新田神社とニニギの可愛山陵
2024年4月19日金曜日
09:36
ではまず、『日本書紀』神代巻第九段の本文(抄訳)の続きを見ていこう。
しばらくしてニニギ(天津彦彦火瓊瓊杵尊)はお亡くなりになった。それで次のように、『延喜式』諸陵寮にもニニギを含む日向三代の陵墓の記載がある。筑紫 の日向 の可愛 の山陵 に葬った。
日向ただ、神武天皇以下歴代天皇の陵墓の所在地は、郡名も兆域(墓域)も明記されているのに、神代三陵については「日向国」と国名が記されているのみで、しかもそれは『日本書紀』の記述に基づいたもの。つまり『日本書紀』編纂の頃には、早くも陵墓がどこにあるか判らなくなっていたとみられる。そのためか、「埃 山陵〈ニニギ(天津彦瓊瓊杵尊)。日向国に在 り。陵戸 無し。〉
日向高屋 山上陵〈ヒコホホデミ(彦火火出見尊)。日向国に在り。陵戸無し。〉
日向吾平 山上陵〈フキアエズ(彦波瀲武鸕鶿草不葺合尊)。日向国に在り。陵戸無し。〉
〈上の神代三陵は、山城国葛野郡の田邑陵 の南の原にて祭祀。その兆域は東西に一町・南北に一町。〉
そんな有様なので、可愛山陵の比定地を巡っては、江戸・明治の国学者の間でも諸説紛々としていた。
『
・日向埃山陵とある。松下見林は大坂の人で、薩摩の人以外からこうした意見が出ているのは興味深い。『古事記伝』の中で、宣長先輩もこの意見におおむね賛同している。
可愛は今の薩摩国頴娃 郡~中略~これである。
それならと、頴娃郡にそうした伝承がないか探したところ、
その後、
新田神社周辺が有力視された背景として、この地をニニギの宮跡とする伝承があったからだろうね。『麑藩名勝考』や『薩藩名勝志』にも載っており、『三国名勝図会』は、
太古、ニニギが日向襲之高千穂峰に天降りして、笠狭宮にいらっしゃったが、またこの地に皇都を建て、高城千台を起こし、皇居を移され、高城宮と呼んだ。ニニギが亡くなられた後、この地に葬った。とより詳しい。
ここで、新田神社の縁起を参照したい。『新田宮縁起(建保二年(1214)璞昌)』には、
可愛陵と(新田)八幡宮は、ニニギ(天尊)の亡くなった霊地である。とあり、ニニギの陵墓でありながら、八幡宮と称している。
『
当社は、八幡三所の神明(八幡神(応神天皇)・ヒメ神・神功皇后)が垂迹した地である。日向国に(ニニギが)降られた時、五部神(アメノコヤネ・フトダマ・アメノウズメ・イシコリドメ・タマノオヤ)が先導なさった。(ニニギが)薩摩国に居所を移された後は、亀山峰(神亀山)に三所の神明と五部神を崇め奉っている。これにより、この社は新田宮として知られている。とあって、新田宮の起源を八幡信仰に結び付けているうえ、可愛山陵には触れていない。
『三陵志』所収の新田神社文書をもう少し見てみよう。そこに示された新田宮の神官たちが出した解文(公文書)からは、当時のリアルを感じ取れる。新田宮は元々は神亀山の麓に神殿があったが、承安三年(1173)に炎上した。安元二年(1176)には、山麓から山頂に移すべきとの朝廷からの命が下った。しかし神殿の造営は進まなかったようで、建長八年(1256)や文永五年(1268)などには、「ニニギの宮跡であり亡くなった後の可愛山陵であるのが、新田宮である」との縁起を述べつつ、速やかな造営を懇請している。
ところが、この縁起には疑問が呈されていて、新田神社の神官が可愛山陵・ニニギと新田神社を結び付けたのは、承安三年(1173)神殿炎上以後のことで、山頂に神殿の造営を認めてもらうためだったとの説がある。これに加え、所領を奪い取られないようにするため、薩摩国内で新田宮より序列の高い
個人的な意見としては、可愛山陵を持ち出したのは鎌倉時代のことだとしても、元々ニニギをお祀りする神社だったんじゃないかなと。何の謂れもなく、突然唱えだすとは考えにくい。八幡信仰の盛んなのを見て、さらなる繁栄のためにそれを取り入れたとみられる例は、他社にもある。こんな風に創り出される伝承もあるのかもしれないなぁ。
中世の神官らのしたたかさを感じるけど、文永五年(1268)の「新田宮所司神官等解文」は、
ところが、再建の手続きが進まないままであり、祠官らは山の厳粛な神域を見つめ、日々の神事に励んでいるものの、神殿の廃墟を拝むなかで、往古の基跡に戻りたいと願っております。と締めくくっていて、一向に修造が進まない状況に対する、強い焦りと切実な願いも窺うことができる。きっと彼らも必死だったんだ。
伝承の背景がどうあれ、「日本近代史学の生みの親」と称えられる
もし上説のごとくならば、今の日向国に御陵ありとの説も、あながちに棄つべきにはあらず。日本紀及び延喜式編集の時にも所在すでに明らかならざりしを、数千年の今日に必ずそれぞと定めては言い難くなむ。だ。ここが可愛山陵であるとは断言できないけれど、ここが可愛山陵ではないとも断言できないんだ。ロマンは残っている!
