秩父の和銅遺跡と聖神社をたどる長瀞発の自然銅の物語
2025年10月25日土曜日
17:25
埼玉県秩父市黒谷の和銅採掘遺跡は、慶雲五年(708)に秩父郡が……けど、せっかくだから由緒もちゃんと知っておきたい。調べてみると、どうやら合祀は養老六年(722)らしい。本当かな。
聖神社の縁起『旧記』は残念ながら要約しか読めなかったが、天明八年(1788)の書写本によると、
その後、養老六年十一月十三日に元明天皇を「元明金尊」として崇め、合祀したと伝える。
宝物として伝わる御神体板(棟札)2枚には、
慶雲五年/銅石神体/聖明神/戊申二月十三日とあり、『旧記』の記述と内容が一致している。おそらくどちらかが他方の典拠になっているのだろう。
父母惣社/銅石神体/元明金尊/養老壬戌六年十一月十三日
創建時に御神体を祀った慶雲五年(和銅元年)二月十三日は、多治比三宅麻呂が催鋳銭司に任じられた和銅元年二月十一日と近く、また元明合祀の養老六年十一月十三日は、元正天皇が元明天皇一周忌供養を発願した養老六年十一月十九日とわずか六日違い。日付の近さからして、それぞれを意識して設定された可能性が高い。
江戸幕府官撰の地誌『新編武蔵風土記稿(文政十一年(1828))』には、
国常立尊、天照大日孁尊、磐余彦尊三座合祀す。……例祭二月十三日、十一月十三日なり。とあり、三柱の神名は『旧記』と一致しているものの、「元明金尊」の名はみえない。ただし、例祭日がその存在を暗示しているようにも感じられる。
文献上で縁起はここまでしか遡れないが、創建時から祀られた三神の組み合わせは奈良時代の神社としては少し不自然だ。国常立尊は少なくとも『延喜式』「神名式」に記載がなく、注目されるようになるのは中世以降の伊勢神道から。さらに大日孁尊(アマテラス)や磐余彦尊(神武天皇)まで並ぶのも、時代的に違和感がある。
ここで注目したいのが棟札の記述である。「父母惣社」と記された「父母」の読みについては、乗々院の古文書に「武州父母六十六郷」などの例があり、寺社文書では「秩父」を「父母」と表すことがあるようだ。
ただし、養老年間なら和銅六年の好字令により「秩父」を用いるのが自然である。それ以前であれば、『先代旧事本紀』国造本紀の「知知夫」のように3字で表記された時代だ。
「母」を「ぶ」と読む用例も当時は確認できず、「父母」表記が定着するのはかなり後のことと思われる。もし「父母」を「ちちぶ」と読むとすれば、棟札自体の作成時期が後世である可能性もある。
一番気になるのは、神名「元明金尊」に漢風諡号の「元明」が使われていることだ。神武から持統・元明・元正までの漢風諡号は
『令義解』では「諡は生前の功績による死後の称号」と定義しているが、これは和風諡号を指すとされる。元明天皇の和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」であり、遺詔では「其国其郡朝馭宇天皇」と簡素な称号を望まれていた。『東大寺要録』に伝わる陵碑文にもその意向が反映されており、立派な和風諡号が正式に贈られたのは崩御からしばらく後のことだったらしい。
律令で定められた諡号が漢風であれ和風であれ、元正天皇による一周忌供養の発願より前の段階で「元明」と名乗る神格が成立していたとは考えにくい。『新編武蔵風土記稿』にその名がみえないことも、後世に付け加えられた可能性を示唆している。
とはいえ、金山彦命から始まる創祀は銅山の地にふさわしく、銅と深い関わりをもつ元明天皇を崩御後に合祀したということも十分にあり得る。神名だけが後世の形式に整えられた、ということかもしれない。
なんにしても、推しがお祀りされていること自体が尊い。だからこそ――いつからそうなったのか、知りたくなってしまうのだ。
そして和銅遺跡そのものについて地質学的な研究を調べてみると、古代に黒谷周辺で自然銅が実際に採掘されたことを示す積極的な証拠は見つかっていないという。「和銅露天掘り跡」とされる溝状の地形も、実は断層の破砕帯であり、ノミの跡と見誤ったのではないかという指摘がある。どうやら人の手によるものではなかった可能性が高いようだ。
ただし、断層運動によって化学的に自然銅が沈殿・蓄積していたとすれば、和銅採掘地であっても不思議ではないらしい。周辺には「和銅山」・「
――夢を、ロマンを見てもいいんだよね。
あれこれ調べていたら、もう居ても立ってもいられなくなった。
