鹿児島神宮と高屋山上陵
2024年4月20日土曜日
13:23
ヒコホホデミこと山幸彦は、借りた釣り針を無くし、兄の海幸彦から返せと責められる。困った山幸彦は、シオツチの教えにより目の詰んだ籠に入って、海神の宮へ行く。山幸彦は海神の娘トヨタマビメと出会い、結婚する。ワダツミの助けを得て無くした釣り針を見つけた山幸彦は、地上へ帰る。『麑藩名勝考』大隅国の部には、鹿児島神宮について次のような記述がある。
これと合わせて考えたいのが、同書の薩摩国の部。桑原 郡国分 郷宮内 村
・麑島 神社
源清東蔵の旧記では、ここはヒコホホデミが大宮を建て都となさった旧跡で、その旧跡は今の石体宮であるという。正宮社家伝では、石体宮はヒコホホデミの山陵と言い伝えられている、
また、鹿児島とは今の宮内のことと言い伝えられている。
ニニギが亡くなられた後、ヒコホホデミはこの宮内に鎮座されていたのを、海宮遊行の後に日向の地に遷都なさり、この地は兄ホスセリ(海幸彦)に賜ったので、後々までホスセリ(海幸彦)の子孫が、大隅・薩摩間を領有していたということだろう。
「麑」は「鹿児」を一文字にした面白い漢字だが、それはともかく。麑島 郡麑島府
・麑島
麑島とは籠島 である、と言い伝えられている。
この麑島の地は、ヒコホホデミが目の詰んだ籠の小船に乗って、海神の宮においでになった旧跡なので、籠島と名づけられたのである。それでまた、ヒコホホデミを祀っている神社を麑島神社といい、それが桑原郡の正八幡宮である。
「鹿児島」の地名は鹿児島市に残っているけど、かつて鹿児島神宮の鎮座地もまた「鹿児島」といっていたとしたら、そこからヒコホホデミ(山幸彦)は海神の宮へ向かったと読める。
そこで、「鹿児島」という地名について調べてみた。
地名としての「鹿児島(麑島)」の文献上の初出は、『続日本紀』天平宝字八年(764)十二月条とされる。
この月、西の方角で音がした。雷に似ているが雷ではない。その時に、大隅・薩摩両国の境界に当たるところに、雲煙が濃く立ち込め、電光が行き交った。七日後に空が晴れた。麑島大隅・薩摩両国の境界にある、桜島の噴火の様子を伝えているようだ。「信尓 の村の海に、砂と石が自然に集まり三つの島が形成された。炎のような気配が見られ、まるで金属を精製しているようだ。
桜島は、中世の史料(『山田聖栄自記(文明十四年(1482))』等)には「向島」などとみえ、「桜島」が公式名称とされるのは近世の中期以降といわれる。意外なことに、桜島が古代に何と呼ばれていたかは判然としていない。
ただ、「鹿児島」が元は桜島を指したという推測もある。地理学者の石橋五郎は、
桜島程の大島に古代其の名なき筈なく、又伝らぬ筈もないと思ふから、予は鹿児島を以て桜島の古名とするものである。~中略~鹿児島湾頭に於ける唯一の大島の名が古代に於て其の地方の代表名となることは決して不自然ではないと思ふ。と記しており、僕もまったくその通りだと膝を打った。
この推測が正しければ、「鹿児島」の名は桜島だけでなく、付近海岸の総称ともなったんだろう。それが薩摩国・大隅国に分かれた結果、薩摩国では鹿児島郡(現在の鹿児島市)として地名が存続したが、大隅国では神社の名称にその名残を留めるのみとなった、と考えられる。
神社は海岸から5kmほど内陸にあるけど、縄文時代は現在より海面が高く、約5,000年前までには海抜3~5mの高さに上昇したとされ、海が深く入り込んでいた。目の前は海原、背後には山、まさに海幸山幸神話の舞台にピッタリ。
ヒコホホデミは、鹿児島神宮の地から海神の宮へと旅立った――と、いえるかもしれないね。
地上へ帰ってきたあとは、兄への報復やトヨタマビメの出産などの話があり、久しくしてヒコホホデミが亡くなるのだけど、ここに『日本書紀』には無い『古事記』のみの記述がある。
御陵は高千穂の山の西にある。高屋山上陵の治定を巡っては、現在の鹿児島県肝属郡肝付町の国見山にあることが、江戸時代においては半ば定説化していたが、明治七年(1874)の「御裁可」では『高屋山陵考(明治四年(1871))』を著した
国見山は『和名類聚抄』でいえば大隅国肝属郡の鷹屋郷にある。『名勝考』などはこの地名と、「高千穂山の西にある」ことを主張している。
また、サクヤビメの火中出産伝承地で紹介したように、薩摩国阿多郡の鷹屋郷にある竹屋神社北の鷹屋山とする説も唱えられていた。こちらも『古事記』と地名に拠っている。
高は竹・鷹に通ずるので、いずれも地名に関して異論は無い。溝辺の鷹屋神社について『薩藩名勝志』や『三国名勝図会』では「鷹大明神(社)」と、「屋」が付いていないのがやや引っかかりはするけど。
問題は「高千穂の山の西」にあるのか。「高千穂の山」は霧島山のこととして話を進める。
肝付町の国見山は、現在の地図で確認すると、霧島山の南南東、甘く見ても南に位置する。にもかかわらず、『名勝考』は「西にある」と言い切っている。
南さつま市の竹屋神社は、霧島山の南西。西といえなくはない。気になるのが、この説の中で国見山を、南西にあって南方に近いと指摘している点。
どうやら江戸時代の地理感覚は、現代とは少しずれているらしい。地図を時計回りに30度ほど傾けると、彼らの主張にぴたりと合致する。明治初期においても大差ないはず。となると、奈良時代編纂の『古事記』の「西」も、あまり当てにならないといえるだろうね。
