明日香で汗まみれレンタサイクル
2023年7月17日月曜日
21:56
予定外だけど、最後は明日香巡り。テーマとしてのまとまりは無いものの、元明天皇こと阿閇ちゃんの伝承地や、宝おばあちゃんや葛城パパ、吉備ひいおばあちゃんにゆかりの地もある。なので、道程に沿って都度スポットを紹介していくことにしよう。時刻は10時。夜明けから活動開始したお陰で、まだまだ時間がたっぷりある。でも予定は全部こなせたし、どうしようかな。あ、そうだ、嫁を連れていくには酷な場所へ行こう。明日香村で、行きたいけど車ではアクセスの難しい神社や史跡がいくつかあるんだ。
というわけで、道の駅飛鳥の駐車場に車を置き、初めてレンタサイクルを利用することにした。通勤にMTBを使っているけど、シティサイクル(所謂ママチャリ)は久しぶりだな。
地図アプリで最短ルートを確認し、漕ぎだす。ペダルを漕ぐ回数に比して、あまり進まないしスピードも出ない。解っていたことだけど。それはさておいても、ルート選択を誤ったかもしれない。うんざりするような坂道を上るハメに。手で押したほうがマシだと、急坂は自転車から下りて歩く。道標には「朝風峠」との表記。ひぃ~、峠越えかぁ~。今更戻るのもしんどいし、進むしかない。真夏の太陽を浴びながら、ひたすら上りのサイクリング。スポーツドリンクを欠かさず補給していたから大丈夫だったけど、滝のような汗をかいた。
参道の石段は200段近いと聞く。そうだった、ここにはコレがあるんだった……。心が折れそうになるも、ここまで来てお参りしないなどあり得ない。少し休憩してから、石段を上っていった。
石段を上り切っても、なお上り参道が続く。腕からも額からも、ぽたぽたと汗が滴り落ちる。木立の中でしっかり息を整えたあと、もうひと踏ん張り。
なにもこんな酷暑の日に来なくたっていいじゃないね……と途中で後悔しつつも、なんとか辿り着いた。石に腰かけて、ぼんやり社殿を眺めては、完全に息が整うまで休む。
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は、日本一長い名前のお社。ウスタキヒメを主祭神とし、神功皇后・応神天皇を配祀する。
『日本書紀』皇極天皇元年(642)条によれば、
民間信仰的な中国風の祭でも仏教の請雨法でも、雨乞いの効き目が無いなか、皇極天皇がといい、天皇が雨乞いをされたのがここといわれる。南淵 の川上においでになり、天を仰いで祈られると、雷が鳴って大雨が降った。雨は五日間降り続き、広く隅々まで天下を潤した。
宝おばあちゃん(皇極天皇)は、この描写から巫女だったんじゃないかとも言われている。孫の阿閇ちゃん(元明天皇)に、そういう素振りはないけど。
本殿は無く、背後の
失礼しました、ゆっくり休ませていただいてありがとうございましたと、柏手を打った。
ふと水の音に気づく。全身くたくたで色んな感覚が閉ざされていたのかな、ずっと音はしていたはずなのにね。そういえば飛鳥川の上流なんだっけ。
戻る途中、登ってくる家族連れとすれ違った。結構長いこと座っていた間は、誰もやって来なかったのに。本当に、神さまがくださったひとときだったのかもしれないね。
石段を下りて自転車に跨り、県道15号線を戻っていくと、小さな滝を見つけた。上で聞いたのは、この音だったのか。
神社が高所にあったからか、あとは下りが多くてかなり楽ができた。漕がずに風を受けるのが気持ち良い。
それから
その先に鳥居が見えてくる。祠があって、中臣鎌足をお祀りする談山神社らしい。
小祠の南側、神明塚と呼ばれる塚の前に、南淵先生之墓と刻まれた墓標が。合掌。
南淵請安は、ここ南淵に居住していたという、渡来人。推古天皇十六年(608)に留学僧として隋へ渡り、舒明天皇十二年(640)に帰朝、中大兄皇子や中臣鎌足らに儒教を教授したと、『日本書紀』は伝える。生没年不詳だが、乙巳の変や大化改新に参画した形跡がないため、その頃にはすでに死去していたとする説がある。
次は飛鳥川の飛び石。
明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかもという万葉歌碑が傍らにあった。この石橋かどうかは判らないけど、歌に詠みたくなるほど情緒ある景色だよね。
(明日香川、明日も渡ろうと思うその石橋のように、飛び飛びの遠い心など思ってもいません(ずっとあなたを思っています))
