アマテラスと伊勢神宮の成立について考察してみた~前編

2024年5月24日金曜日 04:00
これから、皇室の御祖先神という非常にセンシティブな話題を取り扱うので、前もって断りを入れておくね。
この記事は、神話や信仰を否定するものではないし、現在の皇室を批判する意図も一切ない。だけどもし気分を害されたのなら、読むのやめていただければと。
僕は日本神話が大好きで、『古事記』や『日本書紀』だけでなく、『風土記』や各地の言い伝えの、ありのままの姿を大切に思っている。一方それはそれとして、神話・伝承の成立背景や史実を紐解き、知的探求する気持ちも併せ持っている。僕の中で、これらは何も矛盾していないんだよ。



アマテラス大御神が、伊勢神宮の御祭神であり、日本神話において八百万やおよろずの神々の頂点に君臨する最高神であり、太陽の女神であり、皇祖神こうそしんでもあることは、周知の通り。ところが、歴史をさかのぼると、元来は皇祖神ではなかったかもしれない。しかも、アマテラスが皇祖神となったのは、かなり新しい時期のようなんだよね。
皇祖神アマテラスの成立をめぐる論考は、その時期を雄略ゆうりゃく朝とするか天武てんむ持統じとう朝とするか、その神が地方神の昇格か王権の氏神うじがみの遷座かなど、まさに百家争鳴でいまだに定説をみない。諸説紛々であることは重々承知のうえで、自分なりに納得することを目指したよ。
以下、煩雑さ回避のため、『古事記』は『記』、『日本書紀』は『紀』として、神代巻なら『神代記』、『神代紀』などと表記する。

アマテラスの孫ニニギの降臨について、『神代記』ではアマテラスとタカミムスヒが並んで司令するけど、『神代紀』本文ではタカミムスヒだけが命じる形となっている。研究者の間では、天孫降臨の司令神はタカミムスヒとするのが、すでに共通認識となっているそうだ。つまり、タカミムスヒ系の降臨神話のほうが古いとされる。
神武じんむ紀』に、「顕斎うつしいわい」といって、タカミムスヒの霊を神武天皇の身に憑りつかせ、天皇自らタカミムスヒとなる儀式を行い、戦勝祈願したことがみえる。これが、建国を達成したあかつきに、

「『我が皇祖の霊が天から降り眺められて、我が身を助けてくださった。今、多くの敵をすべて平らげて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい』と詔された。それで霊畤まつりのにわ(祀りの場)を鳥見山とみのやまの中に設けて、皇祖天神みおやのあまつかみを祭った。」

とあることと対応するとみられる。祈りが通じたので、感謝を捧げたのだ。ここでは「皇祖天神」はタカミムスヒであると読める。
月次祭つきなみのまつり」という『養老律令』の「神祇令」にも規定された宮廷祭祀は、天皇自らが祀る二つの祭りの内の一つ。その祝詞では、タカミムスヒをはじめとする宮中八神への感謝が述べられる。神武天皇の行った祭りを彷彿させるだけでなく、朝廷で特に重要視された祭りの対象として、タカミムスヒが含まれることに、皇祖神であった名残を留めているといえる。
ここで、タカミムスヒの語義を確かめておこう。「タカ(高)」と「ミ(御)」は美称で、二つ重ねることで最上級の美称としている。皇位を表す高御座たかみくらと同様だ。「ムス」は息子むすこや苔すのムスで生成の意。「ヒ」は霊力説と太陽説があるけど、太陽すなわち日とする説に従いたい。とすれば、ムスヒは「万物を生成する日」を意味することになる。

日本の建国神話と古代朝鮮半島の建国神話が酷似していることに以前触れたけど、「天帝」は明らかに「太陽」だった。タカミムスヒが太陽神であるとして良いなら、ここにピタリと符合する。
この原建国神話というべきものが導入された頃は、

タカミムスヒニニギヒコホホデミ(神武天皇)

