神服織と神麻続の機殿神社に響く機織りの音色

2025年10月2日木曜日 11:12
伊勢神宮では、毎年春と秋に「神御衣祭かんみそさい」という特別なお祭りが行われる。ここでは絹で織った神さまの衣と、麻で織った神さまの衣が、内宮と荒祭宮にお供えされる。
絹織物の織り目の細かい布は「和妙にぎたえ」、麻織物の織り目の荒い布は「荒妙あらたえ」と呼ばれ、三重県松阪市の神服織機殿神社かんはとりはたどのじんじゃ神麻続機殿神社かんおみはたどのじんじゃで、それぞれ奉織されるのだ。5月と10月の初旬には、境内に機織りの音が響いているという。
古式ゆかしい雰囲気を肌で感じたくて、両機殿神社を参拝してきたよ!

神衣祭かむみそのまつり」は『皇太神宮儀式帳(延暦二十三年(804))』四月例条に、
以十四日、神服織、神麻続神部等造奉太神御服供奉時〈尓〉、玉串行事。太神宮司、并祢宜宇治内人等〈加〉行事〈波〉、二月月次駅使告刀〈与〉同。但神服織女八人、神麻続織女八人、已上女人〈波〉明衣著、皆悉玉串給、即行列参入。即宮司常例告刀申畢〈弖〉、即持参入東宝殿奉上。罷出訖就座〈弖〉拝奉、二月行事同。荒祭宮御衣奉行事、二月駅使時〈乃〉行事〈与〉同。
『延喜式(延長五年(927))』「伊勢大神宮式」四月九月神衣祭条に、
右和妙衣者服部氏、荒妙衣者麻続氏、各自潔斎、始従祭月一日織造、至十四日供祭。其儀、太神宮司、祢宜、内人等率服織女八人、並著明衣、各執玉串、陣列御衣之後、入太神宮司宣祝詞、訖共再拝両段、短拍手両段、膝退再拝両段、短拍手両段一拝、訖退出。即詣荒祭宮、供御衣如太神宮儀。但再拝両段、短拍手両段退出。
などと記されていて、その詳細が分かる。
「和妙」の衣は服部はとり(服織)氏、「荒妙」の衣は麻続おみ氏が織り、祭の月の1日から織り始め、14日に内宮と荒祭宮に奉献するという手順だ。祭儀では、大神宮司や祢宜ねぎらが服織女はとりめを率いて整列し、祝詞を奏上した後に礼拝する、と細かく記録されている。

また、麻続氏は伊勢神宮の成立で述べたように『日本書紀』にも名を残す古代からの有力氏族で、『続日本紀』では服部氏も加わり、両氏が歴史に登場する。
『続日本紀』文武天皇二年(698)九月戊午朔条には、
以無冠麻続連豊足為氏上、無冠大贄為助。進広肆服部連佐射為氏上、無冠功子為助。
麻続連豊足おみのむらじとよたり」や「服部連佐射はとりのむらじさい」が氏上うじのかみ(首長)として任命されたことが記されており、「神衣祭」が重んじられるにつれて、その奉仕にあたる氏族の威信も高まっていったことが分かる。さらに『延喜式』「伊勢大神宮式」神戸条には、
……神服織、神麻続各五十人。輸調免庸。
服部(服織)・麻続それぞれ50人の神戸(神事に奉仕する人々)が割り当てられており、「神衣」を織る作業の重要性と両氏の存在感の大きさがうかがえる。
ここで確認しておきたいのは、「神衣」の奉納自体は他の祭祀で他の氏族からも行われていたけど、「神衣祭」の「神衣」だけは服部・麻続の神戸に限られていたことだ。天武・持統朝に伊勢神宮の祭祀機構が再編され、荒木田氏や度会氏が内宮・外宮の神主を世襲するようになっても、服部・麻続の両氏は「神衣祭」の主宰者として独自性を保ち続けたと考えられる。

