大物主神と事代主神 3 大直禰子神社
2023年7月16日日曜日
08:19
オオモノヌシ祭祀を始めたオオタタネコがその神の子孫だということは、『日本書紀』にも記されているけど、その経緯は『古事記』にのみ載っている。大神神社の記事で紹介済みなので内容は割愛するけど、この三輪山伝説は、オオタタネコという人が「神の子と知ったわけは」で始まり「それでその神の子と知った」で終わることで、オオモノヌシの子がオオタタネコであると読めるようになっている。でもその部分を除けば、美和(三輪)の地名由来伝承なんだよ。そもそも、子が生まれたということが伝説の中では語られていない。
オオタタネコの出身地を、『古事記』は
オオタタネコが見つかったのは美努村だけど、イクタマヨリビメがどこに住んでいたかは不詳。地名伝承であるなら、この伝説の舞台は美和。子の誕生に触れていないのは、それがオオタタネコではなかったからかもしれない。
ちなみに、美努村から美和山まではおよそ30km。しかも生駒山地を越える。糸を辿っていくには随分遠いように思えるし、何より30kmにも及ぶ糸を紡げるだろうか。神話とはいえ、さすがに非合理だと思うんだよね。
泉北丘陵一帯からは、500基とも1000基ともいわれる無数の窯跡が見つかっており、『日本書紀』の記載にちなんで
さらに、三輪山から出土する祭祀遺物の中には、陶邑で焼かれた須恵器が多く含まれるといい、5世紀後半から6世紀後半のものが数を占めるという。
陶邑と三輪山祭祀の結びつきは強い。こうした背景を基に、オオタタネコの出自が陶邑であることを理解しないといけないってことだね。
『古事記』はオオタタネコが大神氏・賀茂氏の祖先といい、『日本書紀』は大三輪の神が大神氏・賀茂氏の祖先という。『先代旧事本紀』地祇本紀や『
オオタタネコは、複数の氏族の系譜の結節点に位置付けられている。ということは、陶邑は大神氏だけでなく賀茂氏にとっても重要な拠点であり、須恵器を巡ってこの地で交流を繰り返したことが、両氏族が同祖関係を形成するひとつの要因になったのかもしれないね。
『日本書紀』雄略巻に登場する
この大神氏の勃興から最盛期に至り低迷する時期は、三輪山周辺の祭祀遺物の出土量と不思議とリンクする。ということは、5世紀後半から6世紀後半にかけて、大神氏が一貫して三輪山祭祀を司っていたことを示唆しているんだろうね。
ただ、だからといって、それ以前に三輪山祭祀が行われていなかったことにはならない。
オオタタネコがオオモノヌシ祭祀を始める前は、王権による祭祀が行われていたんじゃないかな。そのことが、ヤマトトトヒメやヌナキイリヒメ(ヌナキワカヒメ)といった皇女の所伝の中に込められているのかもしれない。
王権から一氏族に祭祀が委ねられるというのは、重大な方針転換だよね。よほどのことがあったんだろう。それはおそらく、疫病の流行。伝承では神の祟りとして語られているけど、実際に起こったと考えて良いと思う。遠い昔のことであっても、人々の記憶に強烈に焼き付いた出来事だったろうから。王権の祭祀ではどうにも収まらなかったが、大神氏の須恵器を用いた祭祀によって止んだ。それを伝えるのが、オオモノヌシ祭祀伝承なのではと。
そこへ、大神氏らの始祖伝承、大和の地主神の遷座伝承をも絡めているため、複雑な話になっているんだね。
王権が行う前の祭祀となると、もはや文献の無い時代なので証明は難しい。だけど、
磯城県は三輪山の麓に位置しており、神武東征においてはエシキ・オトシキが支配する地域。神武天皇に従ったオトシキは、磯城県主に任命される。『古事記』では神武天皇の皇后は三輪のオオモノヌシの娘で、そこから
さてさて旅の続き。「神武天皇と五十鈴姫」のレリーフを見たあと、西の突き当たりを南に折れると、左手に三輪山を見上げることができた。水田に映る姿がまた美しい。
それから大直禰子神社を参拝。
境内から出ようとしていたところ、犬の散歩をされている方が足を止め、鳥居のほうにぺこりと頭を下げるや、また歩いていかれるのを見た。地元の方にとって、お社はとても身近な存在なんだろうね。きっと、いつものコースのいつもの挨拶。いいなぁ、そういう関係。
オオモノヌシについて大体整理できたところで、次は葛城地方へ向かおう。
【参考文献】
大物主神と事代主神 7 文末参照
大物主神と事代主神 7 文末参照