という系譜が想定されていたんじゃないか。それが、アマテラスを皇祖神に据えることとなったため、

アマテラスオシホミミニニギ
タカミムスヒタクハタチヂヒメ

と架上することで、タカミムスヒとアマテラスの系譜と結合させたのではと。
タクハタチヂヒメに当たる女神は、『記』ではヨロズハタトヨアキツシヒメとなっている。「ハタ」が共通しており、『雄略紀』に、伊勢大神の祠に仕えた栲幡姫たくはたひめという「ハタ」の付く皇女ひめみこが出てくることも、何かを示唆していそうだ。これについては後編で述べる。
タカミムスヒが皇祖神だった頃、アマテラスは一地方の神に過ぎなかったかもしれない。

ということでここからは、アマテラスについて見ていこう。
まず、ウケイ神話のあらすじを挙げておく。『神代紀』本文とは大同小異なので、『神代記』より。

高天原たかまのはらに上ってきたスサノオと、彼に邪心があると疑うアマテラスは、疑いを晴らすために誓約うけいをすることになった。アマテラスがスサノオの剣を用いて生まれたのは、タキリビメら三柱の女神。スサノオがアマテラスの勾玉を用いて生まれたのは、“正勝吾勝々速日マサカツアカツカチハヤヒ”アメノオシホミミら五柱の男神。アマテラスは、『五神の男子は自分の物から成ったから、私の子です。三神の女子はあなたの物から成ったから、あなたの子です』とお分けになった。そこでスサノオは、『私の心が潔白だから、女神を得られたのです。ということは、私の勝ちです』と言った。」

誓約うけいというのは、こうなったら吉でこうなったら凶と決めてから占うものなのに、いきなり神生みを始めたうえ、“まさしく勝った私が勝った”と冠する男神らは自分の子だとアマテラスが認め、さらに女神を得たはずのスサノオが、後だしジャンケンのように勝利宣言する。ツッコミどころ満載の神話として知られるけど、元々はアマテラスとスサノオによる神の生みくらべ神話だったんじゃないか。
『神代紀』の一書(第一・第三)では、三女神はアマテラス(日神)の子となっている。しかも第三の一書では、男神を得たことが潔白の証明になっており、素直な筋書きといえる。一書のほうが原形に近いのだとすれば、アマテラスの子は女神で、男神を得なかったことになる。
しかし、前掲の系譜を成り立たせるには、アマテラスが男神を得る必要がある。そこで、『紀』本文や『記』ではオシホミミら男神がアマテラスの子となった、と考えられる。

次に、天岩戸あめのいわと神話。これと天孫降臨神話は、間に出雲いずも神話を挟んではいるものの、繋がっているという指摘も度々されている。加えて、天孫降臨神話はタカミムスヒ系が原形に近いとされている。そこで『神代記』をベースに、
天岩戸神話 + (天孫降臨神話 - タカミムスヒ系要素)
とした形で示してみよう。

「勝ちにまかせてスサノオは、アマテラスの作った田の畔を断ち切るなど、大暴れ。それでもアマテラスは咎めなかった。アマテラスが機織はたおり小屋で神衣かむみそを織らせていた時、スサノオは小屋の棟に穴を開け、そこから馬を落とし入れたところ、機織りが驚いた拍子にケガをして死んだ。これを見て恐れたアマテラスは、天岩戸あめのいわとに閉じこもった。このため、天も地も真っ暗闇となった。
そこで八百万やおよろずの神々は、オモイカネに思案させた。五種の職能を司る神々が祭祀の用意をして、アメノウズメが伏せた桶を踏み鳴らし踊ると、笑いが起こった。不思議に思ったアマテラスが天岩戸を少し開けた時、アメノタヂカラオがその手を取って、引き出した。すると天と地に日の光が射して、明るくなった。
それから天降ろうとする道に、輝く神がいた。アメノウズメが正体を問うと、『私はサルタヒコです。ご先導をしようと思って、お迎えに参っておりました』と答えた。そこで、五種の職能の神々を分け加えて、天降りした。またここに、勾玉・鏡・剣と、オモイカネ・タヂカラオ・アメノイワトワケを添えて、『この鏡は我が御魂みたまとして、私を拝むと同様に、祝い祭りなさい』と仰せになった。次に、『オモイカネは先ほどのことを取り仕切り、祭事を執行しなさい』と仰せられた。この二神は、五十鈴宮いすずのみやを拝み祭った。」

