高千穂峰伝承を再検討してみた

2024年4月19日金曜日 10:00
天孫ニニギが天降りしたという高千穂たかちほたけ。それが宮崎県西臼杵郡高千穂町なのか、霧島連山第二峰なのか、かつて大論争にまで発展したことがあった。今回は、霧島周辺の様々な伝承地を巡るにあたり、霧島説を掘り下げてみようと。

天孫降臨神話では、垂直降臨の後に水平来臨していることをニニギ上陸伝承地で指摘したけど、ここでは『日本書紀』神代巻第九段の本文に対して、『古事記』の記述を“分解”して対応させたうえで検討したい。難解な語句が多いけど、現代語訳ではなく読み下し文のほうが、比較する意図が理解しやすいと思う。

上:日本書紀
下:古事記

天磐座あまのいはくらを離れ
天石位あまのいはくらを離れ

あめ八重雲やえたなぐもし分けて
天の八重たな雲を押し分けて

稜威いつ道別ちわきに道別きて
いつのちわきちわきて

日向ひむかの高千穂のたけ
竺紫つくし日向ひむかの高千穂のくじふるたけ

槵日くしひ二上ふたがみの天の浮橋
天の浮橋

浮渚在うきじまり
うきじまり

平処たひらに立たして
そりたたして

膂宍そしし空国むなくに
韓国からくに

国覓くにま行去とほりて
真来通まきとほりて

吾田あた長屋ながや笠狭かささみさき
笠沙かささ御前みさき

冒頭はほぼ同等で、決まり文句になっていたようだ。高千穂の峰に「竺紫」が付く付かないという差異があるけど、『日本書紀』にも「筑紫つくしの日向の高千穂の槵触くしふるの峰」と一書(第一)には一致するものもある。天の浮橋を形容する「槵日」は「くじふる」と対応しそうだ。諸説の多い「韓国」だけど、「韓は借字で、空国の意である」との説に従っておく。こうしてみると、ほとんど同じ要素で成り立っていると判るよね。
ただし、『古事記』のほうを“分解”した結果だ。「韓国」から「笠沙の御前」までの語句は、高千穂の峰に降り立ったニニギが、「ここはとても良い土地だ」と褒め称えるセリフの中に出てくるもの。移動したとは明確に書かれていない。そうしてそこに宮殿を建てたとある。
つまり、『日本書紀』は高千穂の峰に垂直に降臨した後、カササの岬まで水平に移動したとしているけど、『古事記』は同じ要素を用いながらも、高千穂の峰に降臨し、そこに宮を構えたという風に読めるんだ。

サクヤビメの火中出産伝承地に触れるなかで、元来の皇統はニニギの降臨からヒコホホデミ(神武天皇)の東遷という筋書きが考えられていたとする説を挙げたように、今のヒコホホデミ(山幸彦)・フキアエズの二代の説話が、後から取り入れられたものだとすれば、『日本書紀』はそのためにカササの岬へ移動する必要があったということ。一方『古事記』は、元々の構想通り高千穂に宮を置いたので、そこから神武一行も出発することになったといえる。
その結果、『日本書紀』は神武たち兄弟が東遷の相談をした場所を曖昧にするしかなくなり、『古事記』は高千穂の宮からほど遠い海の説話が語られる矛盾を引き起こした――こう考えたら、それぞれの伝承地が点在する理由も、ある程度説明できる気がするんだよね。