さて、夕食後に1時間以上ドライブして、鹿児島県薩摩川内市まで北上。移動効率より回る順番や曜日との兼ね合わせにこだわったから、こうなった。この日はスーパーホテル薩摩川内に宿泊。ここも駐車場は予約制で、場所はフロントで案内してもらわねばならず、やはり面倒だ。ただ、ツインルームは広々としていて良かった。
落ち着いたところで、芋焼酎とさつま揚げで嫁と乾杯。自分たちの機嫌を取るのも大事だよね。
翌朝、ブランチを予定していたので朝食は摂らずに出発。自分が思い描いていたルートとレンタカーのカーナビが示したルートが合わず、少々迷いつつも、無事に新田神社駐車場に着けた。
二の鳥居と
降来橋については『三国名勝図会』に記載がある。
二の華表(鳥居)を過ぎると忍穂井川 がある。江川ともいう。石橋が架かり、古来降来橋と名づけられている。皇帝記によれば、「正応三年(1290)、薩州八幡新田宮の降来橋にて、舞楽があり、観覧席は五十三軒、見物人は三万」云々といい、昔の繁栄していた状態が見えるだろう。
橋を渡った向こうに長い石段が見える。けど、神亀山の中にも駐車場があるので、ショートカットさせてもらおう。
車に乗って境内の道を上り、車祓所のそばの駐車場に停めた。そこから歩いてもう少しだけ上る。
その前に立派なクスノキ。市の指定文化財らしい。由緒あるお社には、巨樹が付き物だね。
階段を上ると、社殿の前に子抱き狛犬。抱かれている子狛犬が可愛い。
一般的な神社では拝殿がある位置に、
正面からだとほとんど見えないが、本殿・幣殿・拝殿・舞殿・勅使殿が一直線に並んでおり、本殿両脇の摂社は回廊で(間に勅使殿を介しながら)繋がっている。鹿児島県内には他にも勅使殿を持つ神社があるけど、この配置は県内唯一のものらしい。
御祭神はニニギ。可愛山陵が“公式”であるためか、はっきりと皇室の十六葉八重表菊紋が掲げられている。
ではその山陵へ、案内に従って向かうとしよう。
石段の下から、回廊越しに本殿の屋根を仰ぐことができた。神社建築も好きだから、可能な限り確かめずにはいられないんだよね。
山陵へ続く石段の横に、ぽっかり空洞ができてしまっている大樹が。それでも若い葉っぱが出ていて、生きているんだな……生命力の強さに圧倒される。
その奥に可愛山陵。本殿のほぼ裏にあるんだ。天皇陵で見慣れたこの形式だけど、ここは神さまの陵なんだよな……山陵の治定について思うところはあるけど、別の機会に譲ることにする。
治定云々はさておき、遅くとも鎌倉時代にはニニギの御陵と唱えられてきた場所であることに違いない。その言い伝えを大切に思い、手を合わせた。
嫁が境内の雰囲気を気に入っていた。具体的にどこがというのではなく、感覚なんだろうね。なんにしても、楽しんでもらえているのが嬉しい。
朝から良いお参りでした。
【参考文献】
小林敏男「神代可愛山陵の変遷と決定事情」『鹿児島短期大学研究紀要 (46)』鹿児島短期大学,1990年
重野安繹『国史綜覧稿 (9)』静嘉堂文庫,1906年
日隈正守「『神代三陵志』可愛山陵項所収『新田神社文書』に関する一考察」『鹿児島大学教育学部研究紀要 (55)』,2003年
小林敏男「神代可愛山陵の変遷と決定事情」『鹿児島短期大学研究紀要 (46)』鹿児島短期大学,1990年
重野安繹『国史綜覧稿 (9)』静嘉堂文庫,1906年
日隈正守「『神代三陵志』可愛山陵項所収『新田神社文書』に関する一考察」『鹿児島大学教育学部研究紀要 (55)』,2003年