個人的には、ヒコホホデミたちのヘソの緒を竹の刀で切ったという説話が残る竹屋神社も、周辺に伝承地が散らばる国見山も、捨てがたい。
ただし、霧島市の高屋山上陵は別だ。いや、高屋山上陵だけでなく、宮内庁による神代三山陵の治定すべてを、認めるわけにはいかない。神さまのお墓を国家が公認するということは、神さまが、神話が実在すると認め、そればかりか、他の伝承地を認めないと切り捨てるに等しい行為。
伝承というものは、土地の人々が大切に語り継いできた、かけがえのないもの。それを、国家が否定していいはずがない。神話を一本に固定した、国家神道のやり口そのものだ。
そうやって、かつて『古事記』や『日本書紀』を貶めた国家神道を、絶対に許さない。戦前の皇室陵墓令は廃止されたけど、現行の皇室典範にその条項の一部は引き継がれている。陵に関する事項を記録した「陵籍」に、神代三山陵も含まれているとみられる。あの悪しき制度の残欠が今もなおくすぶっていることに、一抹の不安と恐ろしさを覚える。
僕は、伝承どうしを整合させて楽しむことが好きだ。だからといって、伝承と伝承が互いに矛盾することを拒んだりしない。むしろ、そのほうが良いとさえ思っている。無限の可能性を許してくれる、そんな世界が好きなんだよ。神話は、神話であるから良いんだよ。
……思わず熱くなってしまったけど、これが僕の偽らざる気持ち。
さて、体力気力ともに全回復した僕らは、ゆっくり10時半頃に宿を出発。この日はあいにくの曇り空。これから降り出す予報だった。
またしてもカーナビに微妙にずれた位置に案内され、ひと手間あったものの、どうにか高屋山上陵に到着。
するとそこには、長い階段。出鼻をくじかれる。あまり詳しく下調べしていなかったせいで、嫁に大変な思いをさせることに。待ってても良いとは言ったけど、ついてきてくれた。小雨の中、嫁のペースに合わせて上る。
階段を上り切った先には、緩やかな坂道とまた数十段の階段が。全部で200段ほどあっただろうか、たかだか数十mの距離に5分ほどかかった。苔生した道は情緒があったけどね。
鬱蒼とした木々の中に、御陵と拝所。複雑な気持ちを胸に見上げた。
慎重に石段を下りていると、“お仲間”と思しき車が停まるのが眼下に見えた。下まで辿り着いたら、車から降りてきた女性たちに声をかけられた。行ってこられたんですよね、どのくらいありますか?と。ああ、彼女らも階段の高さにたじろいだんだろう。目の前に見えているのが大半で、その先に上り坂と階段が少しあると答えた。知りたいのはそういうことかなと思って。日本神話ファンかパワスポ巡りか、はたまた皇室万歳かわからないけど、仲良し3人で御陵参拝、いいね。
続いて僕たちは鹿児島神宮へ。途上、鹿児島空港の前を素通りする格好になった。夕方にはここに戻ってこないと。
鹿児島神宮には複数駐車場があるけど、距離的なメリットはあまり変わらないので、判りやすさ優先で二の鳥居をくぐったところの駐車場を選んだ。
石橋の先には両脇に
参道に、竜宮の亀石というものが。亀の背に乗った穴だらけの石が、なるほど海中にあった物のような雰囲気を醸している。実態は火山の軽石かな。山幸彦といえば竜宮伝説だから、こういうのもロマンがあって良いね。
参詣は、勅使殿の脇にある階段から上がって、拝殿からする形になっていた。
主祭神は山幸彦ことヒコホホデミ・トヨタマビメ。相殿神として、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・
本殿・拝殿・勅使殿が一直線に並んでいて、この構成も新田神社や霧島神宮に近い。鹿児島の地域色なのかな。
本殿の東隣は
本殿と拝殿と勅使殿とこの四所神社本殿は、いずれも重文に指定されている。
その隣の武内神社の御祭神は
戻る際に神馬の
車に戻ったら、二の鳥居から300mばかり北にある宮の杜ふれあい公園の駐車場へ。公園に立つのが「神代聖蹟高千穂宮阯」の石碑。
というのも、この奥に鎮座する石体神社の地が、ヒコホホデミの高千穂宮跡と伝わるためだ。
石体神社にも駐車場があることに、現地で気づいた。
石体神社は鹿児島神宮の境外摂社だけど、その旧社殿地ともいう。高千穂宮跡に石体神社が創建され、遷座して現在の鹿児島神宮ができた、という流れだね。
どことなくシーサーっぽい趣きの狛犬が可愛い。
拝殿には屋根が付いていたので、傘をたたんで拝礼。
公園の横には卑弥呼神社があったけど、如何にもアヤシイので遠慮しておいた。
しとしと雨が降るなかでの参拝も良いものだね。嫁も同感だった。風がほとんど無く濡れる心配をしなくて済んだからそう思えるんだろうけど、傘に当たる雨音が心を落ち着かせてくれる。
高千穂宮伝承地にも行けたし、満足満足。
【参考文献】
石橋五郎「鹿児島と桜島」『日本地理大系 九州篇』改造社,1930年
小林哲夫「桜島火山の地質:これまでの研究の成果と今後の課題」『火山 (27-4)』日本火山学会,1982年
石橋五郎「鹿児島と桜島」『日本地理大系 九州篇』改造社,1930年
小林哲夫「桜島火山の地質:これまでの研究の成果と今後の課題」『火山 (27-4)』日本火山学会,1982年