静かな内宮で感じた式年遷宮と天岩戸の記憶

2025年10月3日金曜日 08:48
伊勢神宮の御祭神・アマテラス大神の神話といえば、天岩戸あまのいわと神話。アマテラスは弟スサノオの乱暴なふるまいに耐えかね、天岩戸に隠れてしまう。すると世界は闇に包まれ、神々が知恵を絞り手を尽くした末に、アマテラスが岩戸を開いて再び光が戻った――いわゆる「天岩戸開き」の物語だね。
一見すると、伊勢神宮の境内には神話の情景を思わせる要素は見いだせない。だけど、お祭りの内容をひもといていくと、天岩戸の面影が今も息づいているように思えるんだよ!

神服織機殿神社・神麻続機殿神社の記事で述べたように、古代においては神衣祭に続いて神嘗祭が催されており、これを大規模に発展させたものが式年遷宮だったのかもしれない。
この式年遷宮で用いられる道具の由来を、天岩戸神話に求める記述が『皇太神宮儀式帳』職掌雑任・山向物忌やまげのものいみ条にみえる。
職掌、太玉串并天八重榊取備供奉。
「職掌は、太玉串ふとたまぐし天八重榊あめのやえさかきを準備すること」とその役目を記したあとに、次のように続く。
此太玉串、並天八重佐加岐乃元発由者、天照坐太神〈乃〉高天原御坐時〈仁〉、素戔烏尊、依種々荒悪行事、天磐戸閉給時〈仁〉、八十万神、会於天安河辺、計其可祷之方時〈仁〉、天香山〈仁〉立〈弖留〉掘真坂樹〈弖〉、上枝懸八咫鏡、中枝懸八尺縵乃曲玉、下枝懸天真麻木綿〈弖〉、種々祈申〈支〉。此今賢木懸木綿、太玉串止号之。以此天〈乃〉八重佐加岐并祢宜〈乃〉捧持太玉串〈仁〉、大中臣隠侍〈弖〉、天津告刀〈乃〉太告刀〈乃〉、厚広事遠多々倍申。玉串発由如件。
「この太玉串および天八重榊の起源は、アマテラス大神が高天原におられたとき、スサノオ尊がさまざまな乱暴で荒々しいふるまいをしたため、アマテラス大神は天岩戸をお閉めになった。その時、八百万やおよろずの神々が天安河原あめのやすのかわらに集まり、どうすれば再び大神をお出ましいただけるかを相談した。その時、天香山あめのかぐやまに生えていた真榊まさかきを掘り取り、上の枝には八咫鏡やたのかがみを、中の枝には八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを、下の枝には天真麻木綿あめのまそゆうを掛けて、さまざまな祈りをささげたのである。これが、現在でも榊の枝に木綿ゆうをつけたものを、太玉串と呼ぶようになった由来である。このことから、天八重榊や祢宜ねぎ(神職)が捧げ持つ太玉串に、大中臣おおなかとみ(祝詞を奏上する神職)がひそかに加わって、天つ祝詞あまつのりと太祝詞ふとのりとの重々しく広大な言葉を奏上し、神を称え申し上げるのである。このように、玉串の起源は以上のような出来事に基づいている。」
とある。

『皇太神宮儀式帳』は平安時代前期に、内宮が朝廷に提出した報告書。なので、過度に誇張した記述は控えられているとみられる。とはいえ、同時代に成立した『太神宮諸雑事記だいじんぐうしょぞうじき』などは、記紀神話を拠り所として権威付けしていてもおかしくない性格の文献ながら、天岩戸神話とヤマトヒメ流離譚以外には神話的要素が見当たらないのは興味深い。
たとえばヤマトタケルがヤマトヒメの加護を受けて東征を果たす伝説など、霊験を語るには格好の題材でありながら、伊勢の文献にはその名すら現れない。内宮の神官が『日本書紀』を読めない環境にあったのか、あるいは読んでも意図的に取り上げなかったのか。いずれにしても、天岩戸神話による玉串の起源は、内宮独自の伝承であったと考えられる。

