阪駅前にしてみた。部屋は201のユニバーサルツイン。確かに広々としてベッドもバスルームも良かったんだけど、エレベーターのチャイム音がとにかくうるさい。明らかに設定ミスだろう。他のホテルでエレベーターの近くの部屋に当たったこともあるけど、こんなに大きなチャイム音はしなかった。ひっきりなしに鳴る音でなかなか寝付けなくて、これは誤算だったなぁ。
翌朝は8時ごろに発った。ホテル駐車場から鳥羽松阪線に入るためのルートが、高架橋ではなく踏切を越える路になったんだけど、近鉄山田線とJR紀勢本線を跨ぐからか、随分長い時間踏切が開かなかった。余裕を見ておいて良かった。それから近鉄櫛田くしだ駅近くのガソスタで満タン給油。夜間走行のせいでフロントが虫さんまみれになっていたから、ついでに軽く洗車も。櫛田橋を過ぎたら旧伊勢街道へ。

かつて櫛田川本流だったという祓川はらいがわを渡ると、最初の目的地。「従是これより外宮げくう 三里」と刻まれた道標が立っているのだ。近世に整備された、伊勢街道の名残を留めるもののひとつ。
伊勢街道は、江戸時代には東海道に次ぐ交通量の街道だったらしい。当時大流行したお伊勢参りでも、この道を大勢の人々が往来したことだろう。此度の旅行の始まりに相応しいスポットじゃあないか。
とはいえ道幅がやや狭いので、目一杯路側帯に寄せて数分だけの滞在に済ませた。

そこから史跡公園専用駐車場までは1km足らず。利用時間が各施設に先んじて8時半からだったので、ここから史跡巡りを始めようと。
遠足か何かだろうか、学生さんたちが公園の入口に続々と集結していくのが見えた。修学旅行先とは考えにくいので、きっと三重県内からだろう。斎宮を学ぶ機会があるんだね。そんな地域性を微笑ましく思う一方、あの波に揉まれないかちょっぴり心配にもなった。

道繋がりというわけではないけど、まずは古代伊勢道。こちらは飛鳥・奈良時代の幹線道路だ。発掘調査にて発見され、道路幅まで特定されている。部分的にだけど、それを判る形にしてくれているわけだ。古代の道にしては広くて真っ直ぐなことが、視覚的に理解できて良いね。
続いては、飛鳥時代や奈良時代の斎宮跡へ。

その途上、「紡績用大麻栽培天津菅麻あまつすがそ実証圃場ほじょう」という看板が。薬物として利用される恐れのない、安全な大麻草を栽培しているそうだ。麻といえば、伊勢神宮の神御衣祭かんみそさいにて奉納されるもののうち、荒妙あらたえというのが麻布だ。
それと関係するのかなと軽く調べてみたところ、天津菅麻プロジェクトというのは2023年に立ち上がったばかりで、ここ明和町の麻の歴史、伝統文化の復活を目指しているらしい。神事で使う麻の栽培は大麻取締法で厳しく制限されており、生産者は減少の一途を辿っているとか。そうした伝統を守るための危機感から来ているわけだね。関係大ありだった。偶然とはいえ、貴重なものを見ることができた。

そうして八幡神社跡付近へ。すると、「斎宮跡 発掘調査現場」と書かれた立て看板のそばで、何やら作業されている男性の姿が。おはようございますとご挨拶してくださったので、こちらもお返ししたところ、発掘調査現場は見られない旨を申し訳なさそうにおっしゃった。あ、それが見学できると思って来た人だと思われたのか。そうではなくて、ただ飛鳥時代の斎宮がこの辺りで見つかったらしいから、その地を訪れただけだと答えた。

そしたら今度は、あの森の辺りがまさにそうだと教えてくださった。うん、だいたい合ってた。
加えて、看板を立てた周辺が奈良時代の斎宮跡で、ロープを張った向こう側を来月から調査するんだそうだ。そっか、そのニュースを聞きつけて先走った人だと最初に思わせてしまったんだね。せっかくここまでおいでいただいたのに、何も用意が無くて申し訳ないと、重ねて謝られてしまった。いえいえ、何も無い場所に行くのが史跡マニアですから、お気遣いなく。
そこへさらに、現地説明会資料は要りますか、このあと斎宮歴史博物館に行かれるなら、ご用意できますよ、と。うわぁ~、有り難い!お言葉に甘えると、伝えておくので申し出てくださいとのこと。なんていい人なんだ……。丁寧にお礼と、次の調査も楽しみだと言ってお別れした。早々に素敵な出会いがあるもんだ。

ここに大来ちゃんがいたんだなぁ……とロマンにも浸りつつ、改めて森の近辺を見渡す。奈良時代前期の遺跡も、現在進行形で発見が相次いでいる。最前線なんだよね。凄い話だよ。

それからたけ神社跡や祓戸はらいど跡の前を通り、黄金色した美しい麦畑を過ぎて、祓戸広場へ。公園型のビオトープが整えられていた。ステージのようなものもあるし、イベントが催されたりするんだろうか。

その先に、祓川。上述の通り、斎王が禊ぎをしたという川だ。川のほとりまで下りられるようになっていた。生憎の天候で淀んで見えるけど、カワセミがやってくるほど清らかな流れらしい。
そこに架かる橋の名は神宮橋。神宮と書いて「じぐ」と読む。この辺りの小字こあざ地名にちなむもので、斎宮との関連を窺わせるよね。

次は斎宮歴史博物館。史跡公園専用駐車場から博物館駐車場まで車を動かした。全然歩ける距離だけど、時短のためだ。
ところで、斎宮は「さいくう」と濁らずに読んでも正で、博物館や明和町ではこの読みで統一されているようだ。
受付へ行くと早速、現地説明会資料をご希望の方ですかと。話を通してくださっている!というわけで、2023年に行われた史跡斎宮跡第205次(1区)・(2区)発掘調査の現地説明会資料を頂くことができた。嬉しい。
さらに、常設展と企画展の共通券を購入したら、常設展へ。

「祈る斎王像」は後ろ姿というのが印象的。敢えてお顔を見せず、どんな思いを抱いているのか想像させようとしているんだ。背面が映り込んで、展示エリアの入口を見つめるみたいになってしまったけど。

葱花輦そうかれん」は、屋根に葱花の形をした飾りの付いた輿こし。天皇の略式の乗り物で、皇后や皇太子も使用したといい、天皇の名代である斎王も乗っていたと考えられている。葱花とはネギの花のこと。タマネギみたいだけど、平安時代にタマネギはまだ渡来していない。

群行ぐんこう模型」は、群行と呼ばれた斎王一行の都から斎宮までの旅を、イメージしたジオラマ。色んな人がいてドラマが浮かぶようで、見ていて楽しい。

「斎王の居室」原寸模型は、平安宮の建物を参考に、斎王の御殿の一部を復元したもの。天井まで作り込まれており、切り取ると雰囲気出るね。寝台の御帳台みちょうだいは、獅子と狛犬が守っているのか。

この「土馬どば」は凄い。土馬は水に関わるお祭りに使われたとみられる馬形土人形で、平城京出土のものはいくつも見たことがある。でもそれらとは違って、タテガミや鞍などが表現されているんだよ。
最初は貸切状態だった館内も、徐々に学生さんたちがなだれ込んできて、賑やかになってきた。

速報展示コーナーでは、「斎宮跡の白い土師器はじき」が催されていた。奈良時代以前なら多少知識があるものの、平安時代となるとサッパリな僕。平安京には白色土器というのがあるんだね。その影響を受けたとみられる、白く発色させた土器が斎宮跡でも出ているのか。奇麗。釉薬を用いなくても、様々な色が出せるものなんだなぁ。

朱彩しゅさい土馬」は、馬具を付けているのは先ほどの土馬と共通するけど、ずんぐりしていてブサ可愛いというか。嫁は気に入ったみたい。だけどコレ、発掘のごく初期に発見され、その遺跡が斎宮であったことを決定づけた資料なんだって。朱彩も珍しいよね。

