竹屋神社とサクヤビメの火中出産伝承地

2024年4月18日木曜日 19:22
竹屋神社たかやじんじゃは、鹿児島県南さつま市加世田宮原にある神社。その旧社地と伝わる竹屋ヶ尾たかやがおの山頂は、カシツヒメ(サクヤビメ)が火中出産した無戸室うつむろ跡でもあるという。また山の中腹の竹林は、生まれた御子のヘソの緒を竹の刀で切ったあと、その竹の刀を捨てた所になった竹林と言い伝えられている。山の麓には、ニニギの宮跡の伝承地もある。

最初に火中出産神話について、『日本書紀』神代巻第九段の本文(抄訳)を挙げておく。
(カシツヒメを)ニニギ(皇孫)はお召しになった。すると一夜だけで妊娠した。ニニギは偽りだろうと思われて、「たとえ天つ神であっても、どうして一夜の間に孕ませられようか。お前が孕んだのは、きっと我が子ではあるまい」と言われた。するとカシツヒメ(鹿葦津姫)は怒り恨んで、無戸室うつむろ(出入口のない室)を作って、その中にこもって、誓約うけいをして、「私が孕んだ子が、もし天孫の子でないならば、きっと焼け滅びるでしょう。もし本当に天孫の子ならば、火でも損なうことができないでしょう」と言った。そして火をつけて室を焼いた。初めに燃え上がった煙から生まれ出た子を、ホノスソリ(火闌降命)と名づけた。次に熱を避けておいでになるとき生まれ出た子を、ヒコホホデミ(彦火火出見尊)と名づけた。次に生まれ出た子を、ホノアカリ(火明命)と名づけた。
カシツヒメの生んだ御子たちの中でも、ヒコホホデミだけは異色の存在であると指摘されている。
『日本書紀』本文と一書と『古事記』とでは、名前の表記や生まれた順番に若干差異があるけど、ヒコホホデミを除けば、おおよそ次のようなグループに分けることができると思う(名前の読みで「ホノアカリ」のように「ノ」を挟むか否かで諸説あるけど、ひとまず宣長先輩に倣って読まないことにする)。
・ホアカリ,ホデリ
・ホスソリ,ホススミ,ホスセリ
・ホオリ,ホヨリ
それぞれ火が明るくなる・火が燃え進む・火が衰えるの意であり、「」で始まる構成の共通点もある。
一方ヒコホホデミは、ホオリの別名となっている例が多いけど、『日本書紀』では神武天皇の諱(実名)としても出てくる。
ホオリとヒコホホデミが本来別神であるという考察は、古くからある。元来の皇統はニニギの降臨からホホデミの東遷という筋書きが考えられていて、今のホホデミ・フキアエズの二代の説話は、後から取り入れられたものだとする意見もある。
つまり、ヒコホホデミを火中出産の御子たちと結び付けるために、ホオリの別名として重ね合わせてきたんじゃないかって。確かにそう考えると、色んなモヤモヤがスッキリ晴れ渡る思いがするね。

では、火中出産神話の存在意義は何だろうか。
この火は、産屋で焚く火を基にして生じたものだという説がある。これは東南アジアや沖縄などの習俗で、それが隼人族にも伝わったのではと。だけど肝心の南九州に、そのような風習が無いらしい。
ここで忘れちゃいけないのが、カシツヒメあるいはアタツヒメは、カシの女・アタの女というだけはなく、オオヤマツミの娘であり、この女神もまた山の神だということ。山の神であるカシツヒメが火に焼かれて死に、しかしやがて炎の中から御子が生まれる……それはまさに、山の斜面の畑が焼き払われ、それによってやがてそこに穀物が生まれるという、焼畑農耕の実践が、元の形の伝承だったのかもしれない。
そうであれば、御子たちの名に付く「ホ」の原義は「穂」のはずで、それに「火」の意を絡ませているんだろうね。