主語が明瞭でない部分を補っていくと、要するに――機織り女の死を契機に天岩戸に隠れたアマテラスは、オモイカネの作戦によって、ウズメの踊りで誘われ、タヂカラオに引き出された。それからアマテラスの御魂みたまが降臨しようとすると、サルタヒコが迎えに参じた。アマテラスは、サルタヒコには三種の神器などを添えつつ、鏡を自身として祀るよう命じ、オモイカネには祭事を取り仕切るよう命じた。仰せに従い、サルタヒコとオモイカネの二神は、五十鈴宮いすずのみやを拝みお祀りした――という風に解釈できる。そう、これらは伊勢神宮の創建神話とも読めるんだ!
タヂカラオの役割は佐那神社のところで語ったので割愛するとして、オモイカネは、与えられた役割や後裔こうえい氏族が見当たらないことなどから、神官の神格化とみられる。

残るサルタヒコの役目を見ていくと、伊勢いせへの降臨神話であることがさらにハッキリしてくる。
「五十鈴宮」とあるので、『記』の中だけでもちゃんと完結しているんだけど、『神代紀』にも同じような一書があるので、引いておきたい。第九段一書(第一)に、ウズメがサルタヒコの正体を明かさせたのに続き、

「ウズメはまた、『お前はどこへ行こうとするのか。皇孫すめみま(ニニギ)はどこへおいでになるのか』と問うと、サルタヒコは、『天つ神の御子は、筑紫つくし日向ひむか高千穂たかちほのクシフルたけにおいでになるでしょう。私は伊勢の狭長田さなだ五十鈴いすずの川上に行くでしょう』と答えた。その後、言葉通りに着いた。」

とある。ウズメの巧みな誘導尋問というべきか、サルタヒコの行先まで答えさせる、とても不思議な問答だよね。ともあれ、サルタヒコが伊勢からお迎えに参ったことが、より明白になったと思う。

このように、『記』では天孫降臨と並行して、伊勢神宮創建が語られていたといえる。だから崇神すじん天皇段や垂仁すいにん天皇段で、

「トヨスキヒメは、〈伊勢大神の宮を拝みお祭りした。〉」
「ヤマトヒメは、〈伊勢大神の宮を拝みお祭りした。〉」

と、アマテラスの御魂が伊勢に鎮座されていることを前提にした、皇女たちの記述があるわけだ。
結局、ニニギは国を譲ってもらったはずなのに、出雲にも大和やまとにも降らず日向ひむかに降るし、サルタヒコは伊勢に帰る。五伴緒いつのとものおと称される五種の職能の神々も、オモイカネもタヂカラオも、ニニギの下では活躍しない。こうしたちぐはぐな部分も、伊勢降臨神話を選り分けてみると、解消されるんじゃないかな。

では、『紀』には何と記されているのか。といえば、むしろこちらのほうはよく知られている。

崇神すじん天皇の御世、皇居内に祀られていたアマテラスは、トヨスキイリヒメに託され、やまと笠縫邑かさむいのむらに移されることになった。
続く垂仁すいにん天皇の御世、アマテラスは、トヨスキイリヒメからヤマトヒメへと託された。ヤマトヒメは大神の鎮座なさる所を探して、莵田うだ筱幡ささはたに行った。さらに引き返して近江おうみ国に入り、美濃みのを巡って伊勢国に至った。その時アマテラスが、『この国に居りたい』と仰せになったので、その祠を伊勢国に立てた。そして斎宮いつきのみや五十鈴いすずの川上に建てた。これを磯宮いそのみやという。アマテラス大神が、初めて天より降られた所である。」

『神代紀』本文では、天孫降臨神話でアマテラス降臨に触れていない。なので、ヤマトヒメが各地を遍歴した末に伊勢へ至り、五十鈴川いすずがわのほとりに建てられた斎宮いつきのみやにて“初めて”降臨した、ということになっている。以降、皇女が伊勢神宮に奉仕したという記事が現れるようになる。
『紀』と『記』の構想の違いが興味深い。それに、こうした揺らぎがこの伝承の新しさを窺わせるね。

