二見興玉神社と夫婦岩からの日の出

2024年5月25日土曜日 05:33
二見興玉神社ふたみおきたまじんじゃは、三重県伊勢市二見町江にある神社。夏至を中心として、5月~7月には夫婦岩めおといわの間から朝陽が昇るという。その神秘的な光景を拝むべく、早起きして行ってきたよ!

調べていて驚くことばかりだったんだけど、二見浦にそそり立つ二つの岩を、夫婦岩と呼ぶようになったのは明治以降で、注連縄が張られたのも古代からではないということ。
伊勢神宮の神官らが新名所を選び、それを題とした歌合を行って絵巻としてまとめたという『伊勢新名所絵歌合いせしんめいしょえうたあわせ(永仁三年(1295))』。上下2巻だが上巻は散逸しており、幾種かの模本が伝わっている。その上巻の「打越浜(冬)」には夫婦岩とみられる景勝が描かれているけど、注連縄は見えない。鎌倉時代には、まだ注連縄は張られていなかったようだ。
江戸中期に編まれた伊勢参宮ガイドブックの決定版ともいえる『伊勢参宮名所図会いせさんぐうめいしょずえ(寛政九年(1797))』には、
立石崎〈海中左右に立つ大石があり、注連縄を張って垢離こりかき場という。この二つの石が立っているので立石崎というのである。〉
〈山田宇治に住む人が参宮しようと思う前には、まず必ずここで冷水を浴び身を清めて、その後でなければ宮中に入らない。〉
興玉石〈立石から八町ばかり沖にあり。〉干潮には見え、満潮には見えない。〈これを神として拝する。沖の霊の意である。〉
とある。夫婦岩は立石と呼ばれていたし、注連縄は中世以降で江戸中期までには張られたとみられる。この浜で海水に浸かって禊ぎをしてから伊勢神宮を参拝する、所謂「浜参宮」の風習についても記されている。
元興玉社は、海中の興玉神おきたまのかみの霊石――興玉石――を奉斎し、立石の前に遥拝所を設けただけだったという。明治四十三年(1910)ウカノミタマを祀る三宮さんぐう神社に合祀し、二見興玉神社と称するようになったとのこと。つまり夫婦岩は、沖にある興玉石を遥拝する鳥居の役目を果たしているわけだ。
なお、安政元年(1854)に発生した安政東海地震・安政南海地震による沈下で、興玉石は海に没したらしい。

さて、伊勢旅行三日目は、前日よりさらに早い3時半起床。就寝前に何度も天気予報を確認して、薄曇り予想が晴れに変わった。よし、それなら日の出が見られる可能性が高いし、頑張って早起きしようと。手短に支度を済ませ、未明の暗いなか車を出す。4時15分には二見浦公園駐車場に着けた。日の出の30分前、駐車場にはまだ余裕がある。
神社の第二鳥居をくぐり道なりに歩いていくと、夫婦岩が見えてきた。三脚を構えた人たちも数名。

それにしても風が強い。上着を着てきたのは正解だったけど、それでも少々寒く感じるほど。打ち寄せる波は高く、白波が立っていた。まさに「神風かむかぜの伊勢」を体感する思いだ。
場所取りの意味がどこまであるか読めないけど、直前までは僕独り残ることにして、嫁には車で待機してもらうことにする。体が冷えてはいけないからね。

夜明け前の空のグラデーション。地平線のあたりは真っ赤だ。この美しさは寒さを紛らすのに十分だった。
事前に日の出位置を調べておいたのだけど、三脚組はそれより西に陣取っている。僕の調べ方が悪かったのか?と不安になってしまい、彼らのそばで待つことにした。が、嫁が戻ってきて、いよいよさし昇る太陽を見て、選択を間違えたことに気づかされた。今からでも遅くない、場所を変えよう。

富士見橋あるいは日の出橋と称する境内の橋の上からなら、夫婦岩の間から朝陽が昇ってくるさまが見られる。5月下旬では西寄りがベスト。夏至に近づくにつれ、だんだん東にずれていくことになる。
良かった……拝めたよ……地球の自転による現象だと頭では解っていても、ぐんぐん昇る太陽には力強さを感じる。しかも雲一つなく、最高の天候。神々しいなどという陳腐な言葉では言い表せられないほど、感激したよ……手を合わせたくなるこの気持ちは、今も昔も変わらないと思う。感動を嫁と分かち合いつつ、気の済むまで日の出を見届けた。
興玉石がサルタヒコと結びついたのは中世以降だとしても、この神さまが太陽神であることは疑いない気がしたよ。

神社参詣のためその場を離れて振り返ると、スゴい人の数。日の出時刻が近づくにつれどんどん増えていったのを、背中越しの気配でわかったもんな。早起きは大変だけど、それに見合うだけの価値ある体験だよね。
あんまり岩壁に寄ると、潮をかぶりそうになった。危ない、危ない。それほどの強風が吹き荒れている。

二見興玉神社の拝殿にて拝礼。主祭神はサルタヒコで、相殿神にウカノミタマ。妻入りの切妻屋根が二重になっていて、猿田彦神社を彷彿させる。

側面に回って本殿を確かめる。神明造かな。

裏手には日の神遥拝所。ここから、夫婦岩を通して興玉神石を拝することができるということね。改めてお参りする。本殿や拝殿は少し軸がずれているけど、社殿の役割も興玉神石の拝所なんだろう。
さらに奥へ進めば夫婦岩に最も近づけるけど、道が波で濡れていたのでやめておいた。

陽が射してきて、暗かった境内も良く見えるようになってきた。手水舎の横には、天の岩屋。現在は本殿に合祀されたウカノミタマの旧跡に当たる。
『伊勢参宮名所図会』には、
三狐神しゃぐじ〈立石浜の岩に穴があって昼も火を灯している。その由緒はわからない。〉
とあり、江戸末期の伊勢国の地誌『勢陽五鈴遺響せいようごれいいきょう(天保四年(1833)安岡親毅やすおかちかたけ)』には、
またこの飛石を過ぎた辺りにしゃぐしの祠というのがある。白昼に燈火を点して参詣客に銭を勧める所である。三狐神と称する。これは酒殿神ウカノミタマの別名で、三狐が転じたものである。
とある。三宮神社のサングウジンが訛ってシャグジとなったのか、石神信仰が先にあってのシャグジなのか、よく判らない。ただ、少なくとも「天の岩屋」とは紹介されておらず、大正期の『二見浦名勝誌(大正二年(1913)坂本徳次郎)』に、
興玉神社域内に岩窟がある。地元民はこれを天の岩屋と称する。
とようやく出てくるので、天岩戸神話と結びつけられたのは早くても明治からじゃないかな。

傍らにはアメノウズメの石像。手に矛を持っている。『古事記』における天岩戸神話では、ウズメは矛を持っていない。ただし『日本書紀』には、
茅を巻いた矛を手に持って、
とあり、この像はそちらをベースにしたということか。

それと、境内のあちこちにカエルの像もある。サルタヒコの御使いであるとか、国土の隅々まで知り尽くすヒキガエルだから日の神に献じられたとか諸説謂れはあるようだけど、御祭神が海神と考えられた時期もあるので、航海安全を祈念して「無事かえる」との願をかけて奉献されたというのが、実態じゃないかなと想像する。

第一鳥居から出て、社号標を見上げる。字が読めないほど暗い時間から詣でるって普段しないから、見るのが最後になっちゃったよ。

立石からの日の出、バッチリ拝めて良かったよ~!天候に恵まれて、本当に有り難い限り。連日の早朝活動に付き合ってくれた、嫁にも感謝。

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