高千穂の峰の解釈にも密接に関わってくるので、サクヤビメの別名が意味するものが何かも、整理しておこう。カムアタツヒメ(神吾田津姫)の神話がアタ地方や阿多隼人あたのはやとと関係が深いことは先のニニギ上陸伝承地ですでに述べたけど、もうひとつの別名であるカシツヒメ(鹿葦津姫)について。
『日本書紀』天武巻や持統巻にて、阿多隼人と併称される存在として大隅隼人おおすみのはやとが出てくる。この大隅隼人を代表する氏族と考えられるのが、加志君かしのきみだ。つまり、カムアタツヒメに阿多・大隅両隼人を代表する形を取らせるために、カシツヒメという名が与えられていると考えられるんだね。その証拠に、神代巻第九段の一書(第二・第三・第五)では、カムアタカシツヒメ(神吾田鹿葦津姫)やアタカシツヒメ(吾田鹿葦津姫)といった両方の要素が入った名で登場する。なお、「鹿葦」で「カシ」と読むのは、上代では「ka-ashi」のように母音が連続することを忌避するので、「kashi」となるためだ。
さらに踏み込むと、ではなぜオオスミツヒメ(大隅津姫)などではなくカシツヒメなのか。天孫降臨を含む日向神話の舞台が「日向」なのは、日に向かう地という、ある意味でめでたい名前として選ばれているとの説がある。この対比として、暗い黄泉よみ八十隈やそくまで(幽界)へと通じる「出雲」が位置づけられている。葦原中国あしはらのなかつくにで最も清浄な地が「日向」だから、黄泉から帰還したイザナギが禊ぎ払いをしてアマテラスら三貴子が誕生するし、天孫ニニギが降臨もする。「出雲」の暗に対する「日向」の明を配置するのなら、大隅という辺境を思わせる名は相応しくない。そう判断し、大隅隼人の代表者である加志君という氏族名を用いた、と考えられるわけだ。

では、高千穂の峰とはどこなのか。
「日向」が、日に向かう意の一般名詞ではなく、筑紫(竺紫)が上に付かないこともあるとはいえ、そのあと日向国を舞台とした神話が展開されることからすれば、地名であることは明らかだと思う。
『続日本紀』には、大宝二年(702)に、日向国からアタ地方を割いて唱更国はやひとのくに(のちの薩摩国)が置かれ、和銅六年(713)には、日向国から現在の霧島山周辺から鹿児島湾北部一帯・大隅半島にかけた地域を割いて、大隅国が新設された記事がみえる。飛鳥時代最末期以前の日向国は、その後の日向・薩摩・大隅の三国に相当するわけだ。
『日本書紀』の成立は養老四年(720)。薩摩・大隅の分置後であるから、天孫降臨の「日向」は現在の宮崎県だという主張がある。だけど、可愛山陵の所在が『日本書紀』編纂の頃にはすでにどこにあるか判らなくなっていたため、伝承をそのまま引き写して「筑紫日向可愛之山陵」と記すしかなかったと考えられるように、「日向」の表記をもって、宮崎県西臼杵郡高千穂町と霧島連山第二峰のどちらとは、決められない。
だけど可愛山陵などと違って、高千穂の峰の場所はより詳しく書かれている。「の高千穂の峰」と。『続日本紀』延暦七年(788)に大宰府からの報告として、
三月四日戌時(19~21時)、大隅国贈於郡そのこおりの峰で火災が発生した。火炎が大きく、雷のような轟音が鳴り響いた。亥時(夜半頃)、火災が収まり、黒い煙だけが見えるようになった。その後、雨と砂が降り注ぎ、山の下には五、六里(約20~24km)にわたって砂と岩が積み重なり、高さが二尺(約60cm)に達した。その砂と岩の色は黒い。
とある。当時まだ霧島の名が無く、単に「の峰」と呼ばれた山こそが、「襲の高千穂の峰」だろう。であれば「ソ」は、「贈於郡そのこおり」の「贈於」であり、景行天皇の時代に九州南部を指した「熊襲くまそ」の「襲」であるといえる。大隅国がかつては日向国に含まれていたことは、前述の通りだ。
ちなみにこの788年の噴火は、現在の高千穂峰に隣接する御鉢おはちの大噴火で、地学的にも年代が特定されている。
「くじふる」・「槵触くしふる」・「槵日くしひ」については、霊異を表す語と一般に解釈されている。高千穂の峰が霧島山であるなら、火山活動を示しているんだろうね。

