お蔭の心を味わうおかげ横丁グルメの時間

2025年10月3日金曜日 13:26
おかげ横丁は三重県伊勢市の伊勢神宮内宮前にあり、かつての参宮さんぐう街道の町並みを模した観光スポットだ。伊勢志摩ならではのグルメやお土産を楽しめるのが、なんといっても魅力。
せっかくだから、この「おかげ横丁」という名の由来でもある「お蔭参り」について少し触れてみたい。

伊勢神宮へ参拝する行為を指す言葉として、「参宮」がある。謡曲(能楽の台本)の一つで、世阿弥ぜあみ作とされる『須磨源氏』に、
此度思ひ立ち、伊勢参宮と志して候。
とあるから、室町時代にはすでにその用法が確立していたことが判る。こうして「参宮」という言葉が定着していったが、時代が下ると、参拝の形そのものも大きく変化していった。
江戸時代には、要所に関所が設けられ、通行手形を持たない者の移動が厳しく制限されていた。それでも人々は伊勢を目指し、さまざまな形で参拝を試みた。正式な手続きを経て行われる一般参宮のほかに、「抜け参り」や「お蔭参り」と呼ばれる参拝があったという。

「抜け参り」は、若い男女が親や主人に黙って村を抜け出し、伊勢神宮へお参りすること。もとは成年式に関わる習わしから生まれたもので、体力的にも金銭的にも厳しい旅をやり遂げることで、大人として認められる通過儀礼だったという。
旅の間は、家や村での身分や財産に関係なく、仲間同士が平等な立場で聖なる伊勢を目指した。
やがて近世になると、一般参宮が難しい人々――若者・女性・雇われ人など――が、許可を得ずに参宮することを指すようになり、道中では施行せぎょうと呼ばれる無償の物資提供を受けながら旅を続けたと伝えられている。
無断で抜け出したとして追手が差し向けられることもあったが、抜け参りだとわかると追跡はやめられた、なんて記録もあるらしい。

もう一つの形が「お蔭参り」である。これは、60年ごとに巡ってくるとされた「お蔭年」に、全国から大勢の人々が集団で伊勢神宮へ参拝する現象のこと。宝永二年(1705)、明和八年(1771)、文政十三年(1830)の3回がよく知られている。
特に、明和八年の集団参宮を目撃した記録として、本居宣長の門人でのちに養子となった本居大平もとおりおおひらの『おかげまうでの日記』がある。当時の熱気が伝わってくる内容だ。
いづれのとしも、この伊勢まうでも、いとおほかるを、ことし明和八年辛卯春のころは例よりすくなく見ゆなどいひたるほどに、四月の七日ころより、にはかに山城国丹後国などより、にぎはしく、こゝらともなひいでて、いくむれともなく、まうでくるもあやしくなん。かくていとあやしと思ふに、日毎に見えまさりて、きのふよりはけふといやましにまさりもてゆく。さるはそのひとごとに、おかげでさぬけたとさといふことをなん、道ゆくあしのはうしにいひつゝゆくを、七十八十になれる老人のきゝて、むかしもかくおほくまうできけるを、おかげまゐりといひて、そのをりもかくこそいひつゝ物せしか、此たびのさま専らそのをりのやうなりなどいふ。
現代語訳するとこうだ。
「どの年も伊勢参りをする人はとても多いのだが、今年・明和八年春のころは例年に比べて参詣する人が少なく見えるなどと言っていたところ、四月七日ごろからにわかに、山城の国や丹後の国などからにぎやかに、多くの人々が連れ立っていくつもの集団となって参ってくるのが、なんとも不思議に思われた。そうして不思議に感じているうちに、日ごとに参拝者の数が増えていき、昨日よりは今日、今日よりは明日と、ますます多くなっていった。道を行く人々が、『おかげでさ、ぬけたとさ』と囃しながら足取りも軽く唱えて歩いているのを、七十歳、八十歳にもなった老人たちが聞いて、『昔もこのようにたくさんの人が参詣したことがあって、そのときもお蔭参りと言っていた。今回の様子はまさにそのときのようだ』などと言っている。」

道中では食べ物や物資が無料で配られ、お金がなくても参拝できたため、「お蔭」という名前が広まったようだ。この「お蔭」には、神仏の加護と人々の施しという二つの意味が込められているとされる。
もともと伊勢参宮には、「抜け参り」にみられるように、日常の責任や義務から一時的に離れたいという「抜け」の意識があった。しかし江戸後期になると旅が大衆化し、娯楽の要素が強まるなかでその意識は次第に薄れていった。
そこに神仏や人々の恵みを受けるという「お蔭」の意識が加わり、社会的には「抜け」よりも「お蔭」が強調されるようになり、「お蔭参り」という呼び名が定着していったようだ。
「おかげでさ、ぬけたとさ」と口ずさみながら歩くのは、まさにその気持ちの表れだよね。

