本居宣長が生きた学問と商いのまち松阪

2025年10月2日木曜日 13:53
本居宣長もとおりのりながは江戸時代の国学者で、『古事記伝』を著したことで知られる。松阪の商家・小津おづ家に生まれ、医業のかたわら学問に励み、国学を大成させた人物だ。
『古事記伝』は全44巻から成り、執筆には実に35年もの歳月がかかっている。この大著は『古事記』の全編にわたる詳細な注釈と考証を行ったもので、国学の金字塔とされる。
医師を務めながら研究に情熱を傾け、日本古来の精神を明らかにした彼は、『古事記』が大好きで原文まで読み込んだ僕にとって、偉大な“先輩”。僕は研究者ではないけど、その姿勢に敬意と親近感を込めて、宣長先輩と呼んでいる。

本居宣長記念館は、その宣長先輩の業績を顕彰する施設で、三重県松阪市に位置する。館内には、宣長自筆の書や遺品など約16,000点が収蔵されており、年4回テーマを変えて展示されている。
また、隣接する「鈴屋すずのや」は宣長が『古事記伝』などを執筆した書斎で、当時の雰囲気を感じることができるという。

松阪といえば松阪牛が有名だけど、江戸時代には豪商のまちとして名を馳せていたらしい。小粋なストライプ柄で「松阪縞」と呼ばれた松阪木綿が大ヒット。三井や長谷川といった豪商を輩出するようになった。
宣長の曽祖父にあたる小津三郎右衛門おづさぶろうえもん道休も、木綿店を創業した一人。小津清左衛門おづせいざえもん長弘に紙問屋の開業資金として200両を貸せるほど繁盛した(のちに小津清左衛門家は松阪屈指の豪商となる)。
しかし父・小津定利さだとしの代に没落。行く末を案じた母の勧めで、医者を目指すことになったという。こうした背景もあってか、小津から先祖の旧姓である本居に改めたらしい。

ところで、松阪木綿がなぜ特産品として発展したのかといえば、古くからこの地域では紡績業が盛んだったからだ。特に神服織機殿神社・神麻続機殿神社のある地域には、服織部はとりべ麻続部おみべという職業集団が定住していたとみられる。
千年以上の時を超えて、現在でも伊勢神宮の神御衣祭かんみそさいに、機殿で奉織された和妙にぎたえ荒妙あらたえがお供えされる。この技術と伝統の上に松阪の繫栄があるといっても、過言ではないと思う。

さてさて、松阪もめん手織りセンターを出た僕たちは、裏手の伊勢街道へ。通りに入ると、三井家発祥地が目に留まった。三井グループの家祖・三井高利みついたかとしの生家跡地だ。4月放送の「ブラタモリ」でも取り上げていたね。

そのまま歩くと、旧小津清左衛門家に到着。宣長先輩とゆかりのある小津姓の家なので、せっかくだから外観だけでも、と思って寄ってみた。けど思ったより時間がある。どうせなら中も見ていこう。

受付で旧長谷川治郎兵衛家との2館共通入館券を購入し暖簾をくぐると、すぐにガイドさんに声をかけられた。誘われるままに案内をお願いすると、一通りの見どころを丁寧に説明してくださった。

当家の豪商ぶりを象徴するのが、千両箱ならぬ万両箱。青銅製で、土をかぶせておけば火災に遭っても財産が守れるという。

「こういう柄杓、ブラタモリでも紹介していましたよね。タモリは館内までは入ってこなかったけど」と笑うガイドさん。どこか悔しそうにも見えたのは、気のせいだろうか。
柄杓を持ってお伊勢参りをする旅人は、食事などの施しを受けられたそうだ。施しは施行せぎょうといって、神仏の恵みに感謝する行為。当家でも、この巨釜で焚いたおにぎりを振る舞っていたんだろう。

面白かったのが、天窓を開閉する仕組みを実演してくださったこと。江戸時代にこんな仕掛けを考えていたなんて、なんとも粋な商人だよね。

他にも、表座敷から望む坪庭や、各部屋の畳のへり、奥座敷の欄間、茶の間の壁、見世の間の擦り上げ戸など、嫁も僕も意外と関心を持って見て回れた。
天井の低い厨子二階つしにかいは、武士を見下ろさないよう二階建てが禁止されていた時代の工夫で、主に使用人の居室などに使われていたそうだ。「これを知っていると町屋を見方が変わりますよ」と、ガイドさんが嬉しそうに語ってくれた。

次に、松阪大橋の手前で左折し、一本隣の通りへ。こちらも風情ある町並みが続く。

この辺りに寄ったのは、本居宣長旧宅跡地を見たかったからだ。宣長先輩が研究に没頭した場所を訪れるのは、やっぱり感慨深い。
居宅そのものは松阪公園に移築されているので、あとでそちらにも向かおう。

予約時間が近づいてきたので、『和田金』へ。前回仲居さんに教わった通り、単品で「寿き焼」の梅と「あみ焼」の梅を一人前ずつ頼んでシェアすることにした。
「あみ焼」の梅は厳撰ランプ。赤身肉らしい旨味がギュッと詰まっていて、ご飯が進む。
続いて「寿き焼」。こちらはロースの部位で、梅はサーロイン、松はリブロースなのだとか。前回とは違う部位だけあって、味わいもまた違う。
二人の結論は、「寿き焼」のほうが好き。今度は竹と松、梅を食べ比べても楽しそうだ。そう、また行く気満々である。

食事のあと、旧長谷川治郎兵衛家へ。こちらもガイドさんがいらっしゃって、土間にある配置模型を使ってコンパクトに説明してくださった。
嫁が楽しみにしていた回遊式庭園は、良い角度が見つからず少し消化不良。でも、それもまた旅の味。

そして、本居宣長記念館へ。急坂を登った先の駐車場には車が数台停まっていたが、館内は驚くほど静か。あの車は、職員さんたちのものだったんだろうか。

展示室では、『古事記伝』の板木はんぎを前にしてテンションが上がる。反転していても読めるぞ。これは三貴子分治の段だな。

『古事記』の手沢本しゅたくぼんには、付箋や書き込みがびっしり。宣長先輩の熱意が、今も紙の上に息づいているようだ。

鈴が好きだったという宣長先輩は、自身で「柱掛鈴はしらかけすず」を考案し、書斎に掛けていたらしい。ただ、その没後に鈴は散逸し、この展示品は再現品とのこと。

外へ出て、本居宣長旧宅へ。近づくと子どもたちの賑やかな声が聞こえた。記念館の職員さんらしき男性が、十人ほどの小学生に「宣長さん」について話している。先生らしい女性も一緒にいて、課外授業かな。
地域の子どもたちが、地元の偉人について現地で学んでいる姿を見て、なんだか嬉しくなった。

2階の「鈴屋」には上がれないけど、石垣の上から中をのぞける。
あの窓から宣長先輩も外を眺めたのかもしれない。そんな想像は嫁にも響くものがあったようで、二人してしみじみした。

松阪のまちは、あちこちに宣長先輩の面影が感じられた。学問に打ち込んだ人も、商いに励んだ人も、この町でそれぞれの道を貫いたんだなぁ。

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