奈保山御陵に想いを

2018年3月24日土曜日 22:51

東に元明げんめい天皇、西に元正げんしょう天皇の陵がある、奈保山御陵なほやまごりょう。奈良時代を築いた母娘の女帝の眠る丘だ。
元明天皇の勅命で始められた風土記の編纂。風土記は、律令体制を確固たるものにするための、極めて政治的な地誌。だけど、それで遊んでいる僕としては、感謝と謝罪を伝えたいと、思うようになった。この度、念願を叶えてきたよ!

平城宮跡歴史公園を後にした僕たちは、車で一旦JR奈良駅近くのコインパーキングに向かった。そこから奈良交通バスに乗り換えて行こうと考えてのこと。というのも、奈保山御陵付近に駐車場がなく、自家用車で行くのは無理と判断したから。幸い複数の路線が通っており、本数も多い。
しかし、公園ではしゃぎ過ぎたのと人混みにもまれたのとで、二人とも少々疲れが出ていた。そこで、乗るバスを決めてから、近くのハンバーガーショップでお茶休憩。チキンの塩気で疲労回復。

JR奈良駅西口15番のりばから、高の原駅ゆき(115系統)もしくは加茂駅ゆき(108,109,208,209系統)に乗り、奈保山御陵の停留所まで。20分以上揺られていただろうか、ようやく到着。


信号を渡らずに済むので、まずは奈保山西陵なほやまのにしのみささぎ。元正天皇の御陵だ。日本書紀に続く正史である続日本紀しょくにほんぎに、「物静かで若く美しい」と書き残されているほどのお方。名前の氷高ひだか皇女という字面も綺麗。母である元明天皇を支えていたところから、聡明なイメージがある。


在位中に養老律令の編纂が開始されており、また日本書紀が完成している。
どんな人だったかを嫁に解説し終えたところで、拝礼。

続いて、バスで通った道をまたいで、反対側の狭い路地を歩く。うん、車で行かなくて正解。停めるスペースないわ。


奈保山東陵なほやまのひがしのみささぎ。ここが、元明天皇の御陵。
元明天皇は名を阿閇あへ/あべ/あえという。中断していた古事記編纂作業を復活させたのが彼女。また、風土記編纂の詔勅を下したのも彼女。古事記と風土記をとことん楽しませていただいている身として、気持ちを直接お伝えしたくて、ここまでやってきた。ありがとう!そしてごめんなさい!この想い、届けとばかり、普段より長く手を合わせた。もう、感慨無量……!阿閇皇女さまのお陰で、今が楽しいといっても過言ではない。しばらくこんもりした山を、惚けたまま眺めていた。


続日本紀は史書ではあるけれど、エピソードから人柄が読み取れるんだよね。
養老5年、元明上皇(娘に譲位後なので上皇)は今際にあって、自身の葬儀に関する詔を出してる。葬儀を盛大にするな、改葬するな、天皇や皇族も役人も平素と同じく仕事をして参列するな、棺を載せる車も華美にせず地味にしろ、山を削らずカマドを築いて葬場としろ、などと仔細。しかも、一事も勅の内容を欠かすなと念押しまで。事細かに指示してるけど、ざっくりまとめると、人も金もかけず質素に済ませよと。 役人だけでなく人民たちも気遣ってて、とても優しい人だったのかな、って。
元明上皇はさらにおくりなの指定までしてて、「某国某郡朝廷御宇天皇」とせよと。要するに大袈裟な名前を後世に伝えるな、ってことなんだと理解した。 徹底的に自身の扱いを地味にしようとしてるんだ。


この山は築かれたものなのか、元々あったもので、そこに葬られたのか。
元明上皇崩御の後には、「喪の儀を用いず。遺詔に由りてなり。」とある。命じられたことを守り、もがりなどの儀式を行わなかったと。 陵をどうしたかには言及してないけど、こっちもちゃんと遺詔に従ったと思いたいな。

滞在時間わずか十数分。だけど、とても充実したひとときだったよ。
次の奈良駅ゆきのバスにすぐ乗って、駅に戻ったら車を出して帰路へ。

平城宮跡から所縁の深い女帝お二方の御陵をお参りという、僕には幸せ過ぎる旅だった……。はしゃいでいる僕を見て、嬉しそうにしてくれる嫁。いつもいつもありがとう。
さぁ、頑張るぞ!

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