伊雑宮の御神田にある古代ロマン

2024年5月25日土曜日 12:25
伊雑宮いざわのみやは、三重県志摩市磯部町上之郷いそべちょうかみのごうにある神社。内宮から距離が離れているので、瀧原宮たきはらのみやとともに遥宮とおのみやとも称される。伊雑宮は別宮べつぐうでただ一つ神田を持ち、そこには古代のロマンが秘められているかもしれない。
同市阿児町鵜方あごちょううがたにある横山展望台と合わせて巡ってきたよ。

伊勢志摩は御食つ国みけつくにといわれる。御食つ国とは天皇の食料を献上する国の意だけど、「律令」や「式」にどの国がそれであるといった規定は無いようだ。とはいえ、『万葉集』の大伴家持おおとものやかもちの歌(巻6-1033)に、
御食国みけつくに 志麻しま(志摩)の海人あまならし ま熊野の 小船おぶねに乗りて 沖辺おきへ漕ぐ見ゆ
とあり、作者未詳の長歌(巻13-3234)にも、
やすみしし わご大君おおきみ 高照たかてらす 御子みこきこ御食みけつ国 神風かむかぜの 伊勢の国は……
とあるように、宮廷の人々には志摩国・伊勢国が御食つ国と認識されていたことがわかる。また『延喜式』「大膳式」四祭春料条に、
御膳神みけつかみ八座
……島鰒しまあわび(志摩アワビ)、熬海鼠いりこ(干しナマコ)、たこ、雑きたい(塩漬け)各六斤。……
とあり、神饌として志摩のアワビが定められていたりする。遅くとも平安時代には、志摩の海鮮がブランド化していたわけだ。
志摩という国名については、『古事記伝』で宣長先輩が、
志摩はもと伊勢国の内で、島々が多くある所を分けて一国としたもので、後々までも伊勢に付属する国である。そうであれば、ここに「島」とあるのも伊勢の海の島であって、つまり志摩国である。
と説くように、たくさん島のある国、「島」の国と考えられている。

伊勢神宮の別宮で唯一伊勢国外にあるのが、志摩国の伊雑宮だ。『皇太神宮儀式帳』に、
伊雑宮一院〈志摩国答志とうし伊雑いざわ村に在り。大神宮の南へ八十三里。〉天照大神の遥宮と称する。御形は鏡に座す。
とあり、『延喜式』「伊勢大神宮式」にも、
伊雑宮一座〈大神の遥宮。志摩国答志郡に在り。大神宮の南へ八十三里。〉
とある。ところが、同「神名式」志摩国答志郡には、
粟島坐伊射波あわしまにますいざわ神社二座
同島坐神乎多乃御子かむおたのみこ神社
とあるのみで、伊雑宮の記載が無い。そのため、伊雑宮をどの社に比定するか諸説あって、定説をみない。「正倉院文書」の神亀六年(729)の『志摩国輸庸帳ゆようちょう』断簡には、
粟島神戸課丁五
……
伊雑神戸課丁六
とあって、「粟島神」と「伊雑神」が粟島坐伊射波あわしまにますいざわ神社の二座に当たるとの説に、ひとまず従っておこう。とすれば、アマテラスの考察で軽く触れたように、「粟島神」とはワカヒルメのことと思われるので、残る「伊雑神」が伊雑宮の御祭神ということになるね。

伊雑宮の御祭神、ひいては伊勢神宮の御祭神の神格を考えるうえで参考になるのが、伊雑宮御田植式おたうえしき。「磯部の御神田おみた」の名で重要無形民俗文化財に指定されているお祭りだ。起源については平安末期の成立と伝わるが、記録としては鎌倉時代とか南北朝時代とか、あるいは江戸中期以後にしか無いとか、ともかく信頼できる史料はそこまで遡れない。明治初期に中絶したが、その後復活。元来は別々だったいくつかの祭祀が融合して、現在の形式になったと考えられている。
中でも注目したいのが、「竹取り神事」。サシバとかゴンバウチワとか単にウチワなどと称する大団扇を取りつけた忌竹いみだけを畦に立て、それを倒して漁師たちが田の中で奪い合うというもの。そのウチワの一部をお供えして、豊漁祈願をするという。その後、「御田植の神事」が始まる。田を舞台としながら豊漁も豊作も祈念するのは、志摩の地が古来より半農半漁の生活をしているからだろうね。
ウチワに描かれているものは、現在は松や太陽、太一の文字や帆船などだけど、その内容も形も変遷があるようだ。ただその意味するところは変わらず、田の神の依り代とみて間違いないだろう。太陽があってこそ稲穂が実るという観念が根底にあって、太陽がウチワに扇がれて田に宿るわけだ。太陽神には田の神、農業神としての側面もあるのだ。
のちにサルタヒコ(猿田彦)と称されるようになる伊勢大神、サルタヒコの子孫というオオタ(大田命)、いずれも「田」に本質がある名義だと思う。元は田の支配者としての名だったにしても、豊作をもたらすために田に招かれる太陽神としても、相応しいんじゃないかな。
ワカヒルメも、太陽神に仕えるヒルメの神格化であるなら、なるほどアマテラスの分身といわれるのも納得する。

