阿閇津に鎮座する阿閇神社

2017年2月19日日曜日 16:44
南毘都麻ナビツマ伝説。それは、播磨国風土記にある景行天皇から印南別譲イナミノワキイラツメへの妻問い(求婚)物語。風土記のなかでも僕が特に好きな話だ。奈良の都から、大阪を経て兵庫の加古川・高砂に至るまで、その古代の恋愛譚の舞台が現在も点在している。それを知って胸が躍った。そんなワケで、それらを何回かに分けて、順不同になるかも知れないけど、辿っていこうと思う。
なお、以前訪れた日岡御陵も、この伝説の地のひとつだ。

播磨国風土記に、
ナビツマ嶋に別譲がいると知った天皇は、阿閇津あえつに着き、この地の神に御食みあえを捧げた。それで阿閇村と名付けた。
とある。
時代は大きく下るが、兵庫県加古郡播磨町は明治から昭和中頃にかけて阿閇村という名前だった。また、津とは港のことで、阿閇漁港が播磨町本荘に現存する。
気になるのは、景行天皇がお食事を捧げられたという、土地の神さまの名がなんだったのか。このあたりで名のある神社といえば、阿閇神社あえじんじゃ。祭神は住吉大神で、住吉大社から勧請されたらしい。大社の創建が神功皇后(14代天皇である仲哀天皇の皇后)摂政期らしいので、景行天皇(12代)の代より後になる。となると、景行天皇の時代の阿閇村に鎮座していた神が、住吉三神なのかは怪しい。
しかしながら阿閇神社には、全国的にも類似例の少ない特徴的な本殿があるとのことで、行ってみたくなった。


泊神社をあとにした僕らは、別府べふ駅近くのコインパーキングまで行って車を停め、そこから歩いて神社に向かった。目的地周辺に駐車場が無いみたいだし、ちょっとした散歩にもなるから構わない。徒歩25分ほどで到着。


境内に入ってすぐの常夜灯には海上安全の文字が。祭神の神徳そのものだ。


何はともあれ拝殿にて拝礼。
もう陽が傾きだしたのに、ちらほらと他にも参拝客が訪れる。


それから本殿をじっくり拝見。なるほどこれは珍しい。
様式としては一間社いっけんしゃ春日造かすがづくりで、檜皮葺の同形同規模の4つの本殿が、近接して南北に西を向いて並立する。北つまり向かって左の一の宮からウワツツノオ,ナカツツノオ,ソコツツノオ,神功皇后が祀られているそうだ。なぜ西向きなのかは諸説あり不確か。
ミニチュアみたいとは嫁の言。確かに、一般的な本殿を縮小して並べたようにも見える。人が渡れないサイズの橋が掛けてあるあたりも、そんな感じを与えるな。


良く観ると、瑞垣内には本殿以外に小さな社が南北に2つずつあった。これらの祭神が気になるけど、ここからでは判らない。


裏手に回って、並び立つ本殿を眺めるのも壮観。西陽を浴びるその姿がカッコいい。


本殿に彫られたこの動物は……鹿?
鹿といえば、播磨国風土記には狩りで追われた鹿の哀れさを表現した話が多い。関係あるのかな。


境内には松の木がたくさん生えてて、往時はこのあたりが浜辺だったことを窺わせる。『賀古松原』であり阿閇津に思いを馳せることもできる風景だ。


最後に境内社を簡単に。
摂社は阿閇恵美須神社。


末社はその隣に3つ。手前が塞神社、奥が大将軍神社、真ん中は名前が無かった。

景行天皇が祈った相手とは異なるかもだけど、近しい場所で神さまに会うことができた。彼も松原に立って、まだ見ぬ美女への気持ちを高ぶらせてたのかな。
変わった神社建築を見て、嫁は嫁で楽しんでくれた。
それはそうと、社務所でお話を伺ったほうが良いのかな、と最近思い始めた。自分でアレコレ考えを巡らすのも悪くないんだけど、より確かな情報が得られるかも知れない。

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