笠狭の碕とニニギ上陸伝承地
2024年4月18日木曜日
16:27

今回のテーマは

ニニギ(おさらいしたところで、高千穂の峰についての検討は別エントリーに譲って、「笠狭」が野間岬に比定されている根拠を見ていくことにする。皇孫 )は、日向 の襲 の高千穂の峰にお降りになった。皇孫のお進みになる様子は、槵日 の二上 の天 の浮橋 から、浮島の平らな所にお立ちになって、痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて、吾田 の長屋 の笠狭 の碕 にお着きになった。そこに人がいて、自らコトカツクニカツナガサと名乗った。皇孫が「国があるか」と問われると、「ここに国があります。お気に召しましたらどうぞごゆっくり」と答えた。それで、皇孫はそこに留まられた。
その国に美人がいた。名をカシツヒメといった。またの名をカムアタツヒメ、またの名をコノハナサクヤビメともいった。
皇孫ニニギが美人と出会ったという「吾田」は、カムアタツヒメ(神吾田津姫)のアタであり、地名や氏族名としての阿多でもある。アタの姫と出会い、結婚して生まれた御子のホスソリ(『古事記』ではホデリ)は
『和名類聚抄』によれば、薩摩国に阿多郡阿多郷がある。阿多郷というとごく限られた区域になってしまうけど、古代において阿多はもっと広く、薩摩半島全域を指していたらしい。長らく朝廷に服属せず反乱を繰り返していた阿多隼人は、『続日本紀』によれば大宝二年(702)に征討され、その居住地域に
「長屋」は、南さつま市のほぼ中心に位置する
吾田の笠狭の御碕にお着きになった。そして長屋のとあり、この「竹島」は竹島 にお登りになった。
「笠狭」は『古事記』では「笠沙」となっており、合併により南さつま市になる前には笠沙町が存在したけど、これは古来からの地名ではない。近世には
・笠狭之崎要するに、「カササノタ」が「カセダ」に転じたというのだ。「ササ」が「セ」に訛ることはあり得る。
加世田という村名は、笠狭から転じた名で、ササの下に田を付けたのは、笠狭の地に後世に田所を開いたので、笠狭の田と呼んだからである。また崎とあるのは、加世田の地でも、その端の海辺まで御覧になったのだろう。そうであれば、笠狭は古事記に記されている笠沙が本義で、重なる沙の略語だろう。このあたりの吹上という所は、限りない西海の大洋から白砂が吹き上げられ、年々積み重なって、さながら丘陵を成したのは、重沙の名に当たる。
このように、直接的な地名こそ残っていないものの、野間岬を「笠狭」と比定するのには、十分な材料が揃っているといえそうだね。
次に注目したいのが、ニニギの行動だ。高千穂の峰に垂直降臨したあと、良い国を求めて水平方向に移動している。それも浮島から始めており、海辺を想起させる。そうして笠狭の碕に来臨した。『日本書紀』の一書(第二)では美人とは浜辺で出会っており、また一書(第六)では、
波頭の立っている波の上に大きな御殿を建て機織りをする少女とも表現されていて、ここでも海のそばが舞台になっている。
これを踏まえて、現地の伝承に目を向けたい。『麑藩名勝考』のあとに編まれた地誌として有名な『
古老の言い伝えによれば、御神は、初め舟にお乗りになってといい、黒瀬海岸は今でも神渡海岸と呼ばれており、神さまが渡ってこられたことに因むのだろう。「塩焚の翁」というのは『日本書紀』にいう「神渡 の少し西のほうの磯部に打ち寄せられたのを、塩焚の翁がお世話をして、自分の家に招き入れ塩俵の上に鹿の皮を敷いて、お座りいただいたという。今では打寄という瀬、神渡、鷹屋 の旧跡には石碑がある。
海の彼方から寄り来る神が、浜辺で出会った現地のヒメと結婚した――というのが、原形の神話に近いのかもしれないね。
ただ解せないのは、『再撰帳』を基にしたはずの『三国名勝図会』にニニギ上陸伝承が載っていないこと。神渡については、
土地の人の説に、と娘媽 神女のご遺体が流れ着いた所という。また一説に、娘媽神女が虚舟 に乗ってここに着いた。農民は驚き、茅を敷いて座を献上したという。
もうひとつの地誌『
『名勝考』も『名勝志』も『名勝図会』も、ニニギに無関心なわけではない。笠狭の碕に限らず多くの伝承地を掲載している。にもかかわらずニニギ上陸に触れないのは、この伝えに価値が無いと判断されたんだろうか。不可解だなぁ。