さて、日の出参拝のあと、この日もホテルに帰ってもうひと眠り。拠点としてホテルを活用しまくる、この方法はとても有効だとわかった。3時間ほど寝て、10時前にチェックアウト。それから伊勢と志摩を結ぶ伊勢道路をドライブし、横山展望台を目指した。
横山ビジターセンターを過ぎ、展望台に最も近い駐車場へ折れる路の前に、警備員さん。あ、嫌な予感。案の定、上の駐車場が満車なので、待つか、奥の駐車場に停めて歩くかの選択を求められた。土曜日だしね、仕方ないか。待つ時間が無駄だし、歩こう。
ということでP1駐車場に停め、どっちが展望台だ?と迷っていると、近くの施設のスタッフさんだろうか、ご親切にも道を教えてくださった。有り難い。

「横山展望台入口 530m 約15分」と書かれた案内板を確かめ、山道を登り始める。階段って余計に疲れるからやめてほしいよね、なんて嫁と話したり、途上に設けられたクイズを茶化したりしながら、ゆっくり彼女のペースで。

まあまあキツかったけど、10分でP2駐車場に到達。そこからでも結構な展望があったけど、あと少し頑張る。

5分で横山天空カフェテラスに到着。おー、気持ちのいい眺め!入り組んだリアス海岸と、英虞湾あごわんに浮かぶ島々が一望できる。これが“シマの国”かぁ。
もう何年も前にブラタモリでタモさんがこの絶景を見ていたことがあって、その時いいなぁって思って以来、ずっと行きたかった場所なんだよね。やっと叶えられた。しかも快晴。

賢島のリゾートホテルや志摩地中海村、真珠養殖のいかだも見える。こういう景色って、ただ眺めているだけで楽しい。

ちょっと疲れたし、カフェ『ミラドール志摩』で休憩。伊勢ほうじ茶ソフトクリームを二人で分け合った。旅行中、あちこちでほうじ茶が出されたけど、名産なのかな。何気なくレシートを見たら「株式会社 志摩地中海村」とあって、そこが運営しているのかと、別のことを知った。
ソフトを頬張っているとき、見るからに足腰の弱そうな杖を突いたおばあさんと、連れの若い男性が目に留まった。スロープがあるとはいえ、ここまで大変だったんじゃないかな。お孫さんかな、もうちょっと連れていく場所考えてあげなよ、なんて思ったけど口には出さなかった。

続いて、伊雑宮までは車で20分足らず。ここの参拝者駐車場は、割と広いので助かる。

手水舎を過ぎて参道を行くと、一段下がった所に井戸があった。域内図にも『神宮要綱』にも載っていないので、子細はわからない。

その先には忌火屋殿いみびやでん。建物の特徴ですぐに判別できた。ということは、井戸は大御饌のための御料水だろうか。

お宮と古殿地の上だけぽっかり開けていて、青空を四角く切り取ったみたいだ。
幄舎あくしゃにて拝礼。御祭神は天照座皇大御神御魂あまてらしますすめおおみかみのみたま。アマテラスのみをお祀りし、一座ということだね。

お参りを終えたら、南に隣接する御神田を見学。あとで気づいたけど、神田には駐車場の裏手からも行けた。御田植式までひと月あるので、まだ水も張られていない。
そして神田の奥に、意味ありげに立つ柱。

ここで、前日に見た猿田彦神社の神田を確認したい。伊雑宮では柱がある位置に、榊が植えられている。

伊雑宮の神田では柱となっているけど、神さまの依り代としか思えないんだよね。「竹取り神事」で掲げられるのが忌竹というのも示唆的。この柱は忌柱いみばしら、つまり正殿の床下の中央に立てられる、心御柱しんのみはしらに当たるものじゃないのかな。
今ではこの柱の意味を知る人はいないらしいけど、古代の祭祀の姿を残しているとしたら、ロマンだよね~。

よく伊勢志摩と一括りにされ、実際元々は伊勢国の一部だった志摩。実際訪れてみると、だいぶ雰囲気が違う。今回はピンポイントだったけど、次に行く時はもっとじっくり色んな所を回ってみたいな。

【参考文献】
岩田準一『鳥羽志摩の民俗』鳥羽志摩文化研究会,1970年
岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房,1970年
古典と民俗学の会『伊雑宮の御田植祭』古典と民俗学の会,1980年
阪本広太郎『神宮祭祀概説』神宮司庁教導部,1965年
筑紫申真『アマテラスの誕生』講談社,2002年
堂野前彰子「海から寄り来るもの:伊雑宮御田植祭の神話世界」『古代学研究所紀要 (8)』明治大学日本古代学研究所,2009年

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