猿田彦神社と興玉の森
2024年5月24日金曜日
12:24
サルタヒコは『古事記』では、
上はと表され、『日本書紀』神代巻第九段の一書(第一)では、高天原 を照らし、下は葦原中国 を照らす神
その鼻の長さと詳しく容貌が記されている。口は光り、目は大きな鏡のようで赤く輝き、天界も地上も照らす神。サルタヒコの神格は複雑だけど、太陽神としての一面を持つといえるよね。七咫 、背の高さ七尺 余り、まさに七尋 というべきでしょう。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡 のようで、照り輝いているさまは赤ホオズキに似ています。
また、神話から明らかなように、サルタヒコは伊勢の神さま。一書の続きには、
そのサルタヒコは、伊勢のとあり、内宮の鎮座地となる五十鈴川のほとりは、サルタヒコが領有していた。『皇太神宮儀式帳』には、狭長田 の五十鈴 の川上に着いた。
とあり、内宮の鎮座地として五十鈴川のほとりを、オオタが献上したとしている。『日本書紀』の一書が伏線になっているとすれば、オオタを神格化したのがサルタヒコと考えられる。宇治土公 らの先祖であるオオタの命 は、「伊須須 の川上に、大宮をかまえるのに良い地がございます」と答えた。そこでヤマトヒメは御覧になり、大御神が鎮座されるのに良い大宮地 とお定めになった。
後世の史料にはなるけど、『
サルタヒコ神の子孫、宇治土公の先祖であるオオタの命が、「五十鈴の川上には、霊物があり日月のように輝いております」と答えた。そこでヤマトヒメはともある。宮処 と見定められた。
五十鈴川のほとりをヤマトヒメ、ひいてはアマテラスに譲ったサルタヒコは、どこへ行ったのか。『古事記』の理屈でいえば、アザカということになるんだろう。こちらは別途語るとして、さらに時代を下った史料にはなるものの、そちらに目を向けると、江戸後期の伊勢国の地誌『
とあり、同じく『興玉森
〈月読の宮の南にあり。〉サルタヒコ大神の旧地である。五十鈴の宮地を皇大神宮に奉って退きなさったので、神殿はなく鳥居一基を立てた。(皇大神宮の)御鎮座より以前の地主の神なので、伊勢国一宮都波岐 大明神と崇め奉っている。
興玉森とあって、興玉の森が、内宮の地を退いたあとのサルタヒコの旧地であり、社殿は無く石畳に神さまをお祀りしているという。興玉の森は、今も伊勢市中村町に残っている。
……神境雑話に、興玉森の別名は「うえの森」とある。年中行事を考えるに、興玉石畳は宇治 氏の上の社を祀るとあり、宇治氏はサルタヒコ大神の後裔のオオタの命を先祖とする宇治土公氏である。その下の社はオオタの命を祀り、上の社はこれだろう。
猿田彦神社について、『三重県神社誌 (1)(大正八年(1919))』は「神社明細帳」を引きながら考証している。抄訳を挙げておこう。
当社は宇治土公氏の祖神を祭祀し、私邸内鎮守として奉斎されてきた。その沿革は次の通り。旧「度会郡中村」の村域は、伊勢市中村町と重なる。鎌倉時代以前にどこで祭祀されていたか判らないけど、これが興玉の森を指しているんじゃないだろうか。
建久年間(1190-1199)度会郡中村にて祭祀。
文明年中(1469-1487)多気郡野中村に移す。
元和年中(1615-1624)度会郡山田岡本町に移す。
延宝五年(1677)度会郡宇治浦田町に移す。
慶応三年(1867)火災に遭う。
明治十一年(1878)社殿を建立し神社となる。
『皇太神宮年中行事(建久三年(1192)
また、宇治氏・石部氏は四月初めのとあり、宇治氏(宇治土公氏)が氏神として上社をお祀りしていることが、傍証になりそうだ。申 の日に祭を行う。宇治氏は字上社にて祭り、石部氏は岩井田の山口にて祭るのである。
興玉といえば、夫婦岩で有名な
興玉石と、興玉はサルタヒコの別名と読める。現在の二見興玉神社の御祭神も、サルタヒコだ。
立石崎(夫婦岩)から東へ六町ばかり海中にある。……サルタヒコ大神の霊であり、
もう一つ、見過ごせない所に興玉の神がお祀りされている。それが内宮所管社の
『皇太神宮儀式帳』には無く、鎌倉時代初期に成立とみられる『
興玉祭事とあるのが初出。『皇太神宮年中行事』正月十一日旬神拝事条には、
次に興玉宮〈ミヤビ、ヤノハハキ神、ミヤビは荒垣内の北西の方角、ヤノハハキは荒垣外の東南の方角に座す。〉とある。地主神の祭は起源が最も古いと思われるにもかかわらず、この神さまの祭祀が比較的遅れて現れるのは、古くはこれを「
興玉の語義については、
興玉の神とサルタヒコが同一神かどうかは即断できない。だけど、五十鈴川のほとり、内宮の地でずっとお祀りされ続けてきているんだろうね。そして宇治土公氏は「度会郡中村」に移り、そこでも興玉の神をお祀りしたということだろう。とすれば、宮地を譲って退いたオオタあるいはサルタヒコは、興玉の森に退いた宇治土公氏の神格化ということになる。
宇治土公氏がサルタヒコを祖神と称するようになると、興玉の神とサルタヒコは同一神とみなされるようになっていった。そういうことじゃないかな。サルタヒコと呼ばれるようになった太陽神は、宇治土公氏だけでなく、二見浦やアザカなど、広く