次にアマテラスが登場するのは『神功じんぐう紀』。前段の『仲哀ちゅうあい紀』を絡めて抄訳する。

仲哀ちゅうあい天皇が、九州のクマソ討伐を群臣たちに相談していると、神功じんぐう皇后が神懸かりして、『クマソは不毛の地。それよりも、海の向こうの新羅しらぎ国には財宝がたくさんある。もしよく私を祭ったなら、その国はきっと服従するだろう。その祭りをするには、天皇の船と水田をお供えとしなさい』と託宣された。仲哀天皇は神の言葉を信じられなかったところ、急病になって亡くなられた。
神功皇后が、仲哀天皇にお告げをした神さまの名前を尋ねられたところ、
神風かむかぜの伊勢国の百伝ももづた度逢県わたらいのあがたの、さくすず五十鈴宮いすずのみやにいる撞賢木厳之御魂天疎向津媛ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ
尾田おだ吾田節あがたふしあわ郡にいる神
・コトシロヌシ神
・住吉三神
があると言われた。その後、神託に従って新羅征伐に成功。帰還する際、船が進まなくなったので占ったところ、
・アマテラスが、『我が荒魂あらみたまを近くに置くのは良くない。広田ひろた国に置くのが良い』
・ワカヒルメが、『私は活田長峡いくたのながお国に居りたい』
・コトシロヌシが、『私を長田ながた国に祀るように』
・住吉三神が、『我が和魂にぎみたま大津おおつ渟中倉ぬなくら長峡ながおに居らせるべきである』
とそれぞれ教えられた。」

「五十鈴宮」は伊勢神宮のことで、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」という長ったらしい名前は、アマテラスの荒魂あらみたまの名ということになる。『仲哀記』では、神託の時点でアマテラスと名乗っている。また、「吾田節あがたふし」は志摩しま国の答志とうし郡、「あわ郡」は粟島あわしまとされ、「粟島坐伊射波神社」(「神名式」志摩国答志郡)を指すという。
ここに現れたアマテラスは、到底皇祖神とは思えない。妹分のワカヒルメらと結託して領土拡大を持ちかけ、協力の見返りに船と田を要求し、信用しなければ天皇であっても殺して霊異を見せつけ、首尾よく事が運んだあとには、畿内に新たな拠点まで求めてくる始末。伊勢・志摩の神々やその背後にいる祭祀集団に対する、王権から見たイメージが投影されているんだろうね。
ところで、アマテラスの荒魂とされる名前は、解釈がメチャメチャ難しい。前半の「撞賢木厳之御魂」はまだわかりやすいほうで、サカキ(常緑樹)にく荘厳な御魂といったところだろう。「天疎あまさかる」は、都から離れた所の意の「ひな」などにかかる枕詞。「ムカツ」の例としては、『紀』に「向津野大済むかつのおおわたり」(仲哀天皇八年正月壬午)、「向津国つにむかえるくに」(仲哀天皇八年九月己卯)、『万葉集』にも「向峰むかつお」(巻7-1099)、「牟可都乎むかつお」(巻14-3448)などがある。これを踏まえて「向津媛」を素直に語訳したら、遥かに離れた向こうの姫となる。これを宣長先輩(『古事記伝』)に言わせれば、
「天疎向津媛」と申すは、この国土より天日を仰瞻あおぎみ奉る意の御名なり。
と実に明快。こう理解して良いなら、太陽女神の名前に思えるね。

時代が下って、『記』・『紀』編纂の時代から50年ほど前と、割と新しい記事を示しておこう。『皇極こうぎょく紀』四年(645)正月条に、

「丘の峰続き、あるいは川辺、あるいは宮寺の間に、遥かに見える物があり、猿のうめくような音が聞こえた。行ってみると物は見えなくて、なお鳴きうそぶく音が聞こえた。しかしその姿を見ることはできなかった。〈古い本によれば、『この年、都を難波なにわに移して、板蓋宮いたぶきのみやが廃墟となる兆しだった』といっている。〉人々は、『これは伊勢大神の御使いだ』と言った。」

