二見興玉神社と夫婦岩からの日の出
2024年5月25日土曜日
05:33

調べていて驚くことばかりだったんだけど、二見浦にそそり立つ二つの岩を、夫婦岩と呼ぶようになったのは明治以降で、注連縄が張られたのも古代からではないということ。
伊勢神宮の神官らが新名所を選び、それを題とした歌合を行って絵巻としてまとめたという『
江戸中期に編まれた伊勢参宮ガイドブックの決定版ともいえる『
立石崎〈海中左右に立つ大石があり、注連縄を張ってとある。夫婦岩は立石と呼ばれていたし、注連縄は中世以降で江戸中期までには張られたとみられる。この浜で海水に浸かって禊ぎをしてから伊勢神宮を参拝する、所謂「浜参宮」の風習についても記されている。垢離 かき場という。この二つの石が立っているので立石崎というのである。〉
〈山田宇治に住む人が参宮しようと思う前には、まず必ずここで冷水を浴び身を清めて、その後でなければ宮中に入らない。〉
興玉石〈立石から八町ばかり沖にあり。〉干潮には見え、満潮には見えない。〈これを神として拝する。沖の霊の意である。〉
元興玉社は、海中の
なお、安政元年(1854)に発生した安政東海地震・安政南海地震による沈下で、興玉石は海に没したらしい。
さて、伊勢旅行三日目は、前日よりさらに早い3時半起床。就寝前に何度も天気予報を確認して、薄曇り予想が晴れに変わった。よし、それなら日の出が見られる可能性が高いし、頑張って早起きしようと。手短に支度を済ませ、未明の暗いなか車を出す。4時15分には二見浦公園駐車場に着けた。日の出の30分前、駐車場にはまだ余裕がある。
神社の第二鳥居をくぐり道なりに歩いていくと、夫婦岩が見えてきた。三脚を構えた人たちも数名。

場所取りの意味がどこまであるか読めないけど、直前までは僕独り残ることにして、嫁には車で待機してもらうことにする。体が冷えてはいけないからね。

事前に日の出位置を調べておいたのだけど、三脚組はそれより西に陣取っている。僕の調べ方が悪かったのか?と不安になってしまい、彼らのそばで待つことにした。が、嫁が戻ってきて、いよいよさし昇る太陽を見て、選択を間違えたことに気づかされた。今からでも遅くない、場所を変えよう。

良かった……拝めたよ……地球の自転による現象だと頭では解っていても、ぐんぐん昇る太陽には力強さを感じる。しかも雲一つなく、最高の天候。神々しいなどという陳腐な言葉では言い表せられないほど、感激したよ……手を合わせたくなるこの気持ちは、今も昔も変わらないと思う。感動を嫁と分かち合いつつ、気の済むまで日の出を見届けた。
興玉石がサルタヒコと結びついたのは中世以降だとしても、この神さまが太陽神であることは疑いない気がしたよ。

あんまり岩壁に寄ると、潮をかぶりそうになった。危ない、危ない。それほどの強風が吹き荒れている。



さらに奥へ進めば夫婦岩に最も近づけるけど、道が波で濡れていたのでやめておいた。

『伊勢参宮名所図会』には、
とあり、江戸末期の伊勢国の地誌『三狐神 〈立石浜の岩に穴があって昼も火を灯している。その由緒はわからない。〉
またこの飛石を過ぎた辺りにしゃぐしの祠というのがある。白昼に燈火を点して参詣客に銭を勧める所である。三狐神と称する。これは酒殿神ウカノミタマの別名で、三狐が転じたものである。とある。三宮神社のサングウジンが訛ってシャグジとなったのか、石神信仰が先にあってのシャグジなのか、よく判らない。ただ、少なくとも「天の岩屋」とは紹介されておらず、大正期の『二見浦名勝誌(大正二年(1913)坂本徳次郎)』に、
興玉神社域内に岩窟がある。地元民はこれを天の岩屋と称する。とようやく出てくるので、天岩戸神話と結びつけられたのは早くても明治からじゃないかな。

茅を巻いた矛を手に持って、とあり、この像はそちらをベースにしたということか。


立石からの日の出、バッチリ拝めて良かったよ~!天候に恵まれて、本当に有り難い限り。連日の早朝活動に付き合ってくれた、嫁にも感謝。