阿射加神社 サルタヒコとアメノウズメの関係
2024年5月25日土曜日
21:06
『
とあるのが国史における初見。『延喜式』「神名式」の阿耶賀 大神に従五位下を授けられた。この神は伊勢 国一志 郡に鎮座している。
阿射加神社三座〈並名神大〉とあり、古くから崇敬されていたことがわかる、由緒正しい神社だ。
アザカの地名は『古事記』にも出てくる。ニニギが降臨するにあたり、先導を務めたサルタヒコと、そのすべてを明らかにしたアメノウズメ、二神の関係が見えてくるので、抄訳したい。
ニニギが天降ろうとする道に、上はまず、サルタヒコが溺れた時に、三つの魂の名前があるのが不思議。高天原 を照らし、下は葦原中国 を照らす神がいた。アメノウズメが正体を問うと、「私は国つ神、名はサルタヒコです」と申した。……ニニギはアメノウズメに、「サルタヒコはお前がお送りしなさい。またその神の御名は、お前が受け継いで仕えなさい」と仰せられた。こうした次第で猿女君 という氏族は、女を猿女君と呼ぶこととなったのである。
そのサルタヒコは、阿邪訶 においでになった時に、漁をしてヒラブ貝に手を挟まれて、海に沈み溺れなさった。そして、海底に沈んだ時の名を“底どく御魂 ”といい、海水の泡つぶが立った時の名を“つぶたつ御魂”といい、泡が海面にはじけた時の名を“あわさく御魂”という。
仰せを受けたアメノウズメは、サルタヒコを送ってから戻ってきて、海の魚の大小すべてを集めて、「お前たちは、天つ神のご子孫にお仕え申し上げるか」と尋ねた時に、多くの魚がみな、「お仕えいたします」と申した。……こういうわけで、天皇の御世に至ってもずっと、島の速贄 (志摩 の初物の供え物)を献ずる時に、猿女君らに賜われるのである。
サルタヒコの性質を確認したところで、次はアメノウズメとの関わり。名を明かすことは、服属を意味するとされる。サルタヒコはウズメに従った。そのうえで、ウズメはサルタヒコの名を負うことになる。ヤマトタケルのクマソ征討物語においても、タケルの名を受け継いでいる。名を得ることは、相手の力を身につけることを意味するという。つまりウズメは、サルタヒコの職能を継承したということ。ニニギの「仕えなさい」は、ウズメがサルタヒコに仕えたと解釈されることがあるけど、それでは主従が逆転してしまう。だからここは、「巫女としての職能ではなく、新たな職能をもって私に仕えなさい」とニニギが命じたと考えると、筋が通る。サルタヒコはウズメに、ウズメは引き続きニニギに付き従うわけで、ウズメが伊勢までサルタヒコを送り届けたあと、戻った先はもちろんニニギの元へだ。
ウズメが伊勢にゆかりの深い神さまであることは間違いないだろうけど、ウズメがサルタヒコとともに伊勢へ帰り、夫婦となったという解釈は、神話を素直に読む限りでは難しいと思う。
『日本書紀』では、サルタヒコは神代巻第九段の本文には登場せず、一書(第一)にみえ、
その鼻の長さと形容されている。七咫 、背の高さ七尺あまり。また口の端が明るく光っている。目は八咫鏡 のようで、照り輝いているさまは赤いホオズキに似ている。
これと合わせて考えたいのが、『伊勢国風土記』逸文。
アメノヒワケは、神武天皇の命令で東に向かうと、その里にイセツヒコという神がいた。従わないので、アメノヒワケは兵を用いてその神を殺そうとした。するとイセツヒコは平伏して、「私の国はすべて天孫(神武天皇)に献上します。私はもうこの地に住みません」と言った。夜中になって、大風が四方から起こり、波しぶきを打ち上げた。その波が光り輝くさまは太陽のようで、海も陸も明るくなった。そうしてその波に乗って、イセツヒコは東国へ立ち去った。前掲のように『古事記』でもサルタヒコは天と地を照らす神として現れており、イセツヒコとの共通点が見いだせる。
さらにこれらを踏まえて、伊勢神宮に関して述べるうえで欠かせない史料を見ていこう。
『
ヤマトヒメは、次に一志郡のとある。藤方片樋宮 においでになった。そこにいた阿佐鹿 の荒ぶる神を平定した、使いの阿倍大稲彦 命が御供としてお仕えした。その時、一志県造 らの先祖であるタケアザコに、「お前の国の名は、何というのか」とお問いになった。それにお答えして、「シシ往く呰鹿 の国です」と申し上げた。