と、アマテラスの神使として猿が現れ、国家の重大事を予言したという風説が流れたとある。国家を担う神ではなく、他人事のように予言する神として、人々に認識されている。これも明らかに、皇祖神としての姿ではない。伊勢地方の神が、世間に広く知られていることも読み取れるよね。
なお、猿が太陽神の御使いとされるのは、顔が赤く日の出前に騒ぐ習性をもつことから、古代の人々にはそのように観念されたのではないかと。

勢い『記』・『紀』における伊勢神宮起源譚から語ってしまったけど、アマテラスの別名も取り上げておきたい。その誕生を『神代紀』本文より。

「イザナギとイザナミが一緒に日神ひのかみをお生みになった。オオヒルメノムチという。〈一書にアマテラス大神といい、またアマテラスオオヒルメ尊という。〉」

『記』は一貫してアマテラスとして出てくるけど、『紀』は日神ひのかみやオオヒルメノムチなどの別名を載せている。むしろアマテラスのほうが別名扱い。

オオヒルメノムチの「オオ」は美称、「ヒルメ」は日の(太陽神に妻として仕える巫女)説を採る。
日の女説にも惹かれるんだけどね。天岩戸神話でみたように、機織り小屋で神衣かむみそを織るのは巫女の投影だとの主張があるけど、機織りを巫女の役目とするのは実はあまり根拠が無いらしい。それに、アマテラス自身が機織りをするのは『紀』本文のみ。一書(第一)では機織りはワカヒルメがしているし、一書(第二)では小屋にいるだけで機織りをしていたかは明瞭でないし、『記』では機織り女にさせている。そのうえでアマテラスの機織りに着目するのであれば、つまるところ、アマテラスは田を営みもすれば機織りもする、人と変わらない生活を送っている神さまなんだと。さらにいえば、太陽神の機織りの神話が東南アジアなどに存在するという。比較神話学の見地から意味づけるなら、機織りとは世界を織り造ることであり、世界の秩序を織り上げることであると。
それでも、だ。『皇太神宮儀式帳こうたいじんぐうぎしきちょう(延暦二十三年(804))』職掌雑任条に、

大物忌おおものいみは、無位神主の小清女こきよめ。父は、無位同の黒成。……職掌は、アマテラス大神の朝の御饌みけ・夕の御饌をお供え奉ること。」

とあり、大物忌おおものいみと呼ばれる御饌みけをお供えする童女と、その介添え役の父が役職として定められているのだけど、新宮造奉時行事并用物事条には、

「正殿の心柱しんのみはしらを造り奉る……。〈その柱の名は忌柱いみばしらと称する。〉
……禰宜と大物忌は忌柱を立て始める。」

とあり、また『皇太神宮年中行事(建久三年(1192)荒木田忠仲あらきだただなか)』六月十六日条に、

「物忌父たちは御殿の下に火を三か所灯し、次に御饌をお供えする。」

とあるように、式年遷宮において大物忌の童女は心御柱しんのみはしらを立て、重要な祭典である三節祭においては、大物忌とその父だけが正殿に近づき、御神饌を据えるのだ。それも、「御殿の下」に。正殿の下にあるのは心御柱。これは、心御柱を御神体として扱っているといえる。詳細は別に譲るけど、皇大神宮第一の別宮である荒祭宮あらまつりのみやこそが、本来の神宮の御祭神だった可能性がある。そうであれば神籬ひもろぎである心御柱も、元は荒祭宮の床下に据えられていたのかもしれない。
トヨスキヒメやヤマトヒメを元祖とし、天皇の名代として伊勢神宮に奉仕する斎王さいおうについて述べた時、祭祀におけて斎王がほとんど神事らしい行為を行っていないと指摘した。だけど、殿舎に籠ること自体に宗教的意味があるとしたら。というのも『延喜式』「伊勢大神宮式」などに、正殿のみの装束として、
錦枕二枚。
がみえるのだ。枕が二つ。一つは日神ひのかみの枕で、もう一つは日の妻ヒルメの枕だと考えられる。斎王が籠るのは、神婚儀礼のためだったんじゃないかな。太玉串を日神に奉納したあとは、斎王はヒルメの神として拝まれる立場となったんじゃないかな。でないと『皇太神宮儀式帳』に、