伝承の舞台って、実際に行ってみないとわからない空気があるんだよね。「元明金尊」をお祀りする聖神社が、どんな風に山の景色の中に佇んでいるのか、想像するだけで胸が高鳴る。
というわけで、調べるだけじゃ我慢できず、ついに秩父へ。和銅の里を、この目で確かめに行ってきたよ。
今回の旅行はいつもと少し違う。週末の東京出張に便乗した、僕の単独行動だ。仕事を終えたあと、秩父方面へのアクセスを考えて池袋に宿泊した。
翌朝はブロック型栄養食で簡単に朝食を済ませ、夜明け前の池袋駅へ。
駅の窓口で「東武鉄道×秩父鉄道SAITAMAプラチナルート乗車券」を購入し、東武東上線に乗り込む。
住みたい街ランキング上位の池袋だけあって、始発から意外と人が多い。みんな、こんな時間にどこへ行くんだろうなんて思いながら、車窓を眺めていた。
でも、スーツケースやボストンバッグを持った人たちは途中で次々と下車。1時間以上乗り続けていたのは、結局僕ひとりだけになった。
ドアが開くたびに冷たい風が吹き込むので、リュックからライトダウンを取り出して羽織る。まだ10月下旬だというのに、まるで冬の入口のような気配だ。
寄居駅で秩父鉄道に乗り換える。
ちょうど熊谷方面行が出るところで、長瀞・秩父方面は15分待ち。
ダイヤが1時間に2本しかないローカル線。でも、待合室で過ごすこの時間もまた旅情がある。
程なくして長瀞駅に到着。赤い屋根の小さな駅舎が可愛らしくて、思わず写真を撮りたくなった。開業当時の姿を残す木造駅舎として、「関東の駅百選」に選ばれているそうだ。
踏切を渡り、レトロなお店が並ぶ最初の目的地を長瀞にしたのは、都心からのアクセスが良い人気観光地だから。混雑を避けて、早朝の静寂を味わいたかったのだ。
日中なら人で賑わう川下りの船着場も、今は誰もいない。この絶景を独り占め……早起きして本当に良かった。どんよりとした空に、時おり傘のいらない程度の小雨。
天気を理由に訪れなかった人が多かったのかもしれない。そう考えると、むしろ恵まれた空模様だった気がする。
「岩畳」と呼ばれる硬い岩石段丘の上を歩きながら、足元の地形を確かめる。地下深くで形成された岩が地表に現れた場所で、「地球の窓」とも呼ばれているそうだ。
川の流れが速いところを「実際、流れは穏やかで、せせらぎもほとんど聞こえない。
耳に届くのは野鳥の声ばかり。これが本当に荒川だなんて信じられない静けさだ。
断崖「
あちこちで見かけた丸いくぼみは「ポットホール」。渦巻く流れに入った石が、ドリルのように岩を削ってできた穴らしい。
まるで人工的に掘ったみたいにきれいな丸で、自然の神秘に圧倒された。
乗り遅れると大変なので急ぎ足で長瀞駅へ戻り、秩父鉄道で和銅黒谷駅へ。ホームには和同開珎のオブジェ。これだけで気分が高まる。
駅から聖神社へ向かう途中、「銅洗堀」と伝わる古い地名の場所を確認。生活排水が流れ込む以外はほとんど水のない小さな川だけど、和銅の里を訪ねる旅では見過ごせない地点だ。
それから聖神社へ。金色の幟が鮮やかで、遠くからでもよく目立つ。
手水舎にも和同開珎の装飾が施されていて、その徹底ぶりに思わず笑みがこぼれる。
お掃除をしていた神職さんに軽く挨拶してから、朱塗りの拝殿で拝礼。「阿閇ちゃん、来たよ!参拝のきっかけをくれてありがとう」と、心の中でそっと伝えた。「銭神様」として金運のご利益があることで知られる神社だが、早朝だったせいか、ほとんど貸し切り状態でゆっくり参拝できた。
同じ電車で降りた人たちは、
続いて、いよいよ和銅遺跡へ。息が切れるほどの急坂を登る途中に、「和銅之遺蹟」と刻まれた石碑が立っている。
舗装路を外れ、整備された山道を5分ほど歩くと、「日本通貨発祥の地」と大書された和同開珎のモニュメントが現れた。この巨大さに、地域の人たちの誇りと愛を感じる。
「和銅露天掘り跡」の案内板には、聖神社の御神宝のレプリカが埋め込まれていた。雌雄一対の和銅製ムカデは、元明天皇から下賜されたと伝わるもの。実物は見られないと思っていたので、思いがけず複製に出会えて嬉しかった。
ただ、「露天掘り跡」とされる場所は、考察で述べたとおり地質学的には否定されている。とはいえ、下を流れる「和銅沢」は別だ。断層から崩れた鉱石が自然銅へと還元され、川底に溜まっていった――そんな可能性も、大いにあり得るのだから。
若くして亡くなった息子の遺志を継いで即位した阿閇ちゃん(元明天皇)。沈んだ心で政務にあたるなか、自然銅発見の報告が届く。
「これは神々が私たちを祝福してくださってるのね!」そう喜んで、年号を「和銅」に変えた――なんて想像すると、とても可愛くて、ちょっぴり切ない。