次に興味深いのは、「神衣祭」は内宮固有の祭祀であり、外宮には存在しないこと。
現在の伊勢神宮で最も由緒深い三節祭(神嘗祭と6月・12月の月次祭)よりも、かつては「神衣祭」こそが本祭だった可能性がある。『令義解(天長十年(833))』に、
神嘗祭〈謂、神衣祭日、便即祭之。〉
「神衣祭」の日には神嘗祭も続けて行われる、とあり、「神衣祭」が中心的な祭典だったことを示唆している(現在は別の日程に変更されている)。
式年遷宮の記録にも、「神衣祭」の関連がみられる。式年遷宮は伊勢神宮最大のお祭り。『皇太神宮儀式帳』皇太神御形新宮遷奉時儀式行事条によれば、祭日は「九月十四日」から「十六日」とされ、「神衣祭」と重なる日程になっている。
新宮遷奉御装束用物事条には、
宝殿物十九種
金銅たたり二基。御鏡二面。麻笥をけ二合。加世比かせひ二枚。……
とあり、『延喜式』「伊勢大神宮式」にも、
神宝二十一種
金銅多多利たたり二基。金銅麻笥をけ二合。金銅賀世比かせひ二枚。……
とある。「たたり」は糸がもつれないように繰るための道具、「麻笥おけ」は紡いだ麻糸を入れる容器、「かせい」は紡いだ糸をかけて巻き取る道具。新調する神宝の筆頭に、機織り道具が挙げられているのだ。
式年遷宮は「神衣祭」を大規模にしたもので、その本質は同じであることを物語っているのかもしれない。これについては記事を改めて詳述しようと思う。

「神衣祭」の起源には神話も絡んでいる。『古事記』では、アマテラスが小屋で「神衣」を織らせていたところ、スサノオが屋根に穴を開けて馬を投げ込み、服織女はたおりめが驚いてケガをして死ぬ、という話がある。
『日本書紀』では、ワカヒルメやアマテラス自身が「神衣」を織っている場面が描かれる。また、ツクヨミに殺されたウケモチの体からかいこまゆが生まれ、アマテラスが繭を口に含み、そこから糸を引き出した、という養蚕の起源を示す神話もある。「神衣」の機織りに用いたのが養蚕の絹糸だったかは定かではないけど、その可能性も考えられる。

さらに『皇太神宮儀式帳』によれば、アマテラスと「同殿坐神、二柱」が祀られており、
坐右方、称万幡豊秋津姫命也。此皇孫之母。
そのうち一柱が「万幡豊秋津姫ヨロズハタトヨアキツヒメ命」だという。『古事記』ではほぼ同名の「万幡豊秋津師比売ヨロズハタトヨアキツシヒメ命」として登場し、『日本書紀』では「栲幡千千姫タクハタチヂヒメ」や「万幡豊秋津媛命」などと、表記のバリエーションは多いが、共通する要素は明確だ。「幡」は織った布や機織りの道具を指し、「万幡」は多数の布、「栲幡」はカジノキなどの繊維で織った布を意味する。タカミムスヒの娘であるこの女神は、機織りの女神と考えられる。便宜上ここではタクハタチヂヒメと呼ぶ。
タクハタチヂヒメはアマテラスの子オシホミミと結婚し、ニニギを産むため、皇孫ニニギの母として内宮の相殿神に祀られる。しかし、アマテラスとの関係は義理でしかなく、最高神と並んで正宮に祀られる根拠としてはやや弱い印象もある。
それでも、タクハタチヂヒメが機織りの女神であるなら、「神衣」を織る神であっても不思議ではない。兄のオモイカネが、タカミムスヒではなくアマテラスとの関わりが強いことも示唆的だ。ワカヒルメがアマテラスの分身とされるなら、タクハタチヂヒメもアマテラスの分身と考えてしまっても面白い。
そう考えると、タクハタチヂヒメは麻続氏や服部氏の氏神であった可能性も想像できる。アマテラスの分身であり、かつ伊勢神宮の本祭だった「神衣祭」を主宰する氏族の氏神であればこそ、相殿神として鎮座する意義にも納得がいく。