少し時代の下る文献ながら、鎌倉時代に著されたとみられる『
とある。このアザカの荒ぶる神を、サルタヒコとする説がある。しかし、『倭姫命世記』にはサルタヒコの子孫も出てくるが、荒ぶる神と何ら結び付けようとはしていない。『日本書紀』一書(第一)においては、阿佐加 の峰に鎮座する伊豆速布留 神(荒ぶる神)が、通る人の半分を生かし半分を殺した。ある書では、安佐賀 の山に荒ぶる神がいた、といっている。
八十万の神たちはみな、サルタヒコの眼光が鋭いため、尋ねることもできなかった。とあり、出方次第では反抗もあり得たようだけど、ウズメが尋ねると、敵わぬ相手とみたか友好的な態度を取っている。荒ぶる様子は見られない。ここに「
ただ、サルタヒコ・イセツヒコ・アザカの荒ぶる神は、いずれも王権に服従したという意味では同じといえる。一見穏便に思える『古事記』でも海で溺れているのだから、その最期を暗喩しているように取れるんだよね。
阿射加神社の背後にそびえる
王権の傘下に入ってもなお、サルタヒコは地元から篤い信仰を寄せられていたんだと思う。
ウズメとアマテラスの関係性も確かめておこう。それがサルタヒコとも関わることになる。
アマテラスの考察で述べたように、アマテラスの別名オオヒルメノムチの「ヒルメ」は、太陽神に妻として仕える巫女を意味すると考えられる。
アメノウズメが天の岩屋の戸の前にとあり、『日本書紀』には、桶 を伏せて踏み鳴らし、神が乗り移った状態で、乳房をあらわに取り出し、下衣の紐を陰部まで垂らした。
猿女君の遠い先祖のアメノウズメは、手に茅を巻いた矛を持って、天の岩戸の前に立って、巧みに踊りをした。また桶を伏せてその上に乗り、神が乗り移ったように喋り踊った。とある。これとそっくりな所作のある宮廷祭祀が、鎮魂祭。新嘗祭の前日に行われたもので、『延喜式』「四時祭式」に、
とある。「鎮魂」は「たましずめ」とか「たまふり」と読み、その意義は『令義解』職員令神祇伯条に詳しい。鎮魂 祭
鎮魂。〈鎮め安らかにすることという意味である。人の陽気を魂という。魂は運動するものである。離れて遊びに出た魂を招き、身体の中に安定させる。それゆえ、鎮魂というのである。〉次第については、平安前期の儀式書『
とあるように、神話のウズメそのままだ。鎮魂という漢語を当ててしまったので勘違いしそうだけど、意味合いとしては招魂が近い。古代の人々はタマシイを、死の場合はもちろんのこと、病気など何か異常があれば動揺し、遊離しがちなものと考えていたという。御巫 (神事に奉仕する女官)が宇気槽 を覆してその上に立ち、桙 で槽 を撞く。
太陽神の岩戸隠れは、冬至を表すとされる。一年の中で最も光が弱く日の短い冬至の頃が、太陽神の魂が遊離し死ぬ日であり、ウズメの踊りによって魂を招き返すのだと。鎮魂祭も、太陽神の子孫である天皇の、魂を活気づけ健康を祈る祭祀であると。
儀式次第では
鎮魂祭に奉仕する御巫は別の氏が担っているが、本来はアメノウズメの子孫である鎮魂 の儀 は、アメノウズメの遺跡 である。なので御巫の職は、旧氏 が任ぜられるべきである。
では、猿女君氏の氏神とはどの神さまなのか。ここにサルタヒコを当てはめると、またおかしくなると思う。天孫降臨神話におけるサルタヒコの扱いの軽さはやはり、この神さまがウズメの支配下にあったことを窺わせる。サルタヒコの神格について述べたように、サルタヒコが
だからといって、猿女君氏の氏神をアマテラスであるとするのも不自然さが残る。ウズメが裸体になるのは、男神を奮い立たせるためというなら、理解しやすい。アマテラス誕生以前、伊勢の太陽神は男神と見なされていたんだろうし、だからこそ神の妻たるヒルメも必要だったんだろう。天岩戸神話にてウズメが、女神であるアマテラスに対して性的な所作を行うのは、伊勢大神が転換されたことで生じた歪みだろうね。
ウズメが神話に出てきて活躍するのは、猿女君氏が早くに王権と関係を持ち、祭祀儀礼に影響をもたらすほど勢力があったことを示しているんじゃないかな。ただ斎部広成が代弁していたように、平安期にはかなり零落していたようだけど。