川面を見ていたら、小さな魚が泳いでいるのを見つけた。これだけ澄んでいるんだもの、そりゃあ生き物だっているよね。
上流のほうの飛び石にも行ってみたけど、流されたのか石橋の体を成していなかった。
道なりに下っていくと、「稲渕棚田」の看板があった。よく見聞きはしていたけど、ここがそうなんだ。確かに美しい光景。反対方向から走ってきた自転車も、足を止めていた。
ちなみに、稲淵は南淵の転訛と考えられる。
続いて
『日本書紀』白雉四年(653)条に、
中大兄皇子が、「とある。この「飛鳥河辺行宮」の候補地がここだ。倭 の京 に遷りたいと思います」と奏上したが、孝徳天皇は許されなかった。中大兄皇子は皇極上皇・間人皇后 ・大海人皇子らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮 に行かれた。その時、官僚や役人たちは皆付き従って遷った。
葛城パパ(中大兄皇子)たち、軽さん(孝徳天皇)への仕打ちがなかなかヒドいよね。
戻るついでに
飛鳥地域には多くの謎の石造物があるが、この亀石には次のような言い伝えがある。
昔、大和の国中が湖であったころ、湖の対岸の当麻と川原との間にケンカが起こった。当麻の主はヘビ、川原の主はナマズ。ケンカは川原の敗北となり、湖の水を当麻に取られてしまった。そのため湖底は平地へと変わり、湖に住んでいた無数の亀は、みんな死滅してしまった。何年か経って村人は、この哀れな亀の霊をなぐさめるため、亀の形の供養碑を元の湖岸に建てた。今は、お亀石はといわれている。未申 (南西)向きだが、もし西向きになって当麻をにらむ時には、一度平地となった大和盆地が、また泥海となる。
アニメ「よみがえる藤原京 時を駆けたファイターたち」では、亀石が西を向いたことで時空嵐が起こり、エドモンド本田らは1300年前に飛ばされてしまったんだけど、泥沼になるんじゃあなく藤原京に行けるのなら、西を向いてくれないかな~、なんて。
そのあとは、
自転車は石碑の前に停め、日傘を差して拝所まで歩いた。
丘の上から拝所を見下ろす格好になるのは珍しい。近くまで行って拝礼。
ところで、『今昔物語集』に「元明天皇の陵を点ずる定恵和尚」という話がある。
勅命を受けた定恵はという。多武峰 の近くに素晴らしい土地を見つけるが、天皇のご墓所として相応しくないとして採用しなかった。その後、多武峰の麓の北西、軽寺 の南にある広い土地を選んだ。これが元明天皇の桧隈陵である。鬼の姿をした石の像を周りに巡らせ、池辺陵の墓に向けて立てたが、たいそう立派なものであった。
軽寺跡は橿原市大軽町の法輪寺付近とされ、その南にあるのが平田梅山古墳。定恵は元明天皇より先に亡くなっているため、辻褄が合わない話なんだけど、こうした伝承が生まれる素地があったのかな。それに、当時は平田梅山古墳を、欽明天皇陵ではなく元明天皇陵とみていたということなんだろうね。
そこから南西に、
墓域内に置かれた4体の石造物は、元禄十年(1697)に欽明天皇陵のすぐ南の水田から掘り出され、その形から
『今昔物語集』にある鬼の石像は、この猿石のことかもしれない。とすれば、かつては御陵の周囲に配置されていたわけか。それがいつしか田に埋没してしまったと。
10kmを超える道のりを走破し、明日香レンタサイクル飛鳥駅前営業所に帰着。体力的にはキツかったけど、安全に戻ってこれて良かったよ。
再び愛車の冷房に癒されつつ、ちょっと遅めに昼食を考える。ダメもとで『花水土香』さんにお電話してみたら、席に空きがあるとのこと。やったー。
残念ながら軽食セットは売り切れちゃっていたけど、美味しい点心が疲れた身体に染み渡る。台湾ジュースを取り扱うようになっていて、試しにパパイヤミルクを飲んでみた。濃厚な甘さがまた、疲労回復に有り難い。近々実家に行く予定があったので、手土産にと月餅も購入。店主ご夫婦とのお喋りも楽しい。ごちそうさまでした。
ちゃんと休めたお陰で、帰りの運転も問題なし。
二日間、ネタとしては詰め込みすぎなくらいあったけど、一つひとつスポットをじっくり体感しながら巡ることができた。嫁にああだこうだ言って話題を共有できないのは、ちょっぴり寂しかったけど。
ただ、暑さが堪えたなぁ。せっかく日焼け止めを塗っていたのに、車に置き忘れて塗り直しができず、派手に腕が焼けてしまった。手の甲が特にひどいのは、自転車でハンドルを握っていたからか。ここは反省点。次に活かそう。