考察の最後に、神服織・神麻続機殿神社の鎮座地について。『神宮雑例集じんぐうぞうれいしゅう(承元四年(1210)以前)』神服麻続両機殿条によれば、
神服機殿〈在多気郡流田郷服村〉
麻続機殿〈在同郡井手郷〉
右両機殿皇太神宮御鎮座之当初建立。而麻続殿承暦三年被下宣旨移造之〈見改宮地部〉
両機殿は伊勢神宮創建当初に建立され、麻続殿は、承暦三年(1079)に宣旨(天皇の命令)で移築されたと記録されている。現在の神服織機殿神社は『和名類聚抄』のいう「多気郡流田郷」にあり、神麻続機殿神社も同じく現在地に移ったと考えられる。
たとえ場所が変わっても、「和妙」と「荒妙」に託された祈りは、今も息づき、人の手から手へと受け継がれている。

さて、ひとしきり考察が長くなったけど、ようやく旅の話に移ろう。
今回も仕事から帰宅したら出発することにした。山陽道から、中国道、名神、新名神、東名阪、そして伊勢道へとひた走り、これまた前回と同じくジャストイン松阪駅前に宿泊。前の教訓を活かしてツインルームを予約したら、エレベーターから少し離れた静かな部屋になったお陰で、ぐっすり眠れた。
他にも、一度経験しているから抜かりなく動けた部分がある。近鉄とJRの線路は踏切を通らず跨線橋で越え、夜間走行で汚れた車体は経路に近いガソスタの洗車機で洗った。

最初の目的地は坂本古墳群。坂本古墳公園として整備されているため、駐車場や時計、トイレまで揃っている。

坂本古墳群は、古墳時代の終わりごろに造られたとされる。かつては150を超える古墳が並び「坂本百八塚」と呼ばれたが、今は6基を残すのみ。
その中の坂本1号墳は、前方後方墳という珍しい形をした、この地で最大の古墳だ。発掘では金銅装頭椎大刀こんどうそうかぶつちのたちが見つかり、ヤマト王権とつながりをもつ有力豪族の墓だったことがうかがえる。
さらに、斎宮跡からわずか1kmほどの場所にあり、斎王制度が始まる少し前に築かれたことから、斎宮とも深い縁があったのかもしれない。
こうしたことから、この地は麻続氏の墓所であった可能性が高いのだ。「神衣祭」ゆかりの地として、最初に訪れておきたかったんだよね。

1~3号墳の墳丘は推定復元ながら、前方後方墳の形と大きさを体感できるのは、とても有り難い。
案内板に「お墓なので、のぼらないでください」とあったのが印象的だった。自由に登れる古墳も多いなか、史跡であると同時にお墓として丁寧に扱う自治体の姿勢に感心する。
墳丘が見えない4~6号墳の位置を確かめてから、公園を後にした。

次に神麻続機殿神社へ。神社の北東に「伊勢機織の里」と刻まれた立派な石碑が立ち、その脇には「機殿の由来」を記した案内板まである。地域の誇りを感じる光景だね。

神社の社叢に沿って歩いていくと、赤いヒガンバナが目に入った。陽射しを浴びて額にじんわり汗がにじむけど、季節は少しずつ秋へと移っているんだなぁ。

すぐ鳥居には向かわず、敢えて少し離れた南東側から鎮守の森を遠望する。写真でよく見た構図を、自分の目で確かめてみたかったんだ。

それから鳥居をくぐって境内へ。鳥居の奥が暗くて、まるで異世界への入口みたい。
斎館や織子さんのものと思しき車の横を抜けて参道を進むと、ふっと空が開けた。関係者らしき男性に朝の挨拶をしてから、お参りさせていただいた。

向かって左の小さなお社が神麻続機殿神社。右が荒妙を奉織する八尋殿やひろどの
まず神麻続機殿神社に拝礼する。御祭神は麻続氏の祖神「天八坂彦アメノヤサカヒコ命」と伝わる。瑞垣の中には、正殿の左右に末社が1つずつ建っていた。

境内には他に6つの末社があるので、順に参拝。いずれも御祭神は不詳。

社殿の前に着いたときに機織りの音が聞こえていたけど、いよいよその様子を見学させていただこう。織子さんがはたに向かい、足で踏み木を交互に踏みながら、を左右に走らせてはおさを引き、横糸をきゅっと締めていく。そのたびに、布が少しずつ形を成していく。
トン、シャーッ。トントン、シャーッ。麻を織る時にはこんな音がするんだ。
機織り作業を見ること自体が初めてだから、何もかもが新鮮。どこか神聖な空気を感じ、嫁と二人、その響きをしっかり胸に刻んだ。

