アマテラスと伊勢神宮の成立について考察してみた~前編
2024年5月24日金曜日
04:00
これから、皇室の御祖先神という非常にセンシティブな話題を取り扱うので、前もって断りを入れておくね。この記事は、神話や信仰を否定するものではないし、現在の皇室を批判する意図も一切ない。だけどもし気分を害されたのなら、読むのやめていただければと。
僕は日本神話が大好きで、『古事記』や『日本書紀』だけでなく、『風土記』や各地の言い伝えの、ありのままの姿を大切に思っている。一方それはそれとして、神話・伝承の成立背景や史実を紐解き、知的探求する気持ちも併せ持っている。僕の中で、これらは何も矛盾していないんだよ。
アマテラス大御神が、伊勢神宮の御祭神であり、日本神話において
皇祖神アマテラスの成立をめぐる論考は、その時期を
以下、煩雑さ回避のため、『古事記』は『記』、『日本書紀』は『紀』として、神代巻なら『神代記』、『神代紀』などと表記する。
アマテラスの孫ニニギの降臨について、『神代記』ではアマテラスとタカミムスヒが並んで司令するけど、『神代紀』本文ではタカミムスヒだけが命じる形となっている。研究者の間では、天孫降臨の司令神はタカミムスヒとするのが、すでに共通認識となっているそうだ。つまり、タカミムスヒ系の降臨神話のほうが古いとされる。
『
「我が皇祖の霊が天から降り眺められて、我が身を助けてくださった。今、多くの敵をすべて平らげて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と詔された。それでとあることと対応するとみられる。祈りが通じたので、感謝を捧げたのだ。ここでは「皇祖天神」はタカミムスヒであると読める。霊畤 (祀りの場)を鳥見山 の中に設けて、皇祖天神 を祭った。
「
ここで、タカミムスヒの語義を確かめておこう。「タカ(高)」と「ミ(御)」は美称で、二つ重ねることで最上級の美称としている。皇位を表す
日本の建国神話と古代朝鮮半島の建国神話が酷似していることに以前触れたけど、「天帝」は明らかに「太陽」だった。タカミムスヒが太陽神であるとして良いなら、ここにピタリと符合する。
この原建国神話というべきものが導入された頃は、
という系譜が想定されていたんじゃないか。それが、アマテラスを皇祖神に据えることとなったため、
タカミムスヒ ─ ニニギ ─ ヒコホホデミ(神武天皇)
と架上することで、タカミムスヒとアマテラスの系譜と結合させたのではと。
アマテラス ─ オシホミミ ┬ ニニギ タカミムスヒ ─ タクハタチヂヒメ ┘
タクハタチヂヒメに当たる女神は、『記』ではヨロズハタトヨアキツシヒメとなっている。「ハタ」が共通しており、『雄略紀』に、伊勢大神の祠に仕えた
タカミムスヒが皇祖神だった頃、アマテラスは一地方の神に過ぎなかったかもしれない。
ということでここからは、アマテラスについて見ていこう。
まず、ウケイ神話のあらすじを挙げておく。『神代紀』本文とは大同小異なので、『神代記』より。
高天原 に上ってきたスサノオと、彼に邪心があると疑うアマテラスは、疑いを晴らすために誓約 をすることになった。アマテラスがスサノオの剣を用いて生まれたのは、タキリビメら三柱の女神。スサノオがアマテラスの勾玉を用いて生まれたのは、“正勝吾勝々速日 ”アメノオシホミミら五柱の男神。アマテラスは、「五神の男子は自分の物から成ったから、私の子です。三神の女子はあなたの物から成ったから、あなたの子です」とお分けになった。そこでスサノオは、「私の心が潔白だから、女神を得られたのです。ということは、私の勝ちです」と言った。
『神代紀』の一書(第一・第三)では、三女神はアマテラス(日神)の子となっている。しかも第三の一書では、男神を得たことが潔白の証明になっており、素直な筋書きといえる。一書のほうが原形に近いのだとすれば、アマテラスの子は女神で、男神を得なかったことになる。
しかし、前掲の系譜を成り立たせるには、アマテラスが男神を得る必要がある。そこで、『紀』本文や『記』ではオシホミミら男神がアマテラスの子となった、と考えられる。
次に、
天岩戸神話 + (天孫降臨神話 - タカミムスヒ系要素)
とした形で示してみよう。
