古事記を完成させた偉才二人を参拝してきた

2017年6月3日土曜日 15:22

古事記は現存する日本最古の歴史書。これを完成させた奈良時代の人物こそ、太安万侶おおのやすまろ稗田阿礼ひえだのあれである。歴史書というとなんだかお堅いイメージがあるけど、誰もが耳にしたことのある神話や伝説も撰録されていて、理解が進めばメチャクチャ面白い。
太安万侶と稗田阿礼のコンビといえば、古事記ファンにとって尊くて心から敬うべき存在。その稀代の天才二人を、遂に参拝してきたよ!


JR奈良駅旧駅舎内のスタバに寄りラテをテイクアウトしたら、駐車場に戻って30分ほど車を走らせる。曲がりくねった山道を抜けたら、今度は離合の難しい狭い道を慎重に進み、目的地付近に到着。公衆トイレの東に少し広い路肩があるので、そこに停めた。長居するつもりはないが、ここなら通行の邪魔になるまい。


ちなみに公衆トイレは割と新しいようで、中も綺麗だった。


奈良市此瀬町にあるのが太安万侶の墓。
道の端に標柱が立ってる。これが無かったら不安になるくらい周囲には何も無い。


緑が美しい茶畑の急坂を登る。短い距離だがなかなか傾斜がキツいので、息が切れそうだ。


その先に、太安万侶の墓は静かに在った。整然として、花やお供え物も新しく、定期的に人の手が入っていることは明らか。それだけでもう嬉しい。墓に手を合わせ、古事記を編纂していただいたことへの感謝を伝えた。
ここは、1979年に茶畑の主が植え替えをしていたところ、発見された。火葬された骨と一緒に銅製の墓誌が出土。これにより太安万侶が実在の人物であることが証明され、偽書扱いされていた古事記が本物であると判った。色んな意味で有り難い場所だ。
日本史の大部分が土葬なので、火葬ってとこが気になったんだけど、一時期流行ったらしい。


後ろを振り返れば、向こうにも茶畑の山。あそこに稗田阿礼の墓があったという口伝もあるとか。裏の取れていない話だけど、本当だとすれば、こんなにも近くに相棒が眠っているのかと、胸が高鳴る。
それにしても清々しい眺め。良かったね……。

続いては(昨夜バーで教えてもらった『ぽくぽく』が満席で入れないという事態に遭いつつ)大和郡山市まで移動。嫁が探してくれた『サンプーペー』にてピザランチを食べて満腹になったら、次なる目的地へ。JR郡山駅周辺道路がカオスで戸惑った。カーナビがいい仕事してくれた~。


大和郡山市稗田町の、稗田阿礼を祀る売太神社めたじんじゃ


向かいの参拝者用駐車場に車を置かせてもらう。あるのとないのとでは大違いだから、とっても助かる。


拝殿にて拝礼。もちろん届けるのは、古事記編纂への謝意。こんなにありがとうの気持ちを込めて神社を参ったことが、あっただろうか。
主祭神は稗田阿礼で、副祭神として女神アメノウズメと男神サルタヒコが鎮座。サルタヒコと結婚したウズメは、その名を賜りサルメとなった。すなわち猿女君さるめのきみという氏族の祖神である。猿女君の一部は稗田氏を名乗った。稗田阿礼はウズメの子孫というわけだ。この地が稗田氏との関わりが深いことは、地名として残ってることからも判る。
“あれ”という名前の響き、女神の末裔ということから、稗田阿礼女性説がある。大変魅力的な説だけど、天皇に仕える舎人とねりであった以上、男だったんだろうなぁ。名前、現代の感覚だとカワイイのに。
系譜を述べたところで、この変わった社名の由来にも触れておこう。猿女君の田を猿女田、その持ち主を猿女田主と呼んでいたのが、いつしか猿の字が取れて女田主めたぬしとなり、その祖神を祀る社を売太神社めたじんじゃというようになったそうだ。

しかし参ったのが、やたら蚊にたかられたこと。歓迎されてるのか厄介払いされてるのか。


境内はこじんまりとしてるが、目に付くものがいっぱい。
『かたりべの碑』は稗田阿礼の偉業を顕彰するため、全国の童話家らにより建立されたそうだ。一度見たものは即座に理解し、聞いたことは決して忘れない、驚異的な記憶力で帝紀や旧辞をそらんじたという、天才に相応しい顕彰碑だ。


阿礼祭あれさいという祭事が毎年8月16日にあるようで、1930年に執り行われた第1回を記念した碑も立ってた。阿礼さま踊りや阿礼さま音頭なんてのもやるらしいから、楽しそうでちょっと興味ある。


そばには作家、巖谷小波いわやさざなみ氏の句碑。『言霊の 葉には秋なし 神の森』と刻まれてるとのことなんだけど、知ってても判りづらい。


石の入った祠。磐座かな。仔細は不明。


これは元本殿跡地らしい。現在の社殿は、1944年に神域の拡張と竣工式を行ったと。元はかなり小さかったみたいだ。


あれこれ見たなかで僕の心に引っかかったのが、『古事記協賛金』なる掲示。阿礼さまのため、古事記のため、微力ながらそのお手伝いができれば…!そんな気持ちが湧き起こったのだ。率直に嫁に話して、彼女の承諾を得た。
そして、生まれて初めて社務所の呼び鈴を押した。御朱印帳持たないから、行くことなかったのに。人見知りの小心者なのに。不思議な力に背中を押された。
応対に出てこられた女性に協賛金への賛同の旨を伝えると、礼を言われ用紙を渡された。氏名などを記入し、些少だけど納めた。
手続きの最中に、聖徳太子と稗田の地についての伝承を話していただいたんだけど、書き物しながらだと集中して聞けない。聞き取れた単語から察するに、太子が水の少ないこの地に池を作り、水を引いては田を作り……みたいな内容かと。「すみません、もう一度話してください」と言えるほど肝大きくないの……。


それから由緒書や記念品まで頂いた。社名入りボールペンと、あれさまのちえせんべい・うずめさまのふくせんべい。あれさまの書物は解るとして、うずめさまはなんでこんなのかというと、売太神社ではおたふくさんと呼ばれてるのね。
今にして思えば、もっと色んなことを聞ければ良かったんだけど、そこまで気が回らなかった。ただ、貴重な経験を積めた。次に活かそう。


神社の近くにはもうひとつ見所があって、それが稗田環濠ひえだかんごう。鎌倉末期から南北朝時代にかけて防衛のために築造されたそうだ。ほぼ完全な形で残る環濠集落は、全国的にも非常に珍しいとのこと。
写真ではわかりにくいかも知れないが、奥が環濠の内側。


先ほどの写真の左奥側から写したもの。こんな風にぐるりと堀が巡らせてある。


いくつか碑も見つけた。どれもだいぶ古びてた。
かつては水不足に喘いでいた稗田の地が、環濠を造れるほどになった。女性神職さんの語った太子の話と、どこかで繋がってるのかも知れないな。
ともあれ、晴れ渡った空の下の散歩は爽快。半分くらいを回ったところで駐車場へと戻った。

いつかお参りしたい。そう願っていたことが叶えられて、まさに感慨無量。古事記ファン冥利に尽きる。
珍しいものがあるとはいえ、一般的にはマニアックな場所ばかり。それでも楽しそうに付き合ってくれる、嫁にも深謝。

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