ともあれ、アマテラスは天皇の、アメノウズメは猿女君氏の、サルタヒコは宇治土公氏あるいは磯部の、それぞれ神格化だと解すると、三者の関係性が整理できるように思う。アマテラスが天皇自身であり天皇の氏神でもあるように、サルタヒコは同時に磯部らの氏神でもあるので、複雑になっているんだという風に理解してみた。
さて、嬉野PAにて昼御飯でも晩御飯でもない食事を、ようやく摂れた。一志嬉野ICで伊勢道を下りて、5kmほど戻る。
大阿坂町の阿射加神社は境内が東西に延びており、東に入口がある。前は三叉路になっていて比較的幅があるので、端に寄せておけば邪魔にならないだろうと、車を停めた。
そこへ、軽トラから男性が降りてきて、鳥居のほうへ手を合わせるなり、また乗り込んで去っていかれた。日課として詣でているのかな。地元の方っぽかったし。
真っ直ぐな参道が250m続く。傾きだした黄色い陽の光が木々の間から射してきて、良い雰囲気。
参道が長いということは、広い社地を有しているということで、それだけ地域で大切にされているということでもあるよね。
三つの鳥居と一つの神門をくぐると、拝殿が見えてきた。主祭神はサルタヒコ大神。
境内社には、『倭姫命世記』などでアザカの神を鎮めたと語られる
手短に参拝を済ませたら、次は小阿坂町へ。阿坂構造改善センターの角の「猿田彦大神」と刻まれた石柱を見つつ西に折れると、神社正面に行き当たる。しかしどう頑張っても駐車できそうにないので、南側に回り込んだ。南の鳥居周辺も決して広くはないけど、目一杯路肩に寄せたら、他の車両も通行できそうだ。と停めた横を丁度通り過ぎていく車があったので、安心した。
境内の横っ腹から入った格好になったためか、参道は短い。先ほど見た正面からの道と合流。
大阿坂町と同じく、東面している拝殿にて拝礼。阿坂山を拝する形になっているわけだ。こちらも主祭神はサルタヒコ大神。この小阿坂町のほうは、社殿が三つ並んでいた。
摂社が大若子神社なのも同じ。
急いで車をどかせようとしたので、滞在時間はほんのわずか。どちらの阿射加神社も心地よい空気だったから、もっとゆっくりしたかったなぁ。何にせよ、色々なことを知るきっかけをくださったお社でもあるので、お参りでは感謝をお伝えしたよ。
さあ、あとは帰るだけ。松阪ICから伊勢道に乗って、3時間のロングドライブ。途中、中国道の西宮名塩SAでトイレ休憩を挟んだだけで、夕食は帰宅してからにした。
時間に余裕を持たせた旅程にもかかわらず、盛りだくさんになった!様々な出会いに満ちていた。嫁と振り返っていても、会話が弾む。本気で毎年お伊勢参りしようかって考え始めている。今回体験しきれなかったこと、回らなかった所もあるしね。一生に一度じゃもったいない!
【参考文献】
井出至「記紀の神話における猿田彦神」『人文研究 19(9)』大阪公立大学大学院文学研究科,1968年
井上さやか「『古事記』天石屋戸神話における天宇受売命」『万葉古代学研究年報 (15)』奈良県立万葉文化館,2017年
岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房,1970年
菊池威雄「柿本氏と猿女君:殯宮挽歌をめぐって」『国文学研究 (81)』早稲田大学国文学会,1983年
猿田正祝「猿田毘古神話の構造:服属の二重性をめぐって」『国学院大学大学院文学研究科論集 (14)』国学院大学大学院,1987年
田中智樹「猿田毘古神と天宇受売命の物語」『中京大学 上代文学論究 (13)』中京大学,2005年
穂積裕昌『伊勢神宮の考古学 増補版』雄山閣,2023年
松前健「鎮魂祭の原像と形成」『古代伝承と宮廷祭祀』塙書房,1974年
松村武雄「天孫降臨の神話」『日本神話の研究 (3)』培風館,1955年
溝口睦子『アマテラスの誕生』岩波書店,2009年
三谷栄一「古事記の成立と稗田阿礼」『古事記成立の研究:後宮と神祇官の文学』有精堂,1980年
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