豊受大神宮の成立年代を考えてみた
2024年5月23日木曜日
16:47
実に9年ぶりの参拝。あの頃より知識が増えているし、情熱も増した。鎮座伝承は伝承としてもちろん楽しむけど、それはそれとして、実際の鎮座年代にも踏み込んでみよう。
豊受大神宮の由来は、『古事記』にも『日本書紀』にも載っていない。
「ある時、
天皇は驚かれてお目覚めになり、直ちに丹波国からお出かけいただいて、
外宮の創建が内宮より早かったとする説もある。だけど『古事記』や『日本書紀』はもちろん、『儀式帳』以下の神宮側の諸文献においても、そんな所伝はまったく見いだせない。雄略朝の創祀とする伝承が史実とは考えられないものの、内宮より遅れてのことだったという認識があったんだろうね。
外宮の主祭神である「トユケの大神」と同一神とされる神さまが、『風土記』逸文にも出てくる。『丹後国風土記』には、天女の羽衣伝説の一面がある。
「丹波郡の比治山の頂に、
『
「昔、トヨウカノメの神が、いつも
とあり、丹後国での出来事と関係がありそうにも思える。
丹波郡:
竹野郡:奈具神社
がそれだろう。
これらを統合すると、丹後国を中心に信仰されていた食物の女神が、
では、『古事記』には何と書いているのかというと、イザナミが火の神を産んだことで病臥している際に生まれた神として、
「次にワクムスヒの神。この神の子は、トヨウケビメの神という。」
と、ここでは名前が出てくるのみ。あとは、アマテラスが
「次にトユウケの神、これは
と当時の説明をするだけと、素っ気ない。『日本書紀』に至っては、トヨウケビメは登場すらしない。
そのうえ、『古事記』の後者の文は、天孫降臨には関係ないように見えて唐突に感じることや、原文「坐外宮之度相神」をどう読み下すのかという問題、「外宮」の語句は元々原文になく後の混入ではないかといった疑念など、様々な論点が含まれる(読み方の一案は、しれっと示しちゃったけどね)。
これらを僕はどう理解したかというと、天孫降臨神話には伊勢神宮の創建神話の要素も入り込んでいるんじゃないか、というのが一つポイントとして挙げられる。詳しくはアマテラス誕生のエントリーで述べるつもりなので結論だけ言うと、アマテラスの
次に、「外宮」は「とつみや」と読み、本来は離宮を意味する。『万葉集』にも「
『止由気宮儀式帳』の語る鎮座伝承に照らせば、アマテラスが望まれたように、もう「一所」のために
アマテラスの
「伊勢国守の
とあるのが、国史における豊受大神宮の初見。神護景雲への改元の契機となった、瑞祥のひとつとして出てくる。ここにその隆盛の端緒が垣間見えているように思う。
『止由気宮儀式帳』の次第を仮に信用するなら、丹後国丹波郡の比治の真名井から、竹野郡の奈具を経て、伊勢国
ただ、仮にと前置きしたのは、「トユケの大神」と「トヨウカノメ」を同一神として良いかが問題だからだ。「ウケ」や「ウカ」は食物を意味するけど、「ウカ」は特に稲を意味するとされる。伊勢への鎮座伝承が『儀式帳』にしかみえず、『古事記』でも度会に鎮座するいうだけで、何ら神話を語らないことからしても、丹後の「トヨウカノメ」とは別の、伊勢の在地神と思われてならない。
『丹後国風土記』を拝借した理由としては、アマテラスが巡歴したように、貴い神さまは遠方からやってくるという、
さらに踏み込んで言えば、伊勢の在地神とはいっても、あくまでもアマテラスの朝夕の御食事を世話するために、存在する神さまなんじゃないか。元々は、外宮の神官を世襲してきた度会氏の
というのも、伊勢神宮の前身と考えられる
内宮側の報告書である『
「
同朝の時に、度会の山田原に
とある。これは、
豊受大神宮の成立について、先述の通り『日本書紀』は触れていない。ただ、『
「
が、これを示しているとする説がある。
しかし、先に述べたように外宮の前身が、遅くとも孝徳朝には存在したとすれば、「多気大神宮」は外宮とは別物と考えたい。伊勢神宮の成立ならいざ知らず、離つ宮についてまで載せる必要はない、と国史編纂者には判断されたのかもね。
さて、時間の都合で