このことを踏まえ、式年遷宮の次第を記した『皇太神宮儀式帳』皇太神御形新宮遷奉時儀式行事条を見てみると、
即太神宮司太玉串并蘰木綿〈乎〉捧、第三御門〈爾〉候……
「大神宮の宮司が太玉串と蘰木綿かずらゆうを捧げ持ち、第三の御門のところに控えて」などとある。
いよいよ20年に一度、本宮の戸が開かれるにあたっては、
爾時大物忌先参上。手付初。次祢宜参上〈天〉、正殿戸開奉〈天〉、正殿内四角燈油燃〈天〉、御装束具進畢、皆悉罷出。
「その時、大物忌おおものいみがまず参上し、錠に手をかけ始めて、次に祢宜ねぎが参上して、正殿の戸を開け奉り、正殿内の四方に明かりを灯し、御装束を奉納し終えたら、全員退出する。」
遷御は夜に行われるため、暗闇をほのかに照らす灯火は、まるで大神を迎える陽の光のようだ。
さらに、
令幸行時〈爾〉、新宮玉串御門〈仁〉立留〈弖〉、三遍音為〈弖〉発令幸行。至瑞垣御門〈爾〉留〈弖〉、又三遍音為〈弖〉、〈称其音如鶏加初飼。〉……
とあり、「加初飼」について、江戸後期の『大神宮儀式解だいじんぐうぎしきげ』は次のように解釈している。
初は祁の誤なるべし。……鶏の啼くさまするなれば、加気加布かけかふといふべきなり。
すなわち「カケコウ」と読むのだという。
「本宮から新宮にお遷りになる時に、皆新宮の玉串御門に立ち止まり、3回鳴いてから進まれる。瑞垣御門に至ったら再び立ち止まり、また3回鳴いて〈その声は鶏のカケコウという鳴き声に似ている〉」と。
神職が鶏の鳴き声をまねるこの所作は、神話で常世とこよ長鳴鳥ながなきどりを集めて鳴かせた場面を彷彿とさせる。

また『儀式帳』では、大神がお遷りになる場所を「新宮にいみや」と称している。『日本書紀』の天岩戸神話にも「新宮」という語がみえ、神代巻第七段本文には、
復見天照大神当新嘗時、則陰放屎於新宮。
「またアマテラスが新嘗にいなめの祭を行っている時に、(スサノオが)こっそりとその新宮に糞をした。」とある。
同段一書(第二)にも、スサノオが新宮のお席の下に糞をして、知らずに座った日神の体が臭くなったと記されている。
この「新宮」が、毎年秋に新穀を神さまにお供えする新嘗祭のために仮造される宮であったなら、それを20年に一度の造替として発展させたものが式年遷宮である、と考えられるのではないだろうか。
神話ではこの後に神衣を織る場面も描かれ、神嘗祭が神衣祭に続いて行われていたことを思えば、なおさら両者の関係は深い。
さらに登場する神々の多くが伊勢にゆかりの深い神々であることも、この神話が伊勢で語られていた伝承であることを示唆している。

伊勢神宮最大の祭儀の中に、天岩戸神話の世界が重なるとしたら――そんなロマン、たまらないよね!

さて、ここからは旅の話に戻ろう。
翌日、夜も明けきらないうちに行動を開始した僕たちは、5時過ぎに内宮A1駐車場に到着した。けど宇治橋には向かわず、細い三重県道715号を歩いて『赤福』本店へ向かう。
『赤福』本店は、伊勢神宮の開門時刻に合わせて朝5時から営業を始めるのだ。早朝のほの暗いなか、煌々と明かりがともる店舗を見つけると、なんだかホッとする。

「赤福盆」2つを注文して受け取った食券レシートの番号は3番。店内に他のお客さんの姿はもうなかったが、どうやら先客が2組いたらしい。
五十鈴川に面した縁側に腰かけ、作り立ての赤福餅をいただく。お土産用の折箱に入ったものとはまるで別物だ。程よい甘さが、起き抜けの身体に優しく染みわたる。温かいほうじ茶の香ばしさも心地よい。
食べ終わったあと、ガラス越しに赤福餅を作っている様子を少し覗かせてもらった。

お店を出ようとしたとき、朱塗りの竈で焚かれている火に目が留まった。
「先ほどお出ししたほうじ茶は、この竈で沸かした湯を使っているんですよ」と、店員さんが教えてくれる。そう聞くと、一杯のお茶までもがありがたいもののように思えてくる。