ニニギの結婚を巡っては、もうひとつ話がある。コノハナサクヤビメだけを妻として、イワナガヒメを返したという、植物である花を有限のものとし、石を永遠のものとして、人間の死の起源を語る伝承だ。『日本書紀』の一書(第二)と『古事記』とでは少し違いがあるけど、趣旨から逸れるので触れないでおく。
これとよく似た伝承が、東南アジアなどにバナナ型神話として分布していることが知られている。バナナ栽培を指標とする文化が生み出した伝承が、九州南部の隼人族へと流伝したもので、バナナから植物への変化はその時に生じたものとされる。
ただし、コノハナサクヤヒメの名が『播磨国風土記』に伊和大神の妻としてあり、類似のコノハナノチルヒメの名が『古事記』のスサノオの系譜の中にみえることは、この死の起源伝承の担い手が、必ずしも隼人族に限られないことを窺わせる。また、サクヤビメにはカシツヒメなど実体としての別名があるのに対し、イワナガヒメは永遠の象徴としての名だけで、いうなれば実体が無い。
これらをより強く示唆しているのが、江戸時代の薩摩藩の地誌『麑藩名勝考』・『薩藩名勝志』・『三国名勝図会』のいずれにも、イワナガヒメの伝承地が見当たらないこと(イワナガヒメを祀る神社ならある)。
こうしたことを踏まえると、アタツヒメ・カシツヒメを主人公とした妻問い神話や火中出産神話は、隼人族に言い伝えられたもので、サクヤビメを主人公としたバナナ型神話は、それとは独立した物語なのかもしれないね。

『日本書紀』の一書(第三)の火中出産神話には、続きがある。
その時竹の刀で御子のヘソの緒を切った。その竹の刀を捨てた所が、後に竹林となった。そこで、その地を名づけて竹屋たかやという。
これに対応する『日向国風土記』逸文とみられる記述が、『塵袋ちりぶくろ(文永~弘安年間(1264~1288))』の中にある。
(皇祖ニニギは)薩摩国の閼駝あた郡の竹屋たかや村にお移りになられ、その竹屋の地の長の娘をお召しになって、その腹に二人の男子をもうけなさったとき、その所に生えていた竹で刀をお作りになり、ヘソの緒をお切りになられた。その竹は今もあるという。
冒頭に述べた通り竹屋ヶ尾の山頂は無戸室跡であり、その中腹の竹林は竹の刀を捨てた所であり、その麓の裳敷野もしきのはニニギの宮跡であるという。これらの伝承は『名勝考』・『名勝志』・『名勝図会』に共通する。
また竹屋神社は、元は聖地である竹屋ヶ尾山頂にあり、その後こちらも聖地である裳敷野に移ったが、「里の人家から遠く、参詣に不便なので現在の地に遷座したのだろう」という。

これらに加え、『名勝図会』は異説を紹介している。これが面白い。
現在の竹屋神社の地もまた、ニニギの宮跡だとする。だから辺りに、宮原・宮園・宮崎という地名もあると。さらに、竹屋神社北側の山を鷹屋たかや山といい、その山頂が竹屋神社旧社地であり、鷹屋山の西の竹刀山の竹林が竹の刀を捨てた所であるともいう。
鷹屋山の高さは八十間許(約150m)としている。しかし、加世田宮原の竹屋神社の北方には山というより丘が二つあるものの、高さはせいぜい60mと40mほど。鷹屋山東北の麓には鷹屋原という地名もあるとしていて、これは加世田益山の水田地帯を指しているのだろう。
そして、鷹屋山がヒコホホデミのお墓である高屋山上陵たかやのやまのうえのみささぎと唱えているのだ。『古事記』に陵は高千穂の西にあると記述されていることと、鷹屋山という地名を、その根拠としている。確かに、高は竹・鷹に通ずる。神代三山陵については別途改めて語るとして、このような説があることも、心に留めておきたい。

さて、笠沙地区から加世田地区へは、長屋山越えルートになった。結果的に聖蹟「長屋」を通ることになるとはね。竹屋神社には30分ほどで着いた。

狛犬が独特の姿。ユーモラスで可愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。

拝殿にて拝礼。鹿児島入りしてから、なんだかんだ伝承地しか訪れていなかったから、ここが最初の神社になった。
十二葉菊紋が輝いている。天皇家の十六葉八重表菊や皇族の十四葉一重裏菊とは、区別しているのかな。

御祭神は、中央本宮にヒコホホデミとトヨタマビメ、東宮にホスセリ、西宮にホアカリ。ニニギとサクヤビメの間に生まれた三御子とその妃神だ。
神社側では焼酎神というユニークな解釈をしているようで、サクヤビメが火中出産をしたのが蒸留で、初留・中留・後留で誕生したのが三御子とする。さすが芋焼酎の本場、面白いことを考えるなぁ。

社務所の横に、御守・御御籤の自販機ならぬ自動授与機が設置されていた。人によって捉え方は様々だろうけど、どんな形であれ授かれるのであれば、僕はこういうのも良いと思う。
社務所は不在のため、何か御用がある方はお隣の「焼酎の郷 宮原ふれあい館 たかやのやかた」をお尋ねください。御朱印やおみくじ、お守り等もご用意してます。
とのこと。

