三種の神器の剣・草薙剣はなぜ熱田神宮にあるのか

2025年7月19日土曜日 15:03
皇位のしるしとして歴代の天皇が継承する三つの宝物を三種の神器といい、八咫鏡やたのかがみ草薙剣くなさぎのつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを指す。勾玉は皇居にある。鏡の本体は伊勢神宮にあるという。皇祖神アマテラスの御神体なのだから、ある意味当然と思う。だけど、剣の本体が熱田神宮にあることは、不思議だし疑問に思う。天皇の権威の象徴が、なぜ皇族でもない尾張氏おわりうじの氏神となり、今もなお熱田の地にお祀りされているんだろう、と。

この疑問を解くために、まずは『古事記』から草薙剣に関する記事を抜き出してみよう。
  • ・ヤマタノオロチの尾から現れた草薙剣を、スサノオはアマテラスに献上した。
  • ・アマテラスはニニギに勾玉・鏡・草薙剣を賜り、「この鏡は私の御魂として、私を祀るのと同じように祀りなさい」と仰せになった。
  • ・ヤマトタケルは伊勢神宮を参拝し、ヤマトヒメから草薙剣と袋を賜った。
  • ・火に囲まれたヤマトタケルは、草薙剣で草を刈り払い、袋の中にあった火打石で向かい火を着けて、迫ってくる火を退けた。
  • ・ヤマトタケルは草薙剣をミヤズヒメのもとに置いて、伊吹山へ行った。
これらを整理すると、

・ヤマタノオロチ → スサノオ → アマテラス → ニニギ → ? → ヤマトヒメ → ヤマトタケル → ミヤズヒメ

と草薙剣は渡っていったことになる。熱田神宮については触れられていない。それに草薙剣が、いつの間にか伊勢神宮にあるし、皇族とