皇大神宮の早朝参拝は格別のひととき

2024年5月24日金曜日 07:12
皇大神宮こうたいじんぐうは、三重県伊勢市宇治館町にある神社。内宮ないくうの通称で知られる。
全国から参拝者が押し寄せるだけに、9時を過ぎる頃には境内は大勢の人で賑わう。だけど早朝なら人影はまばら、格別のひとときが過ごせたよ!

アマテラスの誕生伊勢神宮の成立については別途考察しているので、そこでは触れる余裕のなかった、内宮の地に元来お祀りされていた神さまの神格について、まずは考えてみたいと思う。

五十鈴川いすずがわ御手洗場みたらしのそばには、ひっそりと瀧祭神たきまつりのかみが鎮座なさっている。『皇太神宮儀式帳』には、
瀧祭神社。〈大神宮の北の川辺に在り。御殿無し。〉
とあり、水の神さまと考えられる。
そこから南へ島路川を渡った先には、風日祈宮かざひのみのみや。同じく『儀式帳』に、
四月例十四日同日、御笠縫内人みかさぬいのうちんどは蓑・笠を造り奉る。大神宮三具。荒祭宮一具。大奈保見神社一具。伊加津知神社一具。風神社一具。瀧祭社一具。……
……
七月一日から八月三十日まで、日祈内人ひのみのうちんどは朝夕に、悪風が止み五穀が実ることを祈願する。
とあり、「風神社」の名がみえる。こちらは風の神さま。また、同じ記事の中に「伊加津知いかつち神社」も出てくる。イカヅチすなわち雷の神さまだろう。
「伊勢」にかかる枕詞は「神風かむかぜの」。伊勢の浜に吹く風が激しいためといい、それは神さまが吹かせていると考えられたんだろう。「風神社」は伊勢神道の思想を集大成した書、『類聚神祇本源るいじゅうじんぎほんげん(元応二年(1320)度会家行わたらいいえゆき)』に、
正応六年(1293)の太政官符だいじょうかんぷ(行政文書)にて、社号を改め宮号を授かった。異国を降伏させた御祈祷によるものである。
とあり、元寇の折に敵を壊滅させた所謂“神風”の報賽として、宮号を得たとする。この時に風日祈宮となり、外宮の「風社」も同様に風宮となったらしい。

そして荒祭宮あらまつりのみや。『儀式帳』には、
造奉荒祭宮一院〈大神宮の北へ二十四丈のところに在り。〉
大神宮の荒魂宮と称する。御神体は鏡が座す。
とある。荒祭宮の北方からは、祭祀に用いられたとみられる滑石製模造品かっせきせいもぞうひん類が多数出土している。アマテラス誕生の経緯で述べたようにここは古墳時代の祭祀場と考えられ、だとすれば荒祭宮はそれを受け継いだものかもしれないのだ。
鎌倉時代の僧、通海つうかいが弘安九年(1286)に神宮参詣した際に著したという『太神宮参詣記』(『通海参詣記』・『弘安参詣記』などともいう)に、
持統天皇四年、東の宮を作り、初めて遷御があった。
とあり、「神道五部書」の内の『造伊勢二所太神宮宝基本記ぞういせにしょだいじんぐうほうきほんぎ』にも、東の宮地に遷宮したことがみえる。神宮側の伝承によれば、内宮の正宮は最初、西殿地にあったことになる。荒祭宮は丁度、西殿地の北に位置する。
行事においても、三節祭では内宮に続いて荒祭宮を遥拝する(『儀式帳』)ことが定められていたり、神衣祭かむみそのまつりでは内宮と荒祭宮にだけ神衣にお供えする(『延喜式』「伊勢大神宮式」)など、特別扱いされている。
御祭神はアマテラスの荒魂あらみたまとなっているけど、宮名は荒魂宮ではない。荒祭宮の「荒祭あらまつり」とは、ミアレの祭を意味するという。ミアレとは「御生みあれ」で神さまが生まれ出ること。名称からも、この場所が元々の祭祀場だった可能性を示している。
このように見ていくと、内宮の建物は、荒祭宮の地を避けて建てられているようにさえ思えてくる。ここが根本的な聖地なのだと言わんばかりに。
この荒祭宮にお祀りされているのはもちろん、日の神さま。

水・風・雷・日。自然そのものといっていい神格が揃っている。正宮のアマテラスが篤く奉斎されていくなかで、神格が太陽神に収斂しゅうれんされていった結果、風はシナツヒコ・シナツトベとみなされるようになり、雷に至っては信仰そのものが消え失せてしまった……というように考えられないかな。

さて、翌朝は4時過ぎに起床。30分ほどで簡単に支度をしたら、ホテルから車を走らせる。外宮前から猿田彦神社前にかけた御木本道路みきもとどうろもさすがにガラガラで、スイスイと内宮A1駐車場に到着。ここは終日入庫可能だ。
参拝開始時間である5時になっていないため、宇治橋うじばし鳥居は柵で塞がれていた。日の出時刻を過ぎ空が明るくなり始めているけど、太陽はまだ島路山しまじやまの陰に隠れている。そんな早朝にもかかわらず、開くのを待っている参拝者が、自分たちを入れて十名ほど。
それにしても、夜明けの曖昧な空の色が奇麗だなぁ。
定刻になると、衛士えしさんが柵をどかされた。鳥居の前で一礼しては、そろそろとみな進みだす。慌てることはない、僕らはゆっくり行こう。

宇治橋の上から南の五十鈴川を見下ろすと、木除杭きよけぐいが見えた。この日は流れがとても穏やかで、水鏡に木々がくっきり映っている。

川を越え、神苑を過ぎ、火除橋を渡り、第一鳥居へ。自分たちが踏みしめる玉砂利の音のほかには、鳥のさえずりしか聞こえない。なんて清々しいんだ!

御手洗場もひっそりとしている。五十鈴川で禊ぎをした。

それから瀧祭神を参拝。知らなかったら見落としそうだよね。僕も、初めてのお伊勢参りではまったく気づかなかった。

現在も社殿はなく、玉垣の内には石畳とその上に石が鎮まっている。

元は五十鈴川の西岸にあったという。川越しに拝んだんだろうか。

境内の澄んだ空気を堪能しつつ歩いて、正宮前に着いた。二人先客がいたけど、二人とも石段の下で写真を撮っていた。解る、僕らもこの誰もいない正宮を見たかったもん!貴重だねぇ、有り難いねぇ。
気が済んだところで石段を上り、御幌みとばりの前で拝礼。一言でいえば神恩感謝だけど、色んな思いを込めて、いつもありがとうございます、と手を合わせた。
そのあと御幌より西に行って、外玉垣越しに見える範囲で正宮を眺めた。
内宮・外宮の正宮前には、賽銭箱が無い。これは私幣しへい禁断の名残だという。『皇太神宮儀式帳』には、
天皇以外の者が幣帛を進上することは重大な禁忌であり、もし欺いて幣帛を進上すれば、流罪に准じた厳罰が下される。
とあり、『延喜式』「伊勢大神宮式」には、
天皇以外の者は、大神に幣帛を供えてはならない。ただし、三后(皇后・皇太后・太皇太后たいこうたいごう)・皇太子が供える場合には、天皇から許可を得ること。
とあるように、天皇以外は神宮にお供えをしてはならないし、たとえ皇族であっても天皇の許可が必須とされた。しかし参拝そのものを禁じたわけではないので、一般民衆も詣でていたようだ。
そして現在では、お賽銭もして構わない。賽銭箱の代わりに白い布が敷かれているので、その上へ納めれば良い。

伊勢神宮の御鎮座は、垂仁すいにん天皇二十六年を公式としている。『日本書紀』垂仁巻に、
垂仁天皇二十五年三月十日、アマテラス大神をヤマトヒメに託された。ヤマトヒメは各地を遍歴の末、大神のお言葉のままに、その祠を伊勢国に立てた。
一説に、天皇は、ヤマトヒメを御杖みつえ(依り代)として、アマテラス大神に差し上げられた。それでヤマトヒメは、アマテラス大神を神木のもとにお祀りした。その後、神のお告げにより、二十六年十月の甲子きのえねの日、伊勢国の度遇宮わたらいのみやにお遷しした。
とあり、垂仁天皇二十五年はヤマトヒメが出発された年で、遍歴を経て二十六年に鎮座なさったという解釈らしい。なるほど納得。
日本長暦にほんちょうれき(延宝五年(1677)渋川春海しぶかわはるみ)』によれば、垂仁天皇二十六年の十月には甲子の日が無い。九月十七日が甲子に当たるため、十月を九月の誤写という説が採られている。九月十七日は神嘗祭の祭日であり、前日の九月十六日は式年遷宮の式日となっていることが根拠。一般に例祭日は、その神社の鎮座や遷宮などに関係のある日が選ばれるためだ。
誤写というのが少々苦しいものの、それを除けば筋が通っているように思う。

心がウキウキしっぱなしだけど、忘れずに背後の御贄調舎みにえちょうしゃも確かめる。

続いて荒祭宮へ向かう。その途中にある御稲御倉みしねのみくらは、神宮特有の建築様式である唯一神明造の特徴を、間近で観察できるスポット。正殿は4重の垣に囲われほぼ見えないし、別宮や摂社なども社殿の前に幄舎あくしゃが付いていて、全容を窺えないからね。
名前は倉だけどこれも神社。御稲御倉神をお祀りする、内宮所管社の一社だ。『儀式帳』には、
御倉みくら一院
倉四宇。
とあり、四つの内の一つが御稲御倉。他の三つは現存しないようだ。

そこから東を向くと、正殿の屋根がちょっぴり覗いていた。隠れているものが少しでも見えると嬉しい。

その先には外幣殿げへいでん。『儀式帳』には、
幣殿一院
とある。外宮は御垣の内にあって見えないけど、内宮は外にある。一般的な神社では、本殿と拝殿の間に幣殿がある例が多いけど、そうではない外にあるから外幣殿なのかな。

正宮の真裏まで進んだら、北御門から一人の神職さんが出てこられて、荒祭宮のほうへ。お邪魔になってはいけないと思い、少し遅れて向かった。すると、神職さんが荒祭宮の前に拝んだのち、宮の中へ入られ、またすぐ出てこられて立ち去られる姿を、目撃することに。何かの神事だろうか。偶然の出来事に、またしても有り難い気持ちがしみじみ湧いてきた。

神職さんを見送ったあと、僕らもお参り。さっき正宮を拝したときに、この荒祭宮をも遥拝するような格好になったんだよなぁ。記録が正しければ、この位置関係が創建時と同じなんだよなぁ。この北側に、古代の祭祀遺跡があるんだよなぁ。ご挨拶はちゃんとしたけど、色々考えちゃう場所だね。

次に忌火屋殿いみびやでん。『儀式帳』には、
御膳宿みけやどり一院
とある。ここまでは覚えていたのに、御酒殿みさかどの由貴御倉ゆきのみくらはうっかり忘れた。

四至神みやのめぐりのかみ。『儀式帳』には、
六月例十八日行事。同じ日の辰の時、神宮廻神みやのめぐりのかみまつり百二十四まえ
とあり、神宮のめぐりに座してその境界を守ってくださる幾多の神々を、この石畳に合祀している。

神楽殿の前で南に折れて、風日祈宮を目指す。良い雰囲気。

風日祈宮橋かざひのみのみやはしを渡っていると、自分たちの靴音だけがコツコツ響く。それに川のせせらぎ、初めて聞く野鳥の鳴き声。神宮の杜を独り占めしているような、贅沢な気分になる。
下を流れるのは五十鈴川の支流、島路川。元はこの川を五十鈴川と呼び、そこに架かる橋なので五十鈴川橋ともいうらしい。

風日祈宮に着く頃に陽が射してきて、なんとも神々しい光景に。

一通りお参りを終えて神楽殿まで戻ると、授与所が開いていた。
と、嫁が驚いた顔でこっそり耳打ちしてくれたんだけど、そこになんと片づけコンサルタントのこんまりさんが!どう見てもご一家のプライベートタイムのようなので、声をかけるのはやめておいた。彼女の著書などに感銘を受け、片づけだけでなく普段の買い物の基準まで変わったので、二人ともとても感謝している。アメリカに移住されていたはずだから、お仕事か何かで帰国されていて、お伊勢参りに来られたんだろうか。そんなタイミングで僕らも早朝に……またまた凄い偶然が起こったなぁ。
僕らは僕らで皇大神宮の御神札を授かった。神宮当麻はどこの神社にもあるけど、内宮で角祓を授かることに意味を感じるというか。

最後に、宇治橋のたもとから神路山かみじやまを仰ぐ。神路山は内宮南の五十鈴川上流域の総称。中でも目立つ山容をしているのが、鼓ヶ岳つづみがたけだ。橋脚のリズムと青空に映える神路山が美しい。

鳥居から出て、改めて振り返る。や~、充実した時間だった!地方の小さなお社を巡っていると、人けのない境内を心地よく歩くことがある。それはそれで大好きな時間。ただ、伊勢神宮の広大な宮域と深い杜があればこそ、清らかな静けさを味わえたんだと思う。何があるわけでもないけど、特別な体験だったよ。

【参考文献】
岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房,1970年
桜井勝之進『伊勢神宮の祖型と展開』藝林会,1992年
神宮司庁『神宮要綱』神宮司庁,1928年
筑紫申真『アマテラスの誕生』講談社,2002年
西宮秀紀『伊勢神宮と斎宮』岩波書店,2019年
林一馬『伊勢神宮及び大嘗宮に関する建築史的研究』,1999年
穂積裕昌『伊勢神宮の考古学 増補版』雄山閣,2023年
宮井義雄「地方古大社に残る原始信仰」『日本宗教史の研究 (1) 上代日本の宗教と祭祀』大沼皓二朗,1978年

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