「大神宮を拝礼して退出する。それから荒祭宮あらまつりのみやに向かって遥拝する。〈ただし、内親王(斎王)は荒祭宮を向かない。〉」

と、但し書きが付くことが説明できないと思う。
実在が確実視されている斎王が天武朝の大来おおく皇女で、それ以前の斎王派遣の記事には、その信憑性に疑問を持っていることも、先のエントリーで言及した。少なくとも、伊勢神宮の前身においては、斎王はいなかったんじゃないか。『儀式帳』には大物忌の起源も記されていて、

「ヤマトヒメが朝廷にお還りなさった時に、今の禰宜神主の先祖であるアメノミトオスの子孫のカワヒメをヤマトヒメの御代わりに大物忌とし、カワヒメを大神にお仕えさせるようにした。」

とあり、ヤマトヒメに代わって、内宮ないくうの禰宜となった荒木田あらきだ氏の祖先というカワヒメが、大神にお仕えしたというのだ。内宮の荒木田氏からすれば、代々御祭神にかしずいてきたのは、一族の娘だと言いたいわけだ。しかも、王権から遣わされてきたヤマトヒメは、大和に帰ったと。これらの主張も見逃せない。ヤマトタケルは大和にいる叔母を尋ねたのではという推測も、ここから裏付けられる。
それはさておき、日々伊勢大神に仕える少女の姿が神格化されていった、その可能性は大いにあり得る。巫女の神格化は日本では珍しくないし、巫女などの神に奉仕する者の籠る建物が神殿に昇格する例もまた、珍しいものではないという。

「ヒルメ」の意義を説くのに行数を費やしてしまったけど、もうひとつ、オオヒルメノムチの「ムチ(貴)」は特別な尊称で、他には、宗像三女神を総称していうチヌシノムチ(道主貴)しかいない。『雄略紀』に、

凡河内香賜おおしこうちのかたぶ采女うねめを遣わして、胸方むなかた(宗像)神を祀らせた。」

とあるように、宗像神は王権による直接祭祀が行われた記録があり、考古学からも沖ノ島の調査によりそれが裏付けられている。翻って、伊勢大神も直接祭祀を受けていた可能性は十分ある。
ちなみに、オオナムチも「ムチ(貴)」が付くけど、「オオナ」だけでは名称として成り立たない。オオアナムチ(あるいはオオアナモチ)の「ムチ」に、貴の字が当てられただけのことで、尊称ではない。
イザナギ・イザナミは、淡路島周辺の海人族を中心に信仰されていたのが次第に広がったとされるように、アマテラスも海人族に信仰された太陽神らしい。海人族の観念では、太陽も月も船に乗ってやってくると考えられたという。イザナギの禊ぎは海辺で行われるし、その中でワダツミ三神や住吉三神が生まれるし、アマテラスも左目を洗った時に生まれている。ワダツミを祖神おやがみとする阿曇あずみ氏は、海人族のみこともち(首長)だ。宗像三女神がアマテラスの子だとする一書も、こうした流れで捉えれば受け入れやすいかと。

続いては、伊勢神宮の前身となる祭祀場が、いつどこからスタートしたのかに入りたい。
先に確認しておきたいのが、古代の祭祀の在り方。現代人にとって神社は、厳かな社殿が佇んでいるさまを思い浮かべがち。だけど古代においては、神霊を招き降ろすためにさかきなどの神籬を立てたなら、そこはもう神さまのおわす聖地になるということ。本殿が無く拝殿を通して三輪山みわやまを拝むという、奈良県の大神おおみわ神社の在り方が近しい。
いきなり核心に触れてしまうのだけど、内宮域内から、祭祀に用いられたとみられる滑石製模造品かっせきせいもぞうひん類と土器類が出土している。その発掘された臼玉の特徴から、5世紀頃の遺跡と考えられている。出土が広範に及ぶことから、古墳時代の祭祀遺跡としては大規模な存在だという。
加えて、この地域の同時代の古墳で、首長墓に相当するものは不明瞭といわれている。つまり、この大規模な祭祀場に釣り合うだけの、在地勢力が見当たらないのだ。となれば、王権が関与した蓋然性がいぜんせいが高い。