勝ちにまかせてスサノオは、アマテラスの作った田の畔を断ち切るなど、大暴れ。それでもアマテラスは咎めなかった。アマテラスが主語が明瞭でない部分を補っていくと、要するに――機織り女の死を契機に天岩戸に隠れたアマテラスは、オモイカネの作戦によって、ウズメの踊りで誘われ、タヂカラオに引き出された。それからアマテラスの機織 り小屋で神衣 を織らせていた時、スサノオは小屋の棟に穴を開け、そこから馬を落とし入れたところ、機織り女 が驚いた拍子にケガをして死んだ。これを見て恐れたアマテラスは、天岩戸 に閉じこもった。このため、天も地も真っ暗闇となった。
そこで八百万 の神々は、オモイカネに思案させた。五種の職能を司る神々が祭祀の用意をして、アメノウズメが伏せた桶を踏み鳴らし踊ると、笑いが起こった。不思議に思ったアマテラスが天岩戸を少し開けた時、アメノタヂカラオがその手を取って、引き出した。すると天と地に日の光が射して、明るくなった。
それから天降ろうとする道に、輝く神がいた。アメノウズメが正体を問うと、「私はサルタヒコです。ご先導をしようと思って、お迎えに参っておりました」と答えた。そこで、五種の職能の神々を分け加えて、天降りした。またここに、勾玉・鏡・剣と、オモイカネ・タヂカラオ・アメノイワトワケを添えて、「この鏡は我が御魂 として、私を拝むと同様に、祝い祭りなさい」と仰せになった。次に、「オモイカネは先ほどのことを取り仕切り、祭事を執行しなさい」と仰せられた。この二神は、五十鈴宮 を拝み祭った。
タヂカラオの役割は佐那神社のところで語ったので割愛するとして、オモイカネは、与えられた役割や
残るサルタヒコの役目を見ていくと、
「五十鈴宮」とあるので、『記』の中だけでもちゃんと完結しているんだけど、『神代紀』にも同じような一書があるので、引いておきたい。第九段一書(第一)に、ウズメがサルタヒコの正体を明かさせたのに続き、
ウズメはまた、「お前はどこへ行こうとするのか。とある。ウズメの巧みな誘導尋問というべきか、サルタヒコの行先まで答えさせる、とても不思議な問答だよね。ともあれ、サルタヒコが伊勢からお迎えに参ったことが、より明白になったと思う。皇孫 (ニニギ)はどこへおいでになるのか」と問うと、サルタヒコは、「天つ神の御子は、筑紫 の日向 の高千穂 のクシフル峰 においでになるでしょう。私は伊勢の狭長田 の五十鈴 の川上に行くでしょう」と答えた。その後、言葉通りに着いた。
このように、『記』では天孫降臨と並行して、伊勢神宮創建が語られていたといえる。だから
トヨスキヒメは、〈伊勢大神の宮を拝みお祭りした。〉と、アマテラスの御魂が伊勢に鎮座されていることを前提にした、皇女たちの記述があるわけだ。
ヤマトヒメは、〈伊勢大神の宮を拝みお祭りした。〉
結局、ニニギは国を譲ってもらったはずなのに、出雲にも
では、『紀』には何と記されているのか。といえば、むしろこちらのほうはよく知られている。
『神代紀』本文では、天孫降臨神話でアマテラス降臨に触れていない。なので、ヤマトヒメが各地を遍歴した末に伊勢へ至り、崇神 天皇の御世、皇居内に祀られていたアマテラスは、トヨスキイリヒメに託され、倭 の笠縫邑 に移されることになった。
続く垂仁 天皇の御世、アマテラスは、トヨスキイリヒメからヤマトヒメへと託された。ヤマトヒメは大神の鎮座なさる所を探して、莵田 の筱幡 に行った。さらに引き返して近江 国に入り、美濃 を巡って伊勢国に至った。その時アマテラスが、「この国に居りたい」と仰せになったので、その祠を伊勢国に立てた。そして斎宮 を五十鈴 の川上に建てた。これを磯宮 という。アマテラス大神が、初めて天より降られた所である。
『紀』と『記』の構想の違いが興味深い。それに、こうした揺らぎがこの伝承の新しさを窺わせるね。
次にアマテラスが登場するのは『
「五十鈴宮」は伊勢神宮のことで、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」という長ったらしい名前は、アマテラスの仲哀 天皇が、九州のクマソ討伐を群臣たちに相談していると、神功 皇后が神懸かりして、「クマソは不毛の地。それよりも、海の向こうの新羅 国には財宝がたくさんある。もしよく私を祭ったなら、その国はきっと服従するだろう。その祭りをするには、天皇の船と水田をお供えとしなさい」と託宣された。仲哀天皇は神の言葉を信じられなかったところ、急病になって亡くなられた。
神功皇后が、仲哀天皇にお告げをした神さまの名前を尋ねられたところ、
・神風 の伊勢国の百伝 う度逢県 の、さくすず五十鈴宮 にいる撞賢木厳之御魂天疎向津媛 命