境内には見どころがあちこちにある。手水舎脇には、ヘラ竹山の竹。御子のヘソの緒を切った竹が根付いたという、竹屋ヶ尾から株分けしてきた竹らしい。神話の時代から紡がれてきた竹……山に入らずともそれが見られるのは嬉しいね。

本殿裏あたりの小さな丘を上る。

その先に磐境いわさか。ヒコホホデミの御陵と伝えられているとか。とても山とは呼べないけど、『名勝図会』のいう高屋山上陵の一説を思い起こさせるね。
この巨石はドルメンの天井石と考えられているらしい。その点、笠沙の宮ノ山遺跡も彷彿させる。

階段を下りて東へ行くと広場があり、「笠狭宮趾」と刻まれた大きな碑が立っていた。後笠狭宮として、ここもニニギの宮居跡とされているわけだ。
広場ではゲートボールに興じる人たちがいて、なんとものどかな風景。

そのあと、参拝者用駐車場の隣の「焼酎の郷 宮原ふれあい館 たかやのやかた」も覗いてみた。
トイレの男女のマークが古代装束なのに気づいて、ニヤリとしたよ。

次は、竹屋神社から南下して竹屋ヶ尾の麓まで。ここには駐車場がないため、道路脇の草地に停めることにした。

裳敷野はニニギの宮居跡であり、竹屋神社の旧社地でもある。
神社ではないけど聖地とされるためか、鳥居らしきものが立っていた。安っぽい感じがするなと思ったら、パイプを継いだような物だ。ただ新しい。扁額の裏に「令和三年」とあったから、やはり近年の建立らしい。

奥は広場のようになっていた。裳敷野の“野”に似つかわしい光景だけど、公園化されたのは昭和十五年頃というから、それ以前から開けていたのかは判らない。

ここにも「笠狭宮趾」の石碑。前笠狭宮か。威風堂々とそびえていて、カッコいい。
これまでを整理すると、高千穂からやってきて一時滞在したのが宮ノ山、サクヤビメと出会って一緒に住んだのがこの裳敷野、無戸室で御子が生まれたあとに移ったのが現在の竹屋神社あたり、ということになるね。笠沙に来てからだけで、2回もお引越ししているニニギくん。

振り返れば竹屋ヶ尾が。あの頂上にも石碑があるらしいけど、さすがに登山する時間は無い。こうして眺められるだけでも十分。

そして傍らには「日本発祥の地」の碑。
~前略~木花開耶姫コノハナサクヤヒメを妃として最初に皇居を定められた笠狭之宮の跡~後略~
とあるので、確かにそう言えなくもないかな。何をもって発祥とするかだよね。ともあれ、この地に立てたことは記念になる。

この日の予定をこなせたところで、加世田の市街地へ移動。『カーササローネ伊太利亜』で夕食にした。17時前という中途半端な時間でも食事がとれるお店ということでピックアップしたんだけど、これが大当たり。

Mパスタカンティーナコースという、好みのパスタに6種の前菜とケーキを選べるデザートまでついて、なんと2,090円。ボリュームもあってコスパが凄い。
他のメニューを見てもお手頃で、だからかお店は地元民に愛されている雰囲気。とても繁盛していた。良い所を見つけたなぁ。

投宿してから軽く飲もうと、近くのコープで物色。小っちゃな瓶の芋焼酎「黒伊佐錦」を見つけた。練り物コーナーでいも入りの立石さつま揚げもゲット。土地の特色が出やすいスーパーマーケットは、見て回るだけでも楽しい。亡くなった祖母が作っていたものに近い田舎味噌まで見つけて、買ってしまった。

あとは翌日に備えてホテルへ行くのみ。と思っていたら、国道270号を北上中、ルート上に道の駅きんぽう木花館があることに気づいた。確かここにはアレがあったはず。ちょっとだけ寄っていこう。

アレというのは、コノハナサクヤビメの銅像。日本を代表する彫刻家、中村晋也氏の作品だ。月夜に美人が映える~!無粋な電線は加工して消したケド。
銅像の立つ金峰地区は、古代において狭義での阿多と呼ばれた地。だから「神話のふるさと」と称しているようだ。
無理かなと諦めていたサクヤビメの像にも出会えて、素晴らしい一日の締めくくりになったよ。

【参考文献】
松村武雄「瓊瓊杵命・木花開耶姬の婚姻神話」『日本神話の研究 (3)』培風館,1955年
吉井巌「火中出產ならびに海幸山幸說話の天皇神話への吸収について」『天皇の系譜と神話』塙書房,1967年
吉井巌「海幸山幸の神話と系譜」『天皇の系譜と神話 (3)』塙書房,1992年

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