朝鮮半島の建国神話が日本に導入された可能性を、最初のほうに紹介したけど、導入の時期にまで踏み込んだ論考がある。第19代高句麗こうくり国王の功績を称える碑文が刻まれた「広開土王こうかいどおう好太王こうたいおう)碑」により、5世紀初頭に倭軍と高句麗軍が激突し、倭軍は大敗したことが知られる。飛鳥時代の白村江はくそんこう/はくすきのえの戦や、幕末の黒船来航にも似た、5世紀は激動の時代だったというのだ。外的危機意識により支配者層の思想の大変革が迫まられ、より強固に結集するための王権神話を求めたとする。
5世紀といえば、「倭の五王」の時代。仁徳にんとく(あるいは履中りちゅう応神おうじん)天皇から雄略天皇にかけた頃で、『紀』や「稲荷山鉄剣銘文」などから、新体制を確立していくさまが読み取れる。そういう時代だったんだね。
奇しくもというのか、ある意味当然なのか、これが、五十鈴川のほとりの大規模祭祀場が出発した時期と一致する。とはいえ、せっかく取り入れたばかりの皇祖神タカミムスヒを、いきなり大和の外へ出すのかというと、それはちょっと考えにくい。宮廷祭祀の中にタカミムスヒは残っていたし、宗像神の例もある。伊勢大神はあくまで伊勢の地方神であり、在地勢力の協力のもと委託祭祀を行っていた、と考えたほうがしっくりくる。

さて、タカミムスヒとアマテラスについて整理できたところで、皇祖神の転換がいつ行われたと考えられるか、見ていこう。
契機はズバリ、壬申じんしんの乱。天智てんじ天皇の嫡子大友皇子おおとものみこと天皇の弟大海人皇子おおあまのみこ(のちの天武天皇)が皇位継承をめぐって起こした、古代史最大ともいわれるこの争乱をおいて、他に大転換を成せる時期は無いと思う。
王権が特別視して委託祭祀をしていたにしても、伊勢の地方神でしかなかったアマテラスがその地位を高めたのは、天武天皇元年(672)六月(『天武紀』)、大和の吉野宮を脱した大海人皇子が伊勢まで辿り着いて、

「朝、朝明あさけ郡の迹太川とおかわのほとりで、アマテラス大神を望拝された。」

ことが発端と考えられる。『釈日本紀しゃくにほんぎ』所引の「私記」に引用された『安斗智徳あとのちとこ日記』に、

「二十六日辰時(7時~9時)、朝明郡の迹太川の川上においてアマテラス大神を拝礼した。」

とあることから、これを史実をみる向きもあるようだけど、史実であるかは問わない。重要なのは、大海人皇子が自身の守護神として、伊勢のアマテラス大神を得たことで勝利したという、ストーリーだ。

即位した天武天皇は、稀代の政治家。次々と改革を断行する。
斎宮については既述の通り、事実上、天武天皇により制度化されたといっていいと思う。
皇祖神の転換は、氏族政策の一環ともいえる。『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』によれば、伴造とものみやつこと呼ばれる職能をもって王権に奉仕する地位にあった氏族には、タカミムスヒなどムスヒ系を祖神とする例が多い。言ってみれば、ムスヒ系派閥のしがらみから抜け出し、皇室単独の最高神を据えるのが、大きな目的の一つだったんじゃないか。そして、海人族を中心に、広く豪族たちに信仰されてきた太陽神アマテラスが、この地位に最適と考えたんじゃないかな。
天武天皇は実名を大海人おおあまというように、凡海おおしあま(大海)氏に養育されたと考えられ、海人族の伝える神話に親しんでいたとしてもおかしくない。だとしたら、そういう面からアマテラスを見出したのかもしれない。
また、元来の皇祖神タカミムスヒが太陽神であったことも、同じ神格を持つアマテラスへの転換を可能にしたと、いえるだろうね。
ただ、ある時点で一挙に置き換えたのではなく、ゆっくり時間をかけて、タカミムスヒからアマテラスへと移行していったようだ。その様子がまさに、『記』・『紀』にある両神の並立に垣間見えている。
この時期に『記』・『紀』の編纂が始められたのも、藤原京遷都が計画されたのも、偶然じゃない。

