神話と古代ロマンあふれる天香久山
2023年7月17日月曜日
08:32
奈良県橿原市にある
天香久山・畝傍山・耳成山は大和三山と総称されるが、天香久山だけに「天」と付く。
『古事記』天岩戸の段では、
『伊予国風土記』逸文に、
とある。『阿波国風土記』逸文では、天加具山 が天から降ってきた時に二つに分かれて、片方は大和国に天降り、片方は伊予国に天降った。
空より天降ってきた山の大きなほうが、阿波国のという。天香久山は、元々は天にあった山と考えられていたわけだ。天本山 で、その山が一部砕けて大和国に降りついたものが天香具山 。
『日本書紀』神武巻には、
ひそかに天香山のとある。また崇神巻には、謀反を企てているタケハニヤスヒコの妻アタヒメが、埴土 を取り、たくさんの土器を造って神々を祀ったことで、天下を平定することができたので、土を取った所を埴安 と名づけた。
こっそり倭の香具山の土を取って、「これは倭国のとある。天香久山の土には、大和を象徴した呪力が秘められていると信仰されていたのだろう。物実 (代わり・代表の土)」と言って帰った。
『万葉集』でも「とりよろふ天の香具山」、「
天香久山の北麓には
『日本書紀』神武巻にある「天香山社」が当社であるなら、このあたりから埴土を採取したということになるだろうか。御祭神のクシマチは、卜占の神ではないかと考えられていて、天岩戸神話との関連を窺わせるね。
天香久山の埴土は、赤埴・白埴の2種があると伝わる。山頂の茶褐色の粘土は、塑性があり成形しやすく土器の焼成に向いているという。
山の西側には、同じく式内社の
『万葉集』の柿本人麻呂が
「埴安の池」は今となってはまったく失われているが、池畔から藤原京が見えたといい、「
そこに隣接する
イザナギの御涙から成った神はとある。この女神を御祭神とし、香山 の畝尾 の木の本に坐して、名をナキサワメという。
「畝尾」は山の裾のことだろうけど、それにしては山から少し離れたところに建っている。神社はしばしば移動する。この周辺は発掘調査が行われており、遺構の状況から、少なくとも藤原京の時代には、現在地に当社が存在しなかったことが判明している。当社にしろ畝尾坐健土安神社にしろ、当時はもっと山の近くに鎮座していたのかもしれない。
ナキサワメは、涙から成ったことから水の神と考えられる。原義としては水音のする沢、
「埴安の池」の前にあることから、ナキサワメはこの池の水神でもあったのだろう。『万葉集』に「
とある。「我が大君」は高市皇子のことで、桧隈女王はその縁者とみられ、妃とか娘とかいわれている。高市皇子の宮の近くというだけでなく、天香久山の聖水をたたえた埴安の池の女神だからこそ、大切な人の命を祈ったということだろうね。哭沢 の神社 に神酒 すゑ祷祈 れどもわが王 は高日知らしぬ
(泣沢の社に神酒を捧げ、蘇られるようにお祈りしたが、我が大君は空高く昇っていかれた)
さて、今回の宿泊先はカンデオホテルズ奈良橿原。初めて利用したけど、良い所だった。落ち着いた雰囲気で、部屋も結構広い。学生の団体さんがロビーなどに屯していて少々やかましかったのは、ホテルのせいではないし。橿原方面への旅行には、今後も使いたいな。
せっかく橿原に泊まるなら、人の少ない時間帯の橿原神宮を見てみたい。日の出から1時間ほど経ったくらいなら十分明るいだろうと、6時にチェックアウト。カードキーをボックスに入れるだけで済んだ。それから橿原神宮遊苑駐車場へ。6時半にもなっていないのに、すでに数台停まっていた。お仲間かな。
早朝の橿原神宮表参道には、ほとんど人影が無い。さすがにまだ暑くないし、朝陽に照らされた素木の鳥居の美しさに、見惚れるだけの余裕も持てる。
南神門越しに畝傍山。
玉砂利が奇麗に掃き清められていて、踏むのが申し訳ない気もするけど、外拝殿へまっすぐ向かう。
地元の方のウォーキングコースになっているようで、拝殿のほうへ向き直って一礼して、また歩いていく姿を見かけた。前日にも似たような日常の風景を見て素敵だなと思ったけど、やっぱり良いね。
大きな外拝殿を独り占めして参拝できた。清々しい気持ち。
次もついでみたいなもので、藤原宮跡で蓮の花が見頃を迎えたとのニュースを見たので、行ってみた。
蓮池最寄りのD駐車場は、7時前だというのにかなり埋まっている。これほどとはね。
見頃なのは北側の池だけで、全体的にはまだまだこれからといった具合。それでも凄い人の数で、気合の入ったカメラを携えた人も多い。早々に立ち去ることにした。
朝堂院東門あたりに行ったのも初めてだな。この復元列柱は、実際の位置より北へ20mずらして設置されているらしい。
藤原宮跡で蓮の花を見たあと、香久山観光トイレ駐車場へ移動。トイレは9時にならないと利用できないようだ。
そこからは徒歩で畝尾都多本神社へ。鳥居をくぐる前に虫除けスプレーを振っておく。
前掲の桧隈女王の万葉歌碑があった。やっぱりこれは外せないよね。
社殿は不思議な配置になっている。写真奥の東にあるのが本社かと思いきやこちらは八幡社で、参道に対して横向きに建つ写真左のほうが本社拝殿らしい。
社号標のあった現在の入口とは別に、北側に旧参道と思しき道があった。この道は、まっすぐ八幡社に向かって延びている。
末社であった八幡社のほうが、近世においては主な信仰対象となっていたというところだろうか。あちこち神社の変遷を見てきた中にそういう例はあったし、ここもそうかなぁと。
啼沢社に本殿は無く、啼沢という井戸を御神体とする。見えないけど。
ここが創建地でないとしたら、この井戸も後から作ったのかな。だとしても、そういう神さまであると理解されていた証左だよね。
下八釣町の農道を通っていくと、天香久山が。山と呼ぶにはなだらかで、丘といったほうがしっくりくる。畝傍山や耳成山、あるいは三輪山のような均整の取れた山容ではない。
それでも神秘の山と崇められたのは、むしろその形にある。平野部に岬のように突き出していて、古代においては海に面していなくても、ミサキと呼ばれた地形だ。ミサキは
南浦町の集落の中に、天香山神社。朝陽の射すほうを向くことになって、字が読みづらい。
持統天皇の「春すぎて夏来るらし白栲の衣ほしたり天の香具山」の歌碑。
「春が過ぎて、夏が来たらしい。真っ白な衣が干してある、天の香具山に」と、讃良ちゃんが季節の変わり目を感じたままに歌った叙情詩……ではないんだろうね。神性を秘めた天香久山を出しているんだから。
「天香山白埴聖地」の石碑も立っていた。
さらには
小さな境内ながら、天香久山にまつわる要素で一杯だ。
元来た道を戻る。天香久山の手前のこんもりしたところは、赤埴山というらしい。「天香山埴安伝承地」の碑が立っているんだとか。
それから畝尾坐健土安神社へ。
地元の方がお掃除をされていたので、朝の挨拶をしようと口を「お」の形にした瞬間、先に「こんにちは」とお声がけいただいてしまい、どうにか「こぉんにちは」とお返しした。
こちらには「天香山赤埴聖地」の石碑。赤埴・白埴については文献を見つけられなかった。土地の口伝なのかな。
橿原神宮から藤原宮跡を経由して、天香久山周辺の神社と、我ながら良い回り方ができた。
だんだん暑くなってきて大変だけど、まだまだ歩くぞ。