橿考研博物館 素敵なガイドと太安万侶の墓誌

2017年11月25日土曜日 13:40

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館――橿考研博物館は、歴史ある奈良の考古学的研究の成果を公開する施設。特別展はもちろん、常設展も考古学・歴史ファン垂涎の一級資料がズラリ。ボランティアによる展示解説も行っており、初学者にも優しい。
これだけでも充分過ぎるほど魅力溢れる博物館だが、常設展示には太安万侶おおのやすまろ墓誌ぼしが含まれており、古事記ファン必見なのだ!

長屋王邸跡をあとにした僕たちは、奈良市役所から程近いスーパーホテル奈良・新大宮駅前に宿泊し、夜は個室居酒屋『くいもの屋わん』で寛いだ。


翌朝、小一時間かけて橿考研博物館へ。移動効率悪いし、橿原に良いホテルがあればそっちで泊まるんだけど、あんまり冒険したくないんだよね。
到着は9時半。開館から30分経つはずだが、駐車場はガラガラ。え、土曜なのに、こんなに不人気なの?観覧する側としては有り難いけどさ。
エントランスから受付までのフリーゾーンにもいくつか展示がある。それらをざっと見てからチケットを購入。特別展開催期間中なので、入館料は大人ひとり8百円だ。

旬という意味では特別展のほうを挙げるけど、旅の体験としては常設展のほうが濃い時間だった。だからそちらを重点的に記そう。


まずは秋季特別展『黒塚古墳のすべて』。
黒塚古墳は奈良県天理市にある前方後円墳で、出土した三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうの33面は国内最多を誇る。石室の構造は、壁面最上部を突き合わせて天井を閉じる合掌造。これが鎌倉時代の地震により崩壊し、結果的に盗掘による被害を最小限に防ぎ、多量の副葬品が手つかずのまま残されていたという。そのため埋葬状態の復元が可能となり、副葬品が単なる被葬者への添え物ではなく、呪術的な効果を期待していたであろうことが、明らかとなった。また、三角縁神獣鏡はすべて木棺外から、画文帯神獣鏡がもんたいしんじゅうきょうは木棺内から出土しており、この扱いの違いも興味深い。
こうした黒塚古墳の出土品などを、周辺の古墳と比較展示してあり、視覚的にも勉強になった。体系立った資料として役立つ思い、図録も買っちゃった。


続いて常設展『大和の考古学』。ここからは一部を除き、撮影可。

展示室入口に掲げてあったガイド時間の案内を見ていると、後ろから声を掛けられた。「良かったら、ご案内しましょうか?」
振り返ると、ボランティアガイドのネームタグを首から下げた白髪の男性が立っていた。渡りに船とはまさにこのこと、解説をお願いすることにした。問答で初めての来館であること、時間はたっぷりあることを伝えると、ガイドさんは慣れた様子で、旧石器時代の室から順に説明してくださった。
こういうのが好きなのか訊かれたので、僕のほうだけだと答えると、付き合うほうは大変ですねと嫁を気遣われるなど、彼は適度に砕けてて、僕たちには丁度良い距離間で接してくれた。やたら馴れ馴れしいのは少々不快に感じるから、良い人に当たったなと。
一方で、解説はほとんど淀みなく、メリハリの利いた配分で進む。質問をすれば的確に答えてくれたし、説明の補足も。ボランティアのガイドさんにしちゃレベル高過ぎだよ。


旧石器人は、二上山にじょうざんを掘削してサヌカイトと呼ばれる安山岩を入手していたらしい。二上山と香川県でしか採取されないのに、カタカナ名が付いているサヌカイト。ドイツ人学者が『讃岐さぬき』と英語で石を意味する『iteアイト』を合わせて命名したそうだ。黒曜石と同じく割ると切れ味鋭い断面ができ、ナイフとして使用されたとのこと。
旧石器時代は門外漢なので、解説に逐一頷いた。

縄文時代、優れた土器模様が全国へ伝わっていった話を聞きつつ、内心だよねだよね!と同感。従来考えられてきた以上に、大昔から人や文化の交流はずっと盛んだったんだよ。
それから、土偶は壊されるために作られた、とか。何らかの祈りが付託されてたんだろうね。


