高千穂神社と鬼八伝説

2023年5月11日木曜日 18:54

高千穂神社たかちほじんじゃは、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井にある神社。御祭神は高千穂皇神たかちほすめがみ十社大明神じゅっしゃだいみょうじん。高千穂皇神は「日向三代」と称される皇祖神とその配偶神(ニニギとコノハナサクヤヒメ・ヒコホホデミとトヨタマヒメ・ウガヤフキアエズとタマヨリヒメ)の総称で、十社大明神はミケイリノ・ウノメ姫など10柱の神々の総称とされる。
御祭神の中心となるミケイリノは、神武天皇の兄であり、『日本書紀』でも『古事記』でも波頭を踏んで常世とこよに渡ったと記されているけど、社伝によれば高千穂に戻って荒ぶる神の鬼八きはちを退治したという。
高千穂郷八十八社の総杜であり、土地独自の伝承も興味深いので、お参りしてきたよ!

まずは高千穂神社の縁起における、鬼八伝説のあらすじを挙げておこう。『十社大明神記(文治五年(1189))』、『高千穂十社御縁起(建武五年(1338)了観)』、『日向記(宝暦九年以前(~1759))』、『日向旧跡見聞録(宝暦九年(1759)道順)』、『高千穂庄神跡明細記(文久三年(1863)樋口種実)』、『日向地誌(明治一七年(1884)平部嶠南)』を参考にした。
神武天皇の縁者が高千穂に来られて、美しい姫に恋をした。それから、二上山の麓の洞窟に住む鬼八法師きはちほうしという者を退治し、池に石で蓋をして封印したが、それでも動くので、3つに斬って埋めた。そして姫を妻にした――というのが、ほぼ共通する展開。
鬼八を退治した大明神は、中世の縁起では神武天皇の皇子といっていたのが、江戸後期になるとミケイリノ(三毛入野命)――神武天皇の兄――に変わる。話の筋も、鬼八の妻を強奪したといっていたのが、逆に悪事を働く鬼八から助けたことになる。その大明神の妻となる姫の名前は、ウノメ姫だったりアサラ姫だったりとまちまち。ただ、『日向記』ではアサラ姫を妻にしたとする一方、ウノメ姫も妻だといっており、同一人物とみることもできる。

御祭神の変遷や鬼八の立ち位置の変わり様に、色々と思うところはある。鬼八伝説について研究する人は多いし、そこから氏族同士の争いの歴史も透けて見える。だけどここは敢えて、神話としての整合性という面から考えてみたい。
神武天皇の皇子は、東征前の日向でアヒラツヒメ(アヒラヒメとも)との間に産まれた子がおり、『日本書紀』ではタギシミミ、『古事記』ではタギシミミ・キスミミ。また、大和で皇后として迎えたヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)は、『日本書紀』ではカムヤイ・カムヌナカワミミ、『古事記』ではヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌナカワミミを産む。タギシミミは反逆しようとして討たれるし、キスミミの事績は不詳。
『高千穂十社御縁起』の語る神武天皇の皇子「三人」に当てはめると、候補は『古事記』のヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌナカワミミ。中でも「太郎」つまり長男となると、ヒコヤイが主祭神ということになる。『日本書紀』になぜヒコヤイの名が無いのかという問題は残るけど、ひとまず。ちなみに、カムヤイは多氏などの祖先となるし、カムヌナカワミミは第2代綏靖天皇となる。
ここでも、肥後国の阿蘇の伝承に触れたい。詳細はまた別エントリーに譲るとして、要するに草部の吉見神は日向国から来た神武の皇子ヒコヤイミミであり、「高知保神」とも呼ばれている。
これらを踏まえて想像すると――神武天皇は大和建国ののち、日向の旧都を治めるべく、三人の皇子を派遣した。神武やイツセ兄たちがいなくなり、空白の地となった高千穂は、鬼八が支配していた。皇子たちはこれを討伐。カムヤイとカムヌナカワミミは大和へ帰還。ヒコヤイが残り、ウノメ姫と結婚し高千穂を治めることになった――これなら辻褄が合う。あくまでも単なる想像(妄想といってもいい)ね。
伝承と伝承の整合性を取ることに意味は無いと思っているけど、それでも、こんな風に考えると面白いじゃあないか!

