くしふる神社
2023年5月11日木曜日
14:09
天孫降臨の地について、『古事記』と『日本書紀』の本文・一書とで「日向の高千穂の峰」という点では一致しているものの、表記ゆれが激しい。国学の隆盛した江戸時代より、これらの解釈が諸説紛々し、いわゆる高千穂論争が巻き起こった。『古事記伝』に、
臼杵郡なる高千穂山も諸県郡なる霧島山も、皇孫命の天降坐し御跡は、何れならむ。とあるように、宣長先輩をも悩ませた難問だ。
そこで、臼杵説・霧島説双方の主張を読み比べたり、派生して阿蘇の伝承に突き当たるなどしたりするうち、冒頭述べた通り、臼杵説のほうが文献に恵まれていると思った次第。
神話の時代、「高千穂」の名は今よりずっと広い地域を指したらしいんだよね。現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町だけでなく、同郡日之影町あたりから阿蘇南外輪山にまで及ぶと考えられる。
平安時代の漢和辞書『和名類聚抄』には、当時の全国の地名(郡・郷)が網羅されているんだけど、そこから日向・肥後両国に「智保(知保)」郷があると判る。つまり「高千穂」は、令制国成立に伴い日向国と肥後国に分かれ、好字令によって「智保」と「知保」になったんだろうね。
さらに、江戸時代の歴史書『大日本史』から、当時のそれぞれの郷に属する村数も判る。日向18村・肥後42村の内訳から範囲を推測すると、宮崎県は高千穂町・五ヶ瀬町・日之影町・諸塚村の一部、熊本県にも跨り高森町・山都町の旧蘇陽町区域までが、「チホ」。
山都町に「高千穂野」と書いて「たかじょうや」という山があることも、傍証になるかと。ちなみに山名はおそらく、タカチホ→タカヂヨ→タカヂョウと転訛したんじゃないかな。
ここで、肥後国の阿蘇の伝承に目を向けたい。詳細は別エントリーに譲るとして結論だけ述べると、阿蘇神社の御祭神・タケイワタツ(健磐竜命)は神武天皇の孫というし、草部吉見神社の御祭神は神武の子で「高知保神」とも呼ばれている。高千穂神社の社伝ではミケイリノ(三毛入野命)に退治される「鬼八」が、阿蘇でタケイワタツに斬られる話もある!
高千穂と阿蘇が同じ神話を共有する地域だっていうのが、郷名だけでなく、日向国から草部に来た「高知保神」や「鬼八」伝説からも、透けて見えるんだよね。鬼八を斬ったのが、ミケイリノなのかタケイワタツなのか、伝承に混乱や変遷はありそうだけど、神武の兄または孫(皇子説も)で、近しい人物の話だし。
こうした阿蘇の伝承を踏まえて、『続日本後紀』の「日向国・高智保皇神」や『三代実録』の「日向国・高智保神~中略~霧島神」を見ると、「タカチホ」は「霧島神」とは別神だし、「皇神」とまで書いてある理由もわかる気がするんだよ。
他に、良く引用される『風土記』逸文にも触れておこう。
霧島説の根拠のひとつである、『塵袋』の、
風土記ノ心ニヨラバ~中略~日向ノ贈於ノ郡高茅穂ノ槵生ノ峰だけど、これが奈良朝の古風土記か、研究者の間でも議論の分かれるところだったりする。『日本書紀』の本文「日向襲之高千穂峯」などの「襲」は、「熊襲」の「ソ」で大隅国曽於郡のことだ、という霧島派の主張に対する、「襲」は「背」の借字(古語で背中は「ソビラ」といい、背は「ソ」・「セ」どちらも読む)であり、九州山地を指すとの臼杵側の反論にも、首肯できるなぁと。
一方、臼杵説では、『釈日本紀』の、
日向国風土記曰臼杵郡内知鋪郷~中略~日向之高千穂二上峰と、郷名まで明記していることを主張している。これだけでは弱いかもしれないけど、前段に挙げた六国史の「高智保皇神」や阿蘇の伝承と合わせると、もうここしか考えられないくらいな感じがするんだよね。
文献的には臼杵説が有力だなぁというのは思うけど、じゃあニニギが天降りしたのが、高千穂町内のどの山なのか、という問題が残る。三田井のくしふる峰か、押方の二上山か、五ヶ所の祖母山か。
これについては、『高千穂庄神跡明細記(文久三年(1863)樋口種実)』に明治九年(1876)高千穂二上神社祠官の土持完治が、面白い考証を付記している。くしふる峰の西には二上山があり、北には祖母山があり、ニニギはお供の神々を従えて降臨したのだから、どの山にもどなたかは降りられただろう。それでくしふる神社の地に都を定めたんだと。論拠は薄いものの、全部だよっていうのが潔いというか、妙に説得力あるね。
『明細記』には、周辺の伝承地も紹介されている。くしふる神社と付近のものをピックアップし、意訳しておこう。
「槵觸神社大明神」は、ニニギを祀っている。続日本後紀や三代実録に高千穂皇神とあるのが、ここである。高千穂神社の縁起を記した『十社大明神記(文治五年(1189))』にも「四方じがみね」という語がみえ、これが
「高天原」は、頂に八百万神を祀る石の小社がある。天孫降臨の折、三十二神と共に、ご相談なさって定められた地である。