精巧さに驚いたのが、「羊形すずり」と「鳥形硯」。どちらも頭部しか見つかっておらず、胴体は推定復元らしいのだけど、それでもこんな硯があったのかと。
他にも興味深い展示がいっぱい。斎宮についてや考古学的な学びはもちろん、単純に見た目だけでも楽しくなるような品々も多い。
学生さんらも、土器編年クイズに興じたりと、なんだかんだ満喫しているようだった。

常設展示室を出たら、受付を横切って特別展示室へ。開館35周年記念春季企画展「源氏物語と斎宮:王朝のきらめき 光る君の栄華」を見学する。放映中の大河ドラマ「光る君へ」を多分に意識した企画だよね。
回り始めようとしたとき、受付のスタッフさんが、映像展示室の上映が始まることをわざわざ教えに来てくださった。お気遣いに感謝。「斎王群行」を見たい気持ちはあるんだけど、20分くらいある作品だと下調べで知っていたから、スケジュールの都合で今回はパス。
気を取り直して企画展。こちらは撮影禁止の物がほとんどだったので写真は載せられないけど、「源氏物語図貝桶かいおけ」など、源氏物語に関する当館所蔵の多さが目を引いた。「野宮図(清原雪信)」も良かったなぁ。
斎宮歴史博物館の常設展図録にあたる『総合案内』を受付で購入したら、館をあとにした。

博物館のすぐそばにある塚山古墳群を確かめる。1号墳は円墳、この2号墳は方墳。塚山古墳群は、現存するのは13基にとどまるけど、68基まで確認されているという。
他にも斎宮周辺には古墳が多く、なかでも北方の坂本古墳群の1号墳は前方後円墳で、斎宮との関係などから注目されている。そこまで足を延ばす余裕がないから、せめて近くのだけでも見ておこうとね。

再び車に乗って、いつきのみや歴史体験館・いつき茶屋駐車場へ。体験館は最後にして、先に「さいくう平安の杜」に向かった。平安時代の復元建物が並んでいて、中央に正殿、両サイドに西脇殿と東脇殿が。
正殿の前ではひっきりなしに学生が記念撮影をしていて、東脇殿では体操のイベントが行われていた。

斎宮寮の中心的建物という正殿。晴れ間が覗いてくれたぁ。それにしてもこういう寺院建築、見覚えがあるような。

西脇殿だけは上がることができて、盤双六で遊べるコーナーとちょっとした展示があった。こう見えて、どの復元建物も耐震補強のために鉄骨が入っているらしい。

斎宮エリアのラストは、いつきのみや歴史体験館。平安装束試着や貝覆いといった、種々の体験ができる施設だ。寝殿造を模していて、かなりの徹底ぶり。
しかし、ここが最も学生であふれ返っている場所だった。平たく言って、一番遊べるからだろう。別に不快ではないけど、騒々しい。

博物館にもあった、葱花輦に乗るのが目的。幸いこれは人気薄で、すんなり嫁が乗れた。よし、早々に撤退。
出がけに受付のスタッフさんに、騒がしくて申し訳ないと謝られてしまった。あなたは何も悪くないですよ~。

や~、メチャクチャ面白かった!史跡を中心として、博物館、復元建物、体験施設、それらが一体となり、まるで斎宮のテーマパークみたい。三重県や明和町の本気を感じる。現在の平城宮跡に、在り方が似ているとも思った。道理で胸躍るわけだ。
時間の都合で回り切れなかった所もあるし、また行きたいなぁ。

【参考文献】
岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房,1970年
川部浩司『斎宮跡発掘調査報告 (V)』斎宮歴史博物館,2023年
桜井勝之進『伊勢神宮の祖型と展開』藝林会,1992年
筑紫申真『アマテラスの誕生』講談社,2002年
直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』塙書房,1964年
西宮秀紀『伊勢神宮と斎宮』岩波書店,2019年
林一馬『伊勢神宮及び大嘗宮に関する建築史的研究』,1999年
穂積裕昌『伊勢神宮の考古学 増補版』雄山閣,2023年
毛利正守「古事記の構想:天照大御神と鏡を中心に」『古代学 (5)』奈良女子大学古代学学術研究センター,2013年

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