・尾田 の吾田節 の淡 郡にいる神
・コトシロヌシ神
・住吉三神
があると言われた。その後、神託に従って新羅征伐に成功。帰還する際、船が進まなくなったので占ったところ、
・アマテラスが、「我が荒魂 を近くに置くのは良くない。広田 国に置くのが良い」
・ワカヒルメが、「私は活田長峡 国に居りたい」
・コトシロヌシが、「私を長田 国に祀るように」
・住吉三神が、「我が和魂 を大津 の渟中倉 の長峡 に居らせるべきである」
とそれぞれ教えられた。
ここに現れたアマテラスは、到底皇祖神とは思えない。妹分のワカヒルメらと結託して領土拡大を持ちかけ、協力の見返りに船と田を要求し、信用しなければ天皇であっても殺して霊異を見せつけ、首尾よく事が運んだあとには、畿内に新たな拠点まで求めてくる始末。伊勢・志摩の神々やその背後にいる祭祀集団に対する、王権から見たイメージが投影されているんだろうね。
ところで、アマテラスの荒魂とされる名前は、解釈がメチャメチャ難しい。前半の「撞賢木厳之御魂」はまだわかりやすいほうで、サカキ(常緑樹)に
「天疎向津媛」と申すは、この国土より天日をと実に明快。こう理解して良いなら、太陽女神の名前に思えるね。仰瞻 奉る意の御名なり。
時代が下って、『記』・『紀』編纂の時代から50年ほど前と、割と新しい記事を示しておこう。『
丘の峰続き、あるいは川辺、あるいは宮寺の間に、遥かに見える物があり、猿のうめくような音が聞こえた。行ってみると物は見えなくて、なお鳴きうそぶく音が聞こえた。しかしその姿を見ることはできなかった。〈古い本によれば、「この年、都をと、アマテラスの神使として猿が現れ、国家の重大事を予言したという風説が流れたとある。国家を担う神ではなく、他人事のように予言する神として、人々に認識されている。これも明らかに、皇祖神としての姿ではない。伊勢地方の神が、世間に広く知られていることも読み取れるよね。難波 に移して、板蓋宮 が廃墟となる兆しだった」といっている。〉人々は、「これは伊勢大神の御使いだ」と言った。
なお、猿が太陽神の御使いとされるのは、顔が赤く日の出前に騒ぐ習性をもつことから、古代の人々にはそのように観念されたのではないかと。
勢い『記』・『紀』における伊勢神宮起源譚から語ってしまったけど、アマテラスの別名も取り上げておきたい。その誕生を『神代紀』本文より。
イザナギとイザナミが一緒に『記』は一貫してアマテラスとして出てくるけど、『紀』は日神 をお生みになった。オオヒルメノムチという。〈一書にアマテラス大神といい、またアマテラスオオヒルメ尊という。〉
オオヒルメノムチの「オオ」は美称、「ヒルメ」は日の
日の女説にも惹かれるんだけどね。天岩戸神話でみたように、機織り小屋で
それでも、だ。『
とあり、大物忌 は、無位神主の小清女 。父は、無位同の黒成。……職掌は、アマテラス大神の朝の御饌 ・夕の御饌をお供え奉ること。
正殿のとあり、また『皇太神宮年中行事(建久三年(1192)心柱 を造り奉る……。〈その柱の名は忌柱 と称する。〉
……禰宜と大物忌は忌柱を立て始める。
物忌父たちは御殿の下に火を三か所灯し、次に御饌をお供えする。とあるように、式年遷宮において大物忌の童女は
トヨスキヒメやヤマトヒメを元祖とし、天皇の名代として伊勢神宮に奉仕する
錦枕二枚。がみえるのだ。枕が二つ。一つは
大神宮を拝礼して退出する。それからと、但し書きが付くことが説明できないと思う。荒祭宮 に向かって遥拝する。〈ただし、内親王(斎王)は荒祭宮を向かない。〉
実在が確実視されている斎王が天武朝の
ヤマトヒメが朝廷にお還りなさった時に、今の禰宜神主の先祖であるアメノミトオスの子孫のカワヒメをヤマトヒメの御代わりに大物忌とし、カワヒメを大神にお仕えさせるようにした。とあり、ヤマトヒメに代わって、
それはさておき、日々伊勢大神に仕える少女の姿が神格化されていった、その可能性は大いにあり得る。巫女の神格化は日本では珍しくないし、巫女などの神に奉仕する者の籠る建物が神殿に昇格する例もまた、珍しいものではないという。
「ヒルメ」の意義を説くのに行数を費やしてしまったけど、もうひとつ、オオヒルメノムチの「ムチ(貴)」は特別な尊称で、他には、宗像三女神を総称していうチヌシノムチ(道主貴)しかいない。『雄略紀』に、