「四王子峯」は、神代の皇居・高千穂宮である。イツセ・イナイ・ミケイリノ・イワレビコの四柱の皇子がご成長された地なので、四王子峯という。
現在、高千穂峰と呼ばれる霧島連山第二峰は、訪れた多くの人が、その神秘的な佇まいに圧倒されている。現代人の感覚からすると、神々しいこの山こそ、天孫降臨の地に相応しいんだろうね。ただ、古代人が神奈備――神霊の鎮座する場所――と仰いだ山々は、決して急峻な高山とは限らない。当時の人々が霊異を感じた山なんだよなぁ。
僕はこれまでに、大和の三輪山や『播磨国風土記』に出てくる山々をあちこち見てきたけど、必ずしも山容の美しい山とはいえず、え、これが天より神さまが降られた山なの?と拍子抜けすることも多くて、現代の感覚とは違うって実感したよ。
延々と臼杵高千穂説について述べてきたけど、天孫降臨の「高千穂」が地名ならばという前提に立ったもので、霧島高千穂説を否定するものではないよ。いつか霧島方面にも行きたいなぁ。
さて、前置きが随分長くなったけど(いつものことだけど)、岩戸から三田井へ。くしふる神社までは、10分ほどで着いた。決して広くはない駐車場がかなり埋まっていたけど、なんとか停められた。
さらに、ぞろぞろと参道を進んでいく人たちがいるので、彼らが来た方向を見やると、道路を挟んだ向かいの高千穂町中央体育館の敷地に、観光バスが。バッティングしちゃったかぁ。観光コースとして、確かにここは欠かせないものね。
時間ずらしを兼ねて、くしふる峰を眺めてみる。峰というより、丘といったほうがしっくりくるなぁ。前述の通り、神奈備が高い山とは決まっていないんだけどね。如何にもそれっぽい山ではなく、むしろこんな場所に伝承が残っていることが、かえって信憑性があるように思える。神話に実在性を求めることの是非はさておき、ロマンだロマン。
鳥居が力強くてカッコいい。
鳥居を抜けた先にはやや急な石段が延びていて、外から見たよりもずっと高い峰だと認識を改めた。
上り切ったところにある拝殿にて、お参り。天孫ニニギを主祭神とし、アメノコヤネ・フトダマ・フツヌシ・タケミカヅチを配祀する。国史見在社である「高智保皇神」の比定社でもある。
本殿は三間社流造。
龍などよく見かけるモチーフ以外に、何かのワンシーンのような彫り物もあって、見応えがあった。
境内には樹齢何百年という杉が何本も生えていて、昔から大切にされてきた神域だということを物語っている。
くしふる峰の南に連なる丘にも、見どころが多い。拝殿に向かって右手の脇道を下っていくと、道標が立っていた。
団体客もこちら側に行ったようすだったけど、寄り道せず駐車場まで下りたみたい。そりゃそうか。
程なくして、高千穂碑に着いた。建碑概要などに色々書かれていたけど、要するに高千穂伝承の顕彰ね。仰々しい台座が設けられており、まるでここが何かの伝承地みたいだ。碑には、『万葉集』の「ひさかたの天の戸開き高千穂の嶽に」云々と大伴家持の詠んだ歌一首と短歌、それに『日向国風土記』逸文が刻まれていた。
その前はぽっかりと空が開けていて、広場になっている。何か意図があるんだろうけど、不思議な空間だなぁ。
次を目指そう。木漏れ日が降り注ぐ中を散策するのは、気持ちが良い。
「天孫降臨後、諸神がこの丘に立って高天原を遥拝された所と伝えられる」らしい。ニニギたちが、降り立ったあとに元いた高天原を拝んだっていう、お話の流れがなんだかいいね。僕らも遥拝しよう。
それから道なりに下っていくと、鳥居とお社らしき建物が見えてきた。
建物のほうは四皇子峰社らしい。四皇子峰を向いていないから、最初何なのか判らなかった。
四皇子峰参拝所は垣に囲われ、かつては入れなかったらしいけど、今はこの通り真ん中が開いている。神聖な場所ということで、近づくことさえ禁じていたんだろうか。
手前に、別天神と神代七代から始まる四皇子までの「神々の系図」の案内板が立てられていて、嫁におさらいで説明するのに役立った。
注連縄が渡してあり、峰の頂きをお祀りしている形に見える。写真では判別しづらいけど、ピークらしき高まりが奥にあった。
高天原遥拝所と同じカップ酒がお供えされていて、ちょっと心があったかくなる。色んな方の思いがあってこそ、伝承は残るものだから。
そのまま山道を行くとアスファルトの路に出たので、右に進んだら駐車場の前まで戻ってこられた。ゆっくり40分ほどかけてひと巡り。充実した時間。
どうでもいいけど、Googleマップの位置情報デタラメだったな。高千穂碑も高天原遥拝所も四皇子峰も、もっと南だよ。
やっぱり情報だけでなく、実際に足を運ぶって大事だなぁ。天孫が天降る地として、ぴったりだと感じたもの。神さまとはいえ、峻険な山よりも開けた土地に住みたいよね。それに、天空から見下ろせば、くしふる峰は盆地に突き出すような位置にあって、降り立つ目印になったのかも。こんな風にも思えるようになった。
良いお参りでした!