さてさて、二上山を眺めたところで、予定を少し早くこなせている。日没までまだ時間があるし、ひとつ予定を繰り上げるか。
というわけで、高千穂神社へ向かう。駐車場が一杯だったら翌日にする心づもりだったけど、十分空きがあった。ここは広い。さすがは総鎮守。


鳥居の意匠と扁額の字体が、くしふる神社とそっくりだ。両社は関係が深いらしいけど、こんなところにもそれが表れている。扁額には「高千穂宮」と刻まれていた。


手水舎を過ぎたところの狛犬、阿形が子取りでしかも2匹いる~と思ったら、吽形は玉取りかつ子取りでこちらも2匹。初めて見た。子狛犬、勇ましい顔なのにちょっと可愛い。
その先の石段は短め。


拝殿にてお参り。
聞き耳を立てていたわけではないけど、背後から聞こえてきた夫婦のやり取りが微笑ましかった。拝殿をバックに奥さんが写真を撮ってほしいみたいなんだけど、ご主人慣れてないんだろうなぁ。ふふ。


本殿は五間社流造で、重要文化財。縁側に稲荷社が乗っかっている。この形式は、大分県と宮崎県北部、それも江戸中期以降に限られる、珍しいものらしい。


反対側の縁側の一部には、ミケイリノの彫像が。今まさに鬼八を退治せんと、目を見開いた姿が猛々しい。鬼八のほうは、堪忍してとばかりに手を合わせている。
こんなに立派で地方色豊かな建築なのだから、重文指定も頷ける。


こちらの境内にも、杉の巨樹がいくつもそびえていた。
その奥に建つのが、荒立神社と四皇子社。社殿は1つだけど、中に2座あった。荒立神社はサルタヒコ・アメノウズメを、四皇子社は神武天皇とその兄弟の4柱を、それぞれお祀りする。立札で神武天皇が「佐野命」表記になっていた。神武とかイワレビコより、日向では幼名のサノのほうがしっくりくる気がするね。


垂仁天皇の勅命により、高千穂宮が創建された際に用いられたという、鎮石しずめいし。そこに添えられた文章に、より興味を引かれた。「尚往古関東鹿島神宮御社殿御造営の際高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存しています」と。こんな所で、鹿島神宮との関係を見つけるとは思わなかった。覚えておこう。

神社参拝のあとは、鬼八塚を巡る。3つに斬られて埋められた塚が、町内に点在するのだ。中でも、手足塚は具体的な場所が不明なので、探す必要があった。
そのために、道の駅高千穂へ移動。物産館の営業終了時間が迫っているとあってか、観光客はまばら。お土産を物色してから、ひむか神話街道沿いの歩道を北東へ200mほど歩く。


すると、特に案内は見当たらないが、丘へ続く遊歩道がある。これを登る。舗装されているのは最初だけだった。


続いてまた“くの字”に道が折れているけど、今度は「淡路城跡」の道標があった。それに従い城跡方面へ進む。


雑草で道が埋まっているものの、藪漕ぎまではしてなくていいので、定期的に手入れはされているようだ。嫁もついてきてくれているから、時折草を踏みつけて通りやすくした。
しばらく何もないから、この先にあるのか不安になりつつも、歩み続ける。そうすると、丸太階段が現れた。確認のため僕独りで駆け登ってみると、あった!一旦戻って二人で階段を上る。


鬼八の手足塚は、階段の中腹の脇にひっそりと佇んでいた。塚を詣でられた喜びより、見つけられた安堵のほうが強い。良かった、あったよぅ。嫁も付き合ってくれてありがとう。
淡路城跡を目指せば、自然と辿り着けるわけだ。判ったから言えることだけど。

次は首塚。ソレスト高千穂ホテルのそばにあるので、ひとまずホテルにチェックインすることにした。道の駅に戻って、Aコープに寄って買い物をしてから、ホテルの駐車場まで行って車を停め、フロントで手続きを済ませて、荷物を部屋に運んだら、再び外へ。


鬼八の首塚は、ソレスト高千穂ホテルの東側の路地にあって、すぐ見つかった。
塚を避けて取り囲むように道が通っていて、大切に守られている場所なんだなぁと。あちこちの道端で見かける、お地蔵さまや道祖神の祠のような感じ。
「霜宮鬼八荒神」として由来を紹介する案内板まであった。

鬼八塚はあと1つ、胴塚があるのだけど、『高千穂旅館 神仙』の敷地内にあるので、拝することは叶わなかった。それが心残りといえば心残り。

皇子たちと鬼八の間に、何があったかは判らない。ただきっと、お互いに言い分はあるんだろうな。どちらが正しいとか悪いとかという話でないことは、鬼八の子孫を自称する人が高千穂に住んでいらっしゃることからも、窺えると思う。
僕は、皇子たちも鬼八も、どちらも愛したい。

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