ほんのり明るくなってきた空の下、人影まばらなおはらい町通りを歩く。
静まり返った町並みに、早朝ならではの風情が漂う。それにしても、僕らも含めて、みんな早起きだなぁとちょっと笑ってしまう。

今度こそ宇治橋を渡り、内宮へ。
早朝参拝は二度目とあって、気持ちにゆとりがある。写真の枚数も、自然とぐっと減った。

日中とは打って変わって、自分たちの足音と玉砂利を踏む音だけが響く。この静けさの中を歩く時間が、二人とも大好きだ。参道を照らす灯篭の明かりが、さらにその静寂を引き立てている。

五十鈴川で手水を済ませ、瀧祭神をお参りし、正宮にて拝礼。
ところで、第63回式年遷宮はこの5月から始まっている。7月下旬からは、新宮が建てられる東の御敷地みしきちが公開されているそうだ。せっかくなら、その始まりを自分の目で確かめておきたい。
南板垣御門の鳥居を出て東へ進むと、ぽっかりと開けた御敷地と、その奥に佇む覆屋おおいやを拝観できた。撮影はできないのが、ちょっぴり残念。
初めて見るため比較のしようはないけど、その地形に興味を引かれた。思いのほか高低差があり、石垣も見えて、どこか瀧原宮の社殿の立地を彷彿とさせる。

続いて荒祭宮へ。参拝を終え、次の別宮に向かおうとしたところで神職さんとすれ違った。毎朝の神事に向かうのだろう。
昨年とは時間も違うし、狙っていたわけでもないのに、今年もこの光景に出会えるとは不思議な気分だ。
今回は忘れずに由貴御倉ゆきのみくら御酒殿みさかどのにも立ち寄り、風日祈宮にも詣でる。古札納箱に古い御神札を納め、授与所で新しい角祓を授かった。

五十鈴川の両岸には、「二見浦茶屋清渚連」・「光の街」・「三津」・「山田原」などと書かれた幟が並んでいる。神嘗祭が近いから、その関係だろうか。時期を変えて訪れると、いろんな発見があって楽しい。

内宮A1駐車場に戻り、次は外宮第1駐車場へと車を走らせる。
外宮の参道を進むと、内宮と同じように「令和十五年 第六十三回 式年遷宮御敷地しきねんせんぐうみしきち」と記された四角柱看板が立っていた。
昨年まで「古殿地こでんち」と呼ばれていた場所が、「御敷地」に変わる。同じ景色のはずなのに、どこか違って見える。式年遷宮が始まるとは、こういうことなんだろうね。

正宮、多賀宮、土宮、風宮を巡拝。
外宮から内宮へ参るのがならわしとされているけど、今回はそうはいかなかった。さらに言えば、最初に朝熊を訪ねているので、順序はかなり自由なものになってしまっている。
「外宮先祭」という言葉には諸説あるし、限られた時間の旅では、あまり気にしないことにしよう……と、自分に言い聞かせる。

前日に天候の具合で旅程を組み替えたため、この日も臨機応変に瀧原宮へ向かうことにした。緑に囲まれて静かなここは嫁のお気に入りだ。

ところが、ちょうどツアー団体客が到着したところだった。巻き込まれたくなくて、急ぎ足で瀧原宮、瀧原並宮、若宮神社をお参りする。
少し残念ではあったけど、団体さんは社殿の周辺に留まってくれたので、帰りの参道は静かに歩くことができた。
お宮を後にして、嫁と並んでしばらく話をした。特別なことを話したわけじゃないけど、静かな時間が心地よかった。参拝の締めくくりにふさわしい穏やかさだね。

こうして今回の参拝を終えると、改めて伊勢という土地の奥行きを感じる。同じ神宮でも、季節や時間、訪れる順序によってまるで違う表情を見せてくれるのが面白い。
式年遷宮という営みが象徴するように、ここでは変わらぬものと移りゆくものが穏やかに共存している。そんなことを思いながら車に戻り、次の目的地へと向かった。

【参考文献】
岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房,1970年
岡田精司「伊勢神宮の成立をめぐる問題点」『東アジア世界における日本古代史講座 (9)』,1982年
松前健「大嘗祭と記紀神話」『古代伝承と宮廷祭祀』塙書房,1974年

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