弥生時代の土器に描かれた絵のうち、ひとつ例として『鳥装の巫女』を挙げる。


これに解釈を加えて、儀式の様子をジオラマで再現してあった。こうした工夫はとても理解しやすい。


古墳時代まで進むと、既知のことが増えてくる。とはいえ、知らないこともまだまだ多い。
メスリ山古墳の円筒埴輪は高さ2.4mで日本最大。古墳に埴輪が並べられた姿の復元なら、神戸市の五色塚古墳で知ってるからイメージあったんだけど、こんなでっかいのは初めて見た。


宮山古墳の石室模型。被葬者は葛城の王、すなわち葛城襲津彦かずらきのそつひこさん!古代豪族である葛城氏の始祖にして、古事記では武内宿禰たけしうちのすくねの子とされる人物だ。
ガイドさんの口から襲津彦の名が出てきて、嬉しくなってしまった。展示案内には記されてないんだよ。


藤ノ木古墳出土の馬具は、豪華で精巧な装飾が施されていて、とても6世紀の代物とは思えない。学者でも意見が分かれるらしく、後世納められた説や、大陸製説などあるそうだ。

次はいよいよ飛鳥・奈良時代。僕が最も胸躍る時代。


飛鳥地域に宮都が集中する時代があった。だから飛鳥時代という。その中心地、飛鳥宮の復元模型。
写真手前の区画はエビノコかくと呼ばれ、のちの大極殿の役割を持っていたと考えられている。天武天皇の飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやの段階に造られたとする説が有力とか。変わった名前が付いてるけど、発見された地名のあざエビノコに由来するようだ。


火葬の一例として紹介されていたのが、太安万侶墓の模型。6月に実地へお参りに行ったよ!模型といいつつ、中心部は本物だって聞いた。
他の見学者からの声は、「火葬かぁ」という程度の反応で、僕との温度差は歴然としてた。僕のリアクションが過剰なのか。でもいいんだ、好きなんだもの。


そして、遂に太安万侶の墓誌と御対面!このためにここへ来た!近づいて目を凝らすと、確かに『太朝臣安萬侶おおのあそんやすまろ』と刻まれている。当然ながら、国の重要文化財。
日本最古の歴史書である古事記を編纂したのが太安万侶さん。偽書説さえあった古事記、安万侶さんも伝説上の人物とされた。その彼が実在したことを立証するのが、この銅製の墓誌。古事記ファンにとって尊く貴重な品なので、実物を拝めてもう感慨無量……。ガイドが終わったあとにも、戻って気の済むまで見つめたよ。

平安~室町時代はサラリと流して、解説終了。なんと2時間つきっきりで案内していただいた。本当にありがとうございマシタ。別れ際はあっさりしたものだった。男前やぁ。

ガイドさんとの会話も印象深い。
箸墓古墳に行ったことがあると言えば、「好きなんですねぇ」と返され、長屋王邸跡には昨日行ったばかりと言えば、「何があるんですか」と逆に訊かれた。兵庫から来たことを聞いて、数年前の淡路島での銅鐸発見のニュースを引き合いに出してくれたりもした。橿原神宮は行ったか訊かれ、行ったことがあると答えると、「それはよろしいですな」と。
話が平城京に及んだ時、「平城京の遷都は……」とガイドさんが珍しく言い淀んだので、「平城京に遷都したのは元明天皇ですよ」と助け舟を出すと、「そっちじゃなくてその息子の……あ、聖武天皇」と自己完結されてた。聖武は元明の子である文武の子だけど、遷都を繰り返した聖武の話題をしたかったみたいなので、無粋なツッコミはしないでおいた。と、こんなやり取りをしてたら、嫁を置いてけぼりにしてしまう。
ともすればディープでくどくどした内容になりがちなのに、彼は終始リズム良く導いてくださった。だけど言外に、「お主も数寄者よのう、へっへっへ」という下卑た笑いをたたえてるような気がした。蛇の道は蛇、将来の自分の姿かも知れないな。

出会いは旅の醍醐味。とっても素敵なガイドさんだった。橿考研博物館も素晴らしい展示だった。一発でファンになったよ。長々と付き合ってくれた嫁もありがとう。

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