宗教性の薄まったこの参宮は、ひととき日常から解放されることが、自由な時間を楽しむ行為へと変化していった。もはや現代の旅行に近いものといえる。
だから江戸の「お蔭参り」には、なんだかスゴく親近感を覚えるんだよ。

さて、参拝を終えた僕たちは、ホテルに戻ってひと休み。やっぱり連泊して拠点があると、こういうときに身軽だ。
部屋で緑茶を淹れてひと息ついたら、再び内宮の駐車場へ向かう。さすがに一番近いA駐車場は混雑していたので、少し離れたB2駐車場に停めた。

この日の昼食は、おかげ横丁で好きなだけ食べると決めていた。平日とは思えないほど賑わうおはらい町通りを抜けると、おかげ横丁の太鼓櫓が見えてくる。櫓の下のベンチに腰を下ろして、作戦会議。念のため折り畳み傘を持ってきたけど、ここなら急に降り出しても安心だ。
嫁に荷物番を頼み、何を食べようか相談しては、僕が買いに行くというスタイルでいくことにした。

まずは一品目、『ふくすけ』の手打ち伊勢うどん。昨日食べた『まめや』の柔らかさとつい比べてしまうけど、こちらは意外ともちっとしている。太い麺に黒いタレが伊勢うどんの特徴だけど、お店によって食感がずいぶん違うらしい。手打ちというのも関係しているのかもしれない。

続いては『味匠館 森下酒店』の蒸しあわび。高級食材だけあって一串2,200円と少し勇気がいる値段だ。注文が入ってから蒸し器で蒸してくれるので、出来たてを味わえるのが嬉しい。肝にはサザエのようなほろ苦さがあるものの、それよりずっと食べやすく感じた。

ここで甘いものを挟もうと、『だんご屋』の黒糖みつ団子をチョイス。ただ、櫓下のベンチは人の出入りが多くて少し落ち着かない。横丁入口近くのベンチが空いていたので、そちらに移動することにした。黒糖のコク深い甘さがたまらない。これなら何本でも食べられそう。

甘いものの次はしょっぱいものを。『豚捨』のコロッケはサクサクでホクホク、シンプルながらしっかりした味。こういう定番こそ間違いない。

喉が渇いてきたので、『フルーツラボ』の梨ジュースを買った。目の前でごろごろと梨をジューサーに入れていて、その光景だけで期待が高まる。実際に飲んでみると、驚くほどみずみずしい。季節によって果物が変わるらしく、店頭に行くまでメニューがわからなかった。梨は僕の独断だったけど、嫁が喜んでくれて良かった。

本当は『すし久』のてこね寿しを食べたかったんだけど、持ち帰りはできないそうだ。そこで嫁と次は何を食べようか相談しながら、おかげ横丁を出ておはらい町へ向かった。

『松阪まるよし』の松阪牛牛鍋まんは、カウンター横のベンチでいただく。アツアツだから気をつけて頬張ると、口いっぱいに牛鍋の風味が広がって面白い。

締めくくりは『伊勢プリンの鉄人』のプリントースト。目の前で仕上げてくれるのでライブ感がある。見た目はフレンチトーストのようだけど、味は確かにプリン。添えられたソフトクリームと一緒に食べると、もうバツグンに美味しい。立ったまま食べることになったけど、これで最後だからまぁいいかな。

思う存分食べ歩きを満喫したあとは、『岩戸屋』でお土産選び。あちこちで試食ができたので、すっかりおなかがいっぱいに。だけどそのおかげで、本当に美味しいと思えるお土産を選ぶことができた。両実家にも喜んでもらえるといいな。

こうして振り返ってみると、江戸の人々が「お蔭参り」で感じた恵みのありがたさは、今も変わらず息づいている気がする。
参宮が人生の特別な体験だった時代と比べれば、現代の旅はずいぶん気軽になったけど、誰かと分け合うごはんの美味しさや、知らない町で過ごす時間の尊さは、きっと昔も今も同じだよね。
おかげ横丁でのひとときも、そんな小さな「お蔭」に包まれた時間だったように思う。

【参考文献】
桜井徳太郎『日本民間信仰論 増訂版』弘文堂,1970年
西垣晴次『お伊勢まいり』岩波書店,1983年
深井甚三「近世における抜け参りの展開とその主体」『歴史 (50)』東北史学会,1977年
八木清治「近世伊勢参宮の民衆心意」『福岡女学院大学紀要 (4)』福岡女学院大学,1994年

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