そんなロマンが、この地には確かに息づいている。
計画より1本早い電車に乗れそうだったので、小走りで和銅黒谷駅へ戻り、再び秩父鉄道で同じ路線を行ったり来たりしながら、「SAITAMAプラチナルート乗車券」をフル活用だ。
最後の目的地は、埼玉県立自然の博物館。本当は最初に訪れて学んでから現地を歩くのが理想だったけど、順番なんて気にしない。
入口前には「日本地質学発祥の地」の記念碑が立っている。
前庭には色とりどりの岩石が展示され、入館前からテンションが上がる。そうやって感心しながら岩を見て回っていたら、入口を通り過ぎてしまった。
館内ではまず「地学展示ホール」へ。お目当ては自然銅。埼玉県秩父郡長瀞町井戸で発見された標本だそうだ。
自然銅の中心は、まるで十円玉のように新しい輝きを放っていた。1300年前と今が、ひとつの光の粒でつながっている――そんな気がして、しばらく目を離せなかった。
天然では、銅が硫黄などの他の元素と結びつかずに純粋な銅(自然銅)を産出することはまれ……と書かれた解説を読み、改元のエピソードを思い浮かべる。 阿閇ちゃんが嬉しさのあまり「和銅」に改めたのも無理はない。もちろん、貨幣流通を促す政治的な思惑もあっただろう。
黒谷か長瀞か、いずれにしても、秩父の地から自然銅が献上されたという記事には、それなりの現実味が感じられる。
せっかくだから、他の展示も見て回る。自然銅のもとになったと考えられる銅鉱石もあって、見ているだけでワクワクする。長瀞岩畳の北には、かつて銅鉱石が採掘されたという
銅の産地が点在する地域であることを実感でき、展示を通して理解がぐっと深まった。
岩畳で見たポットホールを作った石そのものが展示されているのも面白い。丸く削られた石の形は、まさに自然がつくる芸術だ。
埼玉県内の普段はもっぱら文献史学に親しんでいる自分にも、地質の魅力がしっかり伝わってきた。
長瀞もこの博物館も、地質好きにはたまらない場所だと思う。
太古の海に生きた海獣・パレオパラドキシアの骨格化石も印象的だった。背骨にイタチザメの歯が付着しており、当時の環境まで想像できる。
分野は違っても、ひとつの痕跡から世界を読み取るという発想は共通していて、少し親近感を覚えた。
館内は決して広くはないが、見どころがぎっしり。家族連れや女性の一人旅、カップルなど、意外と多くの人が訪れていた。
少し時間があったので、博物館前の道を下りて川べりへ。「
それでも、別の角度から眺める長瀞の景観は美しい。
若いカップルが記念写真を撮る姿を見ながら、今日一番人とすれ違ったのは博物館だったなと思わず笑ってしまった。
旅の終わりは、上長瀞駅近くの『そば処 うち田』で少し早めのランチ。11時発の電車に間に合うよう、10時半開店のお店に滑り込む。
迷わず「くるみそば」を注文。秩父名物のひとつだ。クルミをすり潰した特製のつゆは、見た目よりもさっぱりしていて、レモン果汁をひと絞りすると香りがぐっと引き立つ。のど越しのいい蕎麦をすすり、蕎麦湯で締める。至福のひとときだった。
帰りは秩父鉄道で熊谷駅まで出て、上越新幹線「たにがわ」に乗車。さらに東海道新幹線「のぞみ」、山陽新幹線「みずほ」と乗り継ぎ、家路へ。東京からは近いと言われる秩父も、関西からだとさすがに遠い。でも、「たにがわ」も「みずほ」も初乗車で、なかなか悪くない締めくくりだ。
秩父の旅は、静けさとロマンのあいだを歩くような時間だった。
自然と歴史が折り重なった風景の中で、1300年前の元明天皇と同じ銅の輝きを見つめる。知識で追っていた「和銅」が、ひとつの旅でこんなにも身近に感じられるとは思わなかった。
やっぱり現地を歩くって、どんな本よりも雄弁だね。
【参考文献】
井上素子「埼玉県長瀞地域における自然銅の分布・産状および採鉱記録」『埼玉県立自然の博物館研究報告 (11)』埼玉県立自然の博物館,2017年
小幡喜一「秩父市黒谷の和銅露天掘り跡」『地学教育と科学運動 (70)』地学団体研究会,2013年
久下司『武蔵秩父郡和銅の遺趾』秩父和銅保勝会,1981年
井上素子「埼玉県長瀞地域における自然銅の分布・産状および採鉱記録」『埼玉県立自然の博物館研究報告 (11)』埼玉県立自然の博物館,2017年
小幡喜一「秩父市黒谷の和銅露天掘り跡」『地学教育と科学運動 (70)』地学団体研究会,2013年
久下司『武蔵秩父郡和銅の遺趾』秩父和銅保勝会,1981年