さて、遷座に関する珍しいものを見たあとは、目線を変えてサルタヒコ関連を巡る。月讀宮の駐車場からは左にしか出られないため、近鉄鳥羽線をくぐった先で二度左折して南下。内宮B1~B4駐車場の混雑ぶりを確かめつつ、奥にある内宮B5駐車場へ。こちらは打って変わってガラガラだった。北の隅っこに停める。興玉の森へ行くには、そのほうが近くて便利だからね。
駐車場の北を流れる五十鈴川の支流、滝倉川に架かる境橋を渡り、アパートのある角を東へ。2棟建てのアパートを右手に歩いていくと、左(北)に見落としそうなほど存在感の無い参道が。
道の端に「宇治山田神社」と刻まれた社号標が無ければ、この先に神社があるとは思えないほどだ。
ネットで見た情報は、誰もが口を揃えて「入口がわかりにくい」だったからね。着いて、ここだよと教えたら嫁もちょっとビックリしていた。
興玉の森といわれているけど小さな丘陵となっているため、石段を少し上ることになる。
丘の上には、内宮摂社の
宇治山田神社一処とある。しかし中世以降祭祀が断絶してしまい、江戸後期の『
オオミナカミの御子、ヤマダヒメと称する。形は無し。ヤマトヒメ内親王の御世に祀られた。
……
那自売神社
オオミナカミノミオヤ。形は石に坐す。またこの命 の御魂のミモノスソヒメ。形は石に坐す。
宇治は郷名、山田は地名である。それが訛って中世にはヨウダというようになった。楊田とも書く。現在当社は絶えて、その跡さえ知る人がいない。長年その跡を探し、古書によって考えるに、今の中村と旧跡が考察されていた。明治になって再興されたのだけど、この説を参考にしたのか、興玉の森が鎮座地に選ばれた。ヤマダがヨウダに訛るのは珍しいけど、実際地名の山田をヨウダと呼んでいたらしい。火焼 の里の東の辺り、毎年二月十二日に禰宜が参って酒肴に預かる所がある。そこに石畳と森がある。ここだろうか。また、中村上森 〈俗に興玉森という。〉の南西にある田地の辺りだろうか。
ともあれ参拝。御祭神は、いずれも五十鈴川の水神と考えられている。
ここを訪れた一番の目的は、森の中にあるという石畳。宇治山田神社の脇を抜けて、10mほど奥へと落ち葉を踏みしめながら探し回ると、あった。
振り返って、社殿との位置関係を確認。
興玉の神を石畳の上にお祀りしたという祭祀場跡、「上の社」ということになるんだろうか。社殿が無く石畳の上に祀られるさまは、内宮や外宮の四至神とも共通する。四至神124前の一柱だった興玉の神がその代表する存在になったとする説に、説得力を感じるね。
しかしなぜこの祭祀場跡の前に、内宮摂社を再建したのやら。これを隠そうとしたとか勘繰られてもしょうがないというか。そのあたりの実情にさほど興味は持てない。ただただ、今も残されていることに感謝。
車に戻ったら、さっき見た時にはまだ満車になっていなかったから大丈夫だろうと、今度は内宮B1駐車場へ。対向車線の車と交互にゲートに入ることになり多少待ったものの、問題なく駐車できた。早朝と正午前とでは大違いだな。
そこから徒歩で猿田彦神社へ向かった。そちらにも参拝者用駐車場はあるんだけど、あとでおはらい町にも行くつもりだから、先に駐車場を確保しておきたくて。
猿田彦神社は多くの参拝客で賑わっていた。ある程度覚悟はしていたけど。
手水舎がステッカーまみれでぎょっとする。これは僕の勝手な憶測だけど、境内社の
二重破風の切妻造という変わった社殿にて拝礼。主祭神はもちろんサルタヒコ大神。相殿神にオオタの命。
拝殿でいいのかな、とにかくカッコいい。
拝殿の前、1936年に現社殿が造営されるまで鎮座されていた古殿地だそうだ。神跡を守るための石柱なんだろうね。
続いて佐瑠女神社。御祭神はアメノウズメ。ウズメとサルタヒコとの関係は、また改めて述べようと思う。
著名な芸人さんたちが奉納された幟が、たくさん立てられていた。
本殿の東の小径を進むと、その屋根などが見えた。道なりに本殿の真裏にも行けた。
本殿の裏手に広がっているのが
5月5日に催されたばかりなので、若い苗が植わっている。社殿の破風を連想させるような屋根の付いた棒が、御神田の前に立てられていた。御幣も下げられていて、神籬のように見える。そのせいか、神聖な空気が漂っている感じがする。
拝殿のほうに戻ると、授与所の前には人だかりがあるものの、人の流れが途切れていた。一方でタクシーで乗り付ける人もいたので、ほんのひとときだったけど。冒頭の写真は、その一瞬をとらえたもの。
神話の時代に何があったのか、その真相は今となっては想像するしかないけど、境内から感じた大らかさというのは、御祭神の御神徳そのものなのかなぁ、なんて思ったよ。お参りできて良かった。
【参考文献】
阪本広太郎『神宮祭祀概説』神宮司庁教導部,1965年
神宮司庁『神宮要綱』神宮司庁,1928年
阪本広太郎『神宮祭祀概説』神宮司庁教導部,1965年
神宮司庁『神宮要綱』神宮司庁,1928年