大物主神と事代主神 2 狭井神社
2023年7月16日日曜日
07:49
オオモノヌシと関わりが深い神さまとして、『日本書紀』にのみ登場するのがヤマトノオオクニタマ。出雲のオオクニヌシの別名は数多いけど、その中にオオモノヌシ・オオクニタマという名前もみえる。
ヤマトノオオクニタマが出てくるのは、大神神社の記事で触れた、崇神天皇の時代に疫病が起こったという話だ。少々長くなるけど、概観しておく。
宮中にはアマテラスとヤマトノオオクニタマを一緒に祀っていたが、皇居の外で別々に祀ることにする。アマテラスは、トヨスキイリヒメに託してこれでも端折ったんだけど、欠かせない要素が盛りだくさんなせいで、長くなってしまった。賀茂氏と大神氏の祖先というオオタタネコによるオオモノヌシ祭祀と、倭 の笠縫邑 に祀る。ヤマトノオオクニタマは、ヌナキイリヒメに託すが髮が落ち体が瘦せて祀れない。疫病が流行るなど、国内が荒れる。崇神天皇が事態収拾のため占いをすると、オオモノヌシが、ヤマトトトヒモモソヒメに神懸かりして、自分をよく祀るよう託宣する。しかし、崇神天皇が祀っても効果が現れない。オオモノヌシが今度は崇神天皇の夢に出て、「国の治まらないのは、我が心によるものだ。もし我が子のオオタタネコに私を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう」と託宣する。また、モモソヒメら三人が同じ夢を見て、「貴人が夢に現れて、『オオタタネコをオオモノヌシの神主に、イチシノナガオチをヤマトノオオクニタマの神主にすれば、天下は平らぐだろう』と言われた」という。崇神天皇は、イカガシコオに祭具を作らせ、オオタタネコにオオモノヌシを祀らせ、ナガオチにヤマトノオオクニタマを祀らせ、さらに八百万の神を祀らせると、疫病が収まり国内はようやく鎮まる。
その中で、オオモノヌシが疫病は自身の祟りで自身を祀れば収まるという一方、臣下たちの夢に現れた貴人はオオモノヌシに加え、ヤマトノオオクニタマを祀ることも必要だという。これに先立って、皇女によってアマテラスを祀らせることに成功し、ヤマトノオオクニタマでは失敗している。
ここで疑問が生じる。祟りを引き起こしたのは、本当にオオモノヌシなんだろうか?貴人の正体は誰なんだろうか?
これを解く鍵が、大神神社と狭井神社で現在も続いているお祭りにある。毎年4月18日に行われる
鎮花祭は、『律令』神祇令・
大神・狭井の2社の祭り。花の散る頃に疫病が起こるので、それを防ぐために執り行う。とある。そう、オオモノヌシ祭祀伝承は、鎮花祭の起源伝承でもあるのだ。
『延喜式』に載っている鎮花祭の祭神料を比べると、大神神社より狭井神社のほうがその種類も量も多いことから、お祭りの中心は狭井神社にあったと考えられる。また、狭井神社の北の小さな谷筋を流れている小川が狭井川と伝えられているんだけど、『古事記』に、
川の周辺にヤマユリが多く生えているので、ヤマユリの元の名であるサイにちなんで、狭井川と名づけられた。とある。神饌の薬草の名を冠することからも、鎮花祭は狭井神社のお祭りといえるだろうね。
狭井神社の主祭神は現在、オオモノヌシの荒魂となっている。ところが、大神神社の神職である越家所蔵の『社記(正徳三年(1713))』によれば、華鎮神社の5柱の御祭神の第1にオオクニタマを挙げている。同蔵の『享保中大神社覚書』でも、狭井神社の主祭神はオオクニタマとしている。仁安二年(1167)の奥書を持つ『大倭神社註進状』は宝永年間(1704~1711)に作文された偽書とする説もあるけど、軽視できない所伝が多いとされ、その中でも狭井神はオオクニタマと記されている。ヤマトノオオクニタマを現在でも主祭神とする
つまり、疫病を防ぐための鎮花祭は、元々はオオクニタマに向けた神事だったと考えられるんだよ!