そこから北へ2kmほどで神服織機殿神社に着く。こちらも木々がこんもりとしている。ただ、参道の入口がやや西に寄っており、わずかに佇まいが異なる。

樹齢数百年の大楠を見上げつつ参道を歩くと、先ほどとよく似た社殿が現れる。
神職さんにご挨拶してから、左手の神服織機殿神社に参詣。二座お祀りされており、一座は服部氏の祖神「天御桙アメノミホコ命」、一座は奉織工の祖先「天八千々姫アメノヤチヂヒメ」と伝承されている。

境内末社はここも8つ。瑞垣内に2つ、西に2つ、東に4つ。配置まで神麻続機殿神社と似ているけど、東の1社だけ北を向いていた。何か意味があるのかもしれない。ただ、それぞれの御祭神は残念ながら判らない。

今度は和妙を織るさまを拝見する。右手で曳綱を引くと、杼が走板はしりいたの中をシュッと駆け抜ける。走板についている筬を手前に引き寄せ、足で踏み木を交互に踏むたびに、綜絖そうこうが上下に動いて、カチャコン、カチャコンと心地よい音が響く。
絹を織る音と麻を織る音が、こんなにも違うとは思わなかった。飛び杼と手投げ杼という仕組みの差を抜きにしても、素材そのものが奏でる響きにはハッキリとした違いがある。絹の音は高く、麻の音は低い。
音色の美しさを堪能し、心の中で静かにお礼を述べて神域を後にした。

その足で松阪もめん手織りセンターへ。松阪市産業振興センターの1階にあり、松阪もめんの洋服や小物を販売している。館内には、松阪と縁の深い江戸・日本橋のジオラマやパネル展示もあり、地域の歴史と文化を伝えている。

ズラリと並ぶ織機を前にすると、さっき見た神事の情景が重なり、伝統の重みを肌で感じた。

松阪もめんの製品はどれも魅力的で、結局ネクタイを一本購入。値は張るけど、粋で普段使いもできそうだ。店員さんのお礼の言葉が心からのものに思えて、こちらまで嬉しくなった。

かつて盛んに行われていた「神御衣祭」も、応仁の乱のあと途絶えてしまったという。長い時を経て元禄十二年(1699)にようやく再興されたものの、その頃はまだ絹糸を奉るだけだったそうだ。やがて明治三十三年(1900)になると、昔の形に倣って本格的に織物を奉ることが決まり、特別な工場も造られた。そして大正三年(1914)、両機殿神社でようやく和妙・荒妙が一匹ずつ織り上げられ、古の儀式の一端がようやく息を吹き返した。
時代の波に翻弄されながらも、今、こうして神事を目にできたことに、ただただ感謝の思いが湧いてくる。嫁も、「ハルくんに誘われなかったら、こんな体験はできなかった」と言っていて、改めてこの旅の特別さを実感したよ。

【参考文献】
阿部武彦「古代に於ける三輪氏と三輪神」『東海史学 (5)』東海大学史学会,1969年
荒川理恵「アマテラスと西王母」『学習院大学上代文学研究 (26)』学習院大学上代文学研究会,2001年
荒川理恵「『古事記』における養蚕起源神話」『学習院大学上代文学研究 (19)』学習院大学上代文学研究会,1994年
榎村寛之『伊勢神宮と古代王権』筑摩書房,2012年
岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房,1970年
菊池康明「農耕儀式と生活」『古代の地方史 (5)』朝倉書店,1977年
君島久子「蜘蛛の女神」『日中文化研究 (4)』勉誠出版,1993年
熊田亮介「伊勢神宮神衣祭についての基礎的考察」『新潟大学教育学部長岡分校研究紀要 (25)』新潟大学教育学部長岡分校,1980年
神宮司庁『神宮要綱』神宮司庁,1928年
穂積裕昌『伊勢神宮の考古学 増補版』雄山閣,2023年
溝口睦子『王権神話の二元構造』吉川弘文館,2000年
森本哉子「神話における機織りの意味」『学習院大学国語国文学会誌 (43)』学習院大学国語国文学会,2000年

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