気を取り直して、神戸港港島トンネル経由で神戸空港へ。思った以上に駐車場の車が多くて、ずいぶん遠くに停めることになった。それからこれも初めての試みで、スカイマークのフォワードシートを取ってみた。自動チェックイン機ではなく、有人のカウンターで手続きが必要。とはいえ、ひとり千円追加で最前列シートと優先搭乗が約束されるのだから、これは超有用。今後も積極的に使っていきたい。降機も速やかだった。
鹿児島空港に着いたら、ロビーの窓から見える霧島連山に胸を躍らせつつ、ターミナルを出て右奥のレンタカー送迎車乗降場へ。程なくやってきたトヨタレンタカーの送迎車に乗り込んだ。十数名乗車可能な車内が一杯になったから、利用者多いんだなぁと。お店での手続きもテキパキ。受付の人のイントネーションに九州を実感。毎度ながら狭い路の走行を想定して軽を予約していたんだけど、ダイハツムーヴになった。キーを差して回す少し古いタイプの車だ。オートライトも無い。レンタカーはどうしても当たり外れがあるね。
道程は、九州道をぐーんと南下。南さつま・吹上・谷山方面の出口から出たら、国道270号まで鹿児島加世田線を進む。

その先で今度はピラミッドのような砂像を造っている所を見かけて、またビックリ。しかも、あとでなぜ砂像が造られているのかが解けようとは。


それから一つ目の伝承地、黒瀬海岸を目指す。海岸へ下る分かれ道に案内板まで立てられていたけど、その奥に駐車場は無い。漁師さんの邪魔にならないよう、道幅が比較的広いところで端に寄せて、少しの間だけ停めさせてもらった。


それに、晴れて良かった!美しい東シナ海。5分に満たない滞在時間だったけど、心は満たされたよ。


とある。しかしその後の台風や伐採などで全滅したらしく、今は雑木林と化している。蒲葵 島:蒲葵樹がとても多いので、その名が付いた。昔は、この島を秋目島といった。
この日の展示は、地元出身という黒瀬道則画伯と、そのお弟子さんの作品たち。トリックアートのような独特の画風で、これが面白い。
それにしても案内してくださったお姉さん、とっても明るくて素敵な方だった。砂像彫刻を見た話をしたら、加世田地区では「吹上浜 砂の祭典」というのをGWに催すのだと教えていただいて、合点がいった。他にもアレコレ地元情報を頂いたり。良い出会いが早々にあったなぁ。




遺跡名にもあるように、この山は宮ノ山といい、またこのあたり一帯は宮ノ塚と呼ばれる。「宮」の字が付くことから、高貴な方が住まう場所と認識されていたのかもしれない。それが笠沙宮伝承に繋がるのかもしれない。

ここからでも十分野間岬が望める。次の場所に無事たどり着けるかちょっぴり心配で、保険をかけて寄ったんだよ。神 つ代 の笠狭 の碕 に わが足を ひとたびとどめ 心和 ぎなむ





中腹に野間神社があるのは知っているけど、時間の都合でパス。伝承地を優先した。
スケジュールより前倒しできているけど、次の目的地へ行ってしまおうか。と、ここで嫁が珍しく、やっぱりロケ地に行きたいと言い出した。やっぱりというのは、旅程を組んでいるときに見つけたので、行きたいか訊いた時には別にいいと言っていたからだ。でもいいよいいよ、時間もあるし、行こう。希望をちゃんと口に出してくれて良かったよ。路を戻ることになったけど、そんなの大したことじゃあない。

嫁は、動画サイトをきっかけに007シリーズのほとんどを視聴しているのだ。記念碑と並んで笑顔の嫁を見て、こちらも嬉しくなった。
笠狭の碕を見るということは、海を見るに等しい。どうせなら青い海を見たいと思っていたところ、天候に恵まれた。良い出会いもあった。幸先の良いスタートだね!
【参考文献】
松村武雄「瓊瓊杵命・木花開耶姬の婚姻神話」『日本神話の研究 (3)』培風館,1955年
吉井巌「火中出產ならびに海幸山幸說話の天皇神話への吸収について」『天皇の系譜と神話』塙書房,1967年
吉井巌「海幸山幸の神話と系譜」『天皇の系譜と神話 (3)』塙書房,1992年
松村武雄「瓊瓊杵命・木花開耶姬の婚姻神話」『日本神話の研究 (3)』培風館,1955年
吉井巌「火中出產ならびに海幸山幸說話の天皇神話への吸収について」『天皇の系譜と神話』塙書房,1967年
吉井巌「海幸山幸の神話と系譜」『天皇の系譜と神話 (3)』塙書房,1992年