オオクニタマは「大国魂神」などと書くように、土地に根ざした神。ヤマトノオオクニタマは、大和の地主神という意味の名前といえるよね。
『日本書紀』の崇神天皇の時代の話を述べる際に省略したけど、そこに注目したい記述がある。崇神天皇がモモソヒメに憑依した神に名を尋ねると、
「私はと。御諸山の神ではなく、大和の土地の神としての名乗りだ。この神話は、ヤマトノオオクニタマの伝承を基にしているということじゃないかな。倭国 の域内にいる神で、名をオオモノヌシという」と答えた。
ということは、臣下たちの夢に現れた貴人の正体も、ヤマトノオオクニタマだろうね。本来はヤマトノオオクニタマの伝承なので、オオモノヌシとは書けなかったのではと。ぼかすにしても、単に「神」とすれば良かったのに、「貴人」とするから引っかかる。神ではなく人が夢で託宣するのは珍しいからね。
『日本書紀』
ヤマトノオオクニタマが本文とは違い崇神天皇が短命だったことになっており、異伝であることは間違いないけど、ヤマトノオオクニタマ祭祀の経緯は明白だ。夢の中の貴人などではなく、大水口宿祢の口を借りて、ヤマトノオオクニタマ自身が祀ることを要求している。大水口宿祢 に神懸かりして、「天地の開き始めた最初の時に約束して、『アマテラスはことごとく天原 を治めるように。代々の天皇は葦原中国 を治めるように。私は自ら地主の神を治めるように』ということだった。それなのに、先代の崇神天皇は神祇をお祀りなさったが、詳しくその根源を探らないで、枝葉に走っておられた。それで天皇の命は短かった。今そなたは、先代の及ばなかったところを悔い、よくお祀りすれば、そなたの命も永く天下も太平であろう」と言った。天皇はこれを聞いて、ヤマトノオオクニタマを誰に祀らせるか占ったところ、ヌナキワカヒメと出た。そこでヌナキワカヒメに命じて祀らせたが、体が痩せ弱って祀ることができなかった。それで倭氏の祖先であるナガオチに祀らせた。
ヤマトノオオクニタマは大和の地主神で、皇女による祭祀に失敗したあと、疫病を引き起こした。そこへ、オオタタネコがやってきてオオモノヌシを祀るようになると、御諸山の伝承もヤマトノオオクニタマの伝承も、オオモノヌシの伝承に組み込まれていった……ということかもしれない。
大和の地主神といえる神さまがオオモノヌシ・ヤマトノオオクニタマと2柱も、それもすぐ近くに鎮座していたというのは、不自然に感じる。そうなると、オオモノヌシという新しい名が付く前の「御諸山の神」は、ヤマトノオオクニタマと考えるのが自然なような気がしてきた。
ここまで述べてきたことはもちろん、現在の神社の御祭神やお祭りを否定するものではないよ。『日本書紀』編纂の時代において、どのように正史をまとめていったのかを論考してみたまでだし、これらを否定する説もある。あくまで僕はこう理解したよ、っていうだけだからね。
これは余談だけど、宮中にヤマトノオオクニタマを祀っていた頃があったのに、アマテラスを皇祖神とする設定ができたため、揃って宮中から出て祀られたことにした、ってことなのかなと邪推。
さて、大神神社の拝殿から北西の祈祷殿の前を過ぎると、くすり道。御祭神のことはともかく、狭井神社がどういうお社なのかをよくよく理解した今は、この道の名前の意味もよく解る。始めて通った時には、その理由にまで思い至らなかったのにね。
鳥居と注連柱をくぐり、狭井神社の拝殿にて拝礼。
授与所のベンチで休憩したり御神水を汲んだりしている人がいるくらいで、こちらもとても静か。
三輪山登拝口は、受付時間前なので閉ざされている。茅の輪と
鳥居まで戻り、山辺の道を北へ。木陰が無くなると、途端に陽射しが肌をジリジリと照りつけてくる。日傘の有難みを嫌というほど実感した。
狭井川を渡って、少し進んだら西に折れる。
そこに、
今回は桧原神社に行くつもりはないので、山辺の道には戻らず大直禰子神社へ向かおう。
と歩き出したら、新しそうなレリーフが立っているのを見つけた!『三輪明神縁起絵巻(昭和四二年(1967)平澤定人)』の「神武天皇と五十鈴姫」の場面を基にしていると思われる。「ささゆりの会」という団体が立てたもののようだ。
山辺の道から外れているし、顕彰碑だけを目指していかないと、たぶん出会えない。僕がこちらの道を選んだのだって、偶然みたいなもの。こんな所にこんなものがあるとは知らなくて、嬉しくなったよ。
【参考文献】
大物主神と事代主神 7 文末参照
大物主神と事代主神 7 文末参照