便宜上アマテラスと呼称し続けてきたけど、元はオオヒルメやヒルメ、あるいは単に日神と呼ばれていたとみられる。
『万葉集』に収められた、持統天皇三年(689)に亡くなった草壁皇子くさかべのみこを称えた挽歌(巻2-167)に、
天照あまてらす 日女之命ひるめのみこと〈また「指上さしあがる 日女之命ひるめのみこと」〉 天をば 知らしめすと
というフレーズが出てくる。文脈的に皇祖神を指しているのは確かだけど、当時まだアマテラスの名は熟しておらず、ヒルメと呼ばれていたことが判る。
同じく『万葉集』より、天平勝宝元年(749)に大伴家持おおとものやかもちが作ったとされる歌(巻18-4125)には、
安麻泥良須あまてらす 可未かみ御代みよより
とあり、『記』・『紀』を別とすれば、この頃にはアマテラス神の呼称が宮廷内で定着していたとみられる。

長くなったので、伊勢神宮の成立については後編に続く。

【参考文献】
青木紀元「降臨神話の展開」『日本文学研究資料叢書 日本神話』日本文学研究資料刊行会,1970年
岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房,1970年
川添登『伊勢神宮』筑摩書房,2007年
倉塚曄子「伊勢神宮の由来」『古代の女』平凡社,1986年
西條勉「皇祖神=天照大神の誕生と伊勢神宮」『国文学論輯 (15)』国士館大学国文学会,1994年
桜井勝之進『伊勢神宮の祖型と展開』藝林会,1992年
新谷尚紀「伊勢神宮の創祀」『国立歴史民俗博物館研究報告 (148)』国立歴史民俗博物館,2008年
張麗山「境界神としてのサルタヒコ」『東アジア文化交渉研究 (5)』関西大学文化交渉学教育研究拠点,2012年
筑紫申真『アマテラスの誕生』講談社,2002年
寺川眞知夫「天照大御神」『花園大学国文学論究 (13)』花園大学国文学会,1985年
寺川眞知夫「タカミムスヒ・アマテラス・伊勢神宮」『万葉古代学研究所年報 (5)』奈良県立万葉文化館,2007年
直木孝次郎「伊勢神宮」『日本古代の氏族と天皇』塙書房,1964年
西田長男「伊勢神宮の剏祀」『日本神道史研究 (8) 神社編 上』講談社,1978年
西宮秀紀『伊勢神宮と斎宮』岩波書店,2019年
林一馬『伊勢神宮及び大嘗宮に関する建築史的研究』,1999年
穂積裕昌『伊勢神宮の考古学 増補版』雄山閣,2023年
松前健「自然神話論」『日本神話の新研究』桜楓社出版,1960年
松前健「大嘗祭と記紀神話」『古代伝承と宮廷祭祀』塙書房,1974年
黛弘道「海人族と神武東征物語」『研究年報 (28)』学習院大学文学部,1982年
三品彰英「天孫降臨の物語」『三品彰英論文集 (1) 日本神話論』平凡社,1970年
溝口睦子『王権神話の二元構造』吉川弘文館,2000年
溝口睦子『アマテラスの誕生』岩波書店,2009年
毛利正守「古事記の構想」『古代学 (5)』奈良女子大学古代学学術研究センター,2013年
森本哉子「神話における機織りの意味」『学習院大学国語国文学会誌 (43)』学習院大学国語国文学会,2000年

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