とあるように、宗像神は王権による直接祭祀が行われた記録があり、考古学からも沖ノ島の調査によりそれが裏付けられている。翻って、伊勢大神も直接祭祀を受けていた可能性は十分ある。凡河内香賜 と采女 を遣わして、胸方 (宗像)神を祀らせた。
ちなみに、オオナムチも「ムチ(貴)」が付くけど、「オオナ」だけでは名称として成り立たない。オオアナムチ(あるいはオオアナモチ)の「ムチ」に、貴の字が当てられただけのことで、尊称ではない。
イザナギ・イザナミは、淡路島周辺の海人族を中心に信仰されていたのが次第に広がったとされるように、アマテラスも海人族に信仰された太陽神らしい。海人族の観念では、太陽も月も船に乗ってやってくると考えられたという。イザナギの禊ぎは海辺で行われるし、その中でワダツミ三神や住吉三神が生まれるし、アマテラスも左目を洗った時に生まれている。ワダツミを
続いては、伊勢神宮の前身となる祭祀場が、いつどこからスタートしたのかに入りたい。
先に確認しておきたいのが、古代の祭祀の在り方。現代人にとって神社は、厳かな社殿が佇んでいるさまを思い浮かべがち。だけど古代においては、神霊を招き降ろすために
いきなり核心に触れてしまうのだけど、内宮域内から、祭祀に用いられたとみられる
加えて、この地域の同時代の古墳で、首長墓に相当するものは不明瞭といわれている。つまり、この大規模な祭祀場に釣り合うだけの、在地勢力が見当たらないのだ。となれば、王権が関与した
朝鮮半島の建国神話が日本に導入された可能性を、最初のほうに紹介したけど、導入の時期にまで踏み込んだ論考がある。第19代
5世紀といえば、「倭の五王」の時代。
奇しくもというのか、ある意味当然なのか、これが、五十鈴川のほとりの大規模祭祀場が出発した時期と一致する。とはいえ、せっかく取り入れたばかりの皇祖神タカミムスヒを、いきなり大和の外へ出すのかというと、それはちょっと考えにくい。宮廷祭祀の中にタカミムスヒは残っていたし、宗像神の例もある。伊勢大神はあくまで伊勢の地方神であり、在地勢力の協力のもと委託祭祀を行っていた、と考えたほうがしっくりくる。
さて、タカミムスヒとアマテラスについて整理できたところで、皇祖神の転換がいつ行われたと考えられるか、見ていこう。
契機はズバリ、
王権が特別視して委託祭祀をしていたにしても、伊勢の地方神でしかなかったアマテラスがその地位を高めたのは、天武天皇元年(672)六月(『天武紀』)、大和の吉野宮を脱した大海人皇子が伊勢まで辿り着いて、
朝、ことが発端と考えられる。『朝明 郡の迹太川 のほとりで、アマテラス大神を望拝された。
二十六日辰時(7時~9時)、朝明郡の迹太川の川上においてアマテラス大神を拝礼した。とあることから、これを史実をみる向きもあるようだけど、史実であるかは問わない。重要なのは、大海人皇子が自身の守護神として、伊勢のアマテラス大神を得たことで勝利したという、ストーリーだ。
即位した天武天皇は、稀代の政治家。次々と改革を断行する。
斎宮については既述の通り、事実上、天武天皇により制度化されたといっていいと思う。
皇祖神の転換は、氏族政策の一環ともいえる。『
天武天皇は実名を
また、元来の皇祖神タカミムスヒが太陽神であったことも、同じ神格を持つアマテラスへの転換を可能にしたと、いえるだろうね。
ただ、ある時点で一挙に置き換えたのではなく、ゆっくり時間をかけて、タカミムスヒからアマテラスへと移行していったようだ。その様子がまさに、『記』・『紀』にある両神の並立に垣間見えている。
この時期に『記』・『紀』の編纂が始められたのも、藤原京遷都が計画されたのも、偶然じゃない。
便宜上アマテラスと呼称し続けてきたけど、元はオオヒルメやヒルメ、あるいは単に日神と呼ばれていたとみられる。
『万葉集』に収められた、持統天皇三年(689)に亡くなった
というフレーズが出てくる。文脈的に皇祖神を指しているのは確かだけど、当時まだアマテラスの名は熟しておらず、ヒルメと呼ばれていたことが判る。天照 日女之命 〈また「指上 日女之命 」〉 天をば 知らしめすと
同じく『万葉集』より、天平勝宝元年(749)に
とあり、『記』・『紀』を別とすれば、この頃にはアマテラス神の呼称が宮廷内で定着していたとみられる。安麻泥良須 可未 の御代 より
長くなったので、伊勢神宮の成立については後編に続く。
【参考文献】
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