さらに北西には、それにしても、平日の15時を回ってもまだまだ参拝客が多いね。外宮でこれだから、内宮はもっとだろうな。
外玉垣南御門の些細なことだけど、初めは「トノタマガキミナミゴモン」と意味も解らず読んでいたのに、今では
お参りを終えてすぐ出てはもったいない。御幌の前から少し西に歩くと、外玉垣越しに、内玉垣南御門のほか、正殿などがちょこっと拝める。撮影禁止のため、目に焼き付けた。
古殿地の南にあるぽつぽつ雨が降り出したので、折り畳み傘を開いて二人で入ることにした。
前回は正宮だけだったけど、今回は
その先に98段の石段。一段一段が上りやすい高さと幅で、見た目ほどキツくない。
多賀宮は豊受大神宮第一の別宮。『止由気宮儀式帳』に、「
とある。御祭神はトヨウケビメの
階段を下りて、次は
『儀式帳』六月と十二月の月次祭十七日条に、
「大宮地神に
とあり、この「大宮地神」が土宮の前身とみられる。当初は社殿が無かったようだ。伊勢神道の思想を集大成した書、『
「大治三年(1128)、宮号
とあり、平安末期に別宮に昇格したという。
土宮の南にある見逃しそうな細い道を行くと、下御井神社。外宮所管社の一つだ。祭典で供される御料水は「永承二年(1047)の春の日より、御饌料の御井の水が枯れた。そこで土宮の御前の水を汲んで、御饌を備え進めたのである。」
とあり、実際にそういうケースが歴史上あったようだ。
上御井神社は立ち入れない場所にあって参拝は叶わない。公式動画を参考にすると、人が入れるほど大きな御殿で扉の中に井戸があるようだ。この下御井神社はとても入れそうにないけど、構造的にはほぼ同じ。
風宮の御祭神はシナツヒコ・シナツトベ。扱いとしては内宮のどれを取っても唯一神明造だから、ぱっと見では見分けがつかないね。
表参道まで戻り、次はそれから授与所に立ち寄って、豊受大神宮の御神札を授かった。
一の鳥居を抜けて振り返る。詣でただけなのに、なんともいえない充実感を覚えた。
最後に由緒書きの説明板を撮ろうとしたら、少人数ツアーの案内人が解説を始めてしまい、仕方なく待つことにした。長々と熱っぽい語りが終わったと思ったら、今度は外国人の団体ツアーが押し寄せてきた。割と簡単な英語だったので何気なく聞いていたんだけど、そんな風に説明するんだ~と妙なところに感心。彼らが動いて、ようやく写真に収められた。そこまでして撮るようなものじゃないとは思うけど、時間があったし、気になったものは残しておきたいから。中身を読みたいというより、この屋根付きなのがね。気づけば、陽が射してきてお天気雨になっていた。
【参考文献】
青木紀元「降臨神話の展開」『日本神話』有精堂,1970年
青木紀元「淡海之多賀と外宮之度相」『日本神話の基礎的研究』風間書房,1970年
大野由之「豊受大神私考」『瑞垣 (184)』神宮司庁,1999年
倉野憲司『古事記』岩波書店,1963年
神宮司庁『神宮要綱』神宮司庁,1928年
西田長男「伊勢神宮の剏祀」『日本神道史研究 (8) 神社編 上』講談社,1978年
西宮秀紀『伊勢神宮と斎宮』岩波書店,2019年
林一馬『伊勢神宮及び大嘗宮に関する建築史的研究』,1999年
福山敏男「伊勢神宮正殿の成立の問題」『日本建築史研究』墨水書房,1968年
穂積裕昌『伊勢神宮の考古学 増補版』雄山閣,2023年
青木紀元「降臨神話の展開」『日本神話』有精堂,1970年
青木紀元「淡海之多賀と外宮之度相」『日本神話の基礎的研究』風間書房,1970年
大野由之「豊受大神私考」『瑞垣 (184)』神宮司庁,1999年
倉野憲司『古事記』岩波書店,1963年
神宮司庁『神宮要綱』神宮司庁,1928年
西田長男「伊勢神宮の剏祀」『日本神道史研究 (8) 神社編 上』講談社,1978年
西宮秀紀『伊勢神宮と斎宮』岩波書店,2019年
林一馬『伊勢神宮及び大嘗宮に関する建築史的研究』,1999年
福山敏男「伊勢神宮正殿の成立の問題」『日本建築史研究』墨水書房,1968年
穂積裕昌『伊勢神宮の考古学 増補版』雄山閣,2023年