論考の締めくくりに、「二上ふたがみ」について考えてみたい。『日本書紀』本文の「槵日の二上の天の浮橋」が高千穂の峰を別の言葉で表していることは、一書(第四)に「日向の襲の高千穂の槵日の二上の峰」とあることからも、明白だろう。
高千穂の「二上」の峰がどの山を指すのか、『麑藩名勝考』を参照すると、
西は火常峰ひけふのみねといい、二上の一峰である。火が常に燃え続けており、後の時代に陥没しくぼ地になった。今は俗にその火口を御鉢おはちと呼んでいる。そこから馬の背のような所など険しい場所を経て進むと、矛峰に到達する。この東西に広がる二つの峰を合わせて、霧島岳と呼んでいる。
とあり、『三国名勝図会』にも、
二上峰のように、東にあるのを矛峰といい、西にあるのを火常峰という。
とある。東の「矛峰」は現在の高千穂峰として、西の「火常峰ひけふのみね」は、「御鉢おはち」の別名と間に「馬の背」があることから、現在の御鉢おはち火山だろうね。
『名勝図会』にはもう一説記されている。
また、虚国からくに峰と矛峰とは、一里(約4km)ばかり隔たっているが、霧島山は巨山であるので、遥かに望めば、この二峰が近く対して並び立つ。いわゆる高千穂二上峰とは、この二峰であるとする。
こちらは、現在の韓国岳からくにだけと高千穂峰で「二上」としている。
韓国岳は約30,000~17,000年前、高千穂峰は約7,000年前に、それぞれ火山活動により形成されたという。御鉢はというと、およそ1,200年前に活動を開始した比較的新しい火山で、その山体は前述の788年に加え1235年との二回の噴火活動でほぼ形成されたとされる。
ということは、高千穂峰と御鉢で「二上」とする江戸時代の考えは、成り立たないことになる。現代の僕らの目でさえその二つのように見えるけど、『日本書紀』が編纂された奈良時代以前、ましてや神話の時代においては、御鉢は影も形も無かったかもしれないんだからね。
その点、韓国岳と高千穂峰とする説は一応成立する。山と山とがやや離れていることと、間の新燃岳などを無視する格好になっているのが、少々引っかかりはするけど。ただ実際遠くから眺めると、二上に見えるといえば見えるのも事実。

霧島説と争った臼杵説の論拠となっている『日向国風土記』逸文にも、「二上」の語がみえる。ちょっと長くなるけど、抄訳して引いておく。
臼杵郡うすきのこおり知鋪郷ちほのさと
ニニギが、天磐座を離れ、天の八重雲を押し開いて、神聖な道を選り分け選り分けて、日向の高千穂の二上の峰にお降りになられた。その時に、空は暗く、昼夜の区別もつかず、人も物も秩序を失い、物の区別がつかなかった。そこに、名をオオハシ・オハシという二人の者がいて、「皇孫すめみまみことよ、尊の御手で稲の千穂ちほを抜いてもみとして、周囲に投げ散らしなさったならば、きっと光が差すことでしょう」と申し上げた。そこで、オオハシらの申し上げたとおり、千穂の稲を揉んで籾として、投げ散らしなさったところ、空は晴れ、太陽も月も照り輝いた。このことによって、高千穂の二上の峰というのである。後には改めて知鋪ちほというようになった。
この説話からは、「千穂ちほ」という言葉が存在したことがまず判る。たくさんの稲穂のことだろう。「千穂」を投げ散らしたことで世界が明るくなったので、「知鋪ちほ」という地名になったというのは、筋として理解できるよね。それで「高千穂」の峰というのも解る。
しかし「二上」の峰の由来には触れておらず、明瞭に語られていない。日向国臼杵郡に、こうした穀霊の降臨伝承があったのは確かだろう。だけど、それを編纂者が『日本書紀』の記述に寄せて、こじつけた可能性がある。そう勘繰られても仕方ない。

臼杵説を巡って、「智保ちほ(知保)」あるいは「高千穂」と呼ばれた地域が、日向・肥後両国に跨る広大な範囲だったことは、宮崎県西臼杵郡高千穂町のくしふる神社に行った時に述べた通り。「日向の襲の高千穂の峰」の「高千穂」が地名であるなら、それは高千穂町にあると考えられるとも言った。
一方、霧島説を紐解いていくなかで推測したのは、「日向」も「襲」も所在を特定する地名だけど、「高千穂」はその場所を形容する美称ではないかということ。うず高く積み上げた稲穂の峰というのは、稲穂が豊かに実る意の名を持つニニギが天降りするのに、似つかわしい表現じゃないかな。だとすれば、霧島説にも十分な説得力があるというのが、今回の結論。
伝承地というものは、いくつあっても良いものだし、その数だけ楽しみが増すというもの。重野安繹の言葉を借りるまでもなく、遥か神話の時代の出来事なんだから、今更断定などできるはずがない。どれが正しいというような性格のものでもない。土地の人々が大切に守り、今日まで語り継がれてきたことに意味がある。そう思うから、此度も目一杯楽しもう。

オマケ。高千穂峰の頂に突き立っているという天逆鉾あめのさかほこもついでに調べてみた。
橘三喜たちばなみつよしが霧島登山に際し、『一宮巡詣記いちのみやじゅんけいき』延宝三年(1675)九月二十四日条に「御逆鉾」などの名所を見たと書き残しているように、遅くともその頃には存在したようだ。
古川古松軒ふるかわこしょうけんは地域の人々から聞き取りを行っており、『西遊雑記さいゆうざつき(天明三年(1783))』に残されている。
土地の住人が秘密に話すことがあり、他の国から霧島山の鉾について尋ねて来る人が多いが、どのように答えればよいかわからない。それによって遠くない国のかみが、銅を使って数尺の鉾を複数の鍛冶師を集めて作らせ、それに銘を彫り、この山奥の、人の辿り着くのが難しい険しい山の頂に立てさせた。これを一目見るにも、険しい道も途絶えた難所を約七里も分け入らなければ見ることができないほどで、あそこは新しくお作りになったなどということを、私から聞いたと人に話すなと、口止めして物語った。この一事は次第に人も知ることで、地元の住民の口止めされつつも、ここに記しておくものである。
〈逆鉾を建てたのは、島津義久しまづよしひさ朝臣である。現在世間には様々な図面を描いて人を欺くものもあるが、信じてはならない。〉
地元では戦国大名の島津義久しまづよしひさが立てさせたと、噂されていたことが判る。橘三喜の記録とも時系列の辻褄は合う。
橘南渓たちばななんけいが、『西遊記(寛政七年(1795))』巻五に「天逆鉾」の検分を記録しているが、
もしや銘なども有るかと、くわしく見たが見えなかった。
とあり、もし地元の証言通り銘が刻まれていたとしても、この頃には判読できなくなっていたようだ。
なお、戦前の歴史学者、喜田貞吉きたさだきちは著書『本邦地理講義(明治三十五年(1902))』の中で、こう切り捨てている。
山上天逆鉾と称するものあり、後世修験者などの建てしものなるべし、俗に神代の遺物となす、妄誕笑ふべし。
結局、立てたのが島津義久にせよ修験者にせよ、せいぜい17世紀頃の代物だろうね。
ただ、この山が聖地であればこそ、鉾が立てられもしたし、それを有り難いと思う人たちもいるということ。この気持ちは、これからも大切にしていきたいね。

【参考文献】
小島瓔礼「日向の高千穂の峰:神話本文の次元の解釈」『国学院雑誌 (92-1)』国学院大学,1991年
筒井正明,奥野充,小林哲夫「霧島・御鉢火山の噴火史」『火山 (52-1)』日本火山学会,2007年
寺川眞知夫「日向神話の設定」『万葉古代学研究年報 (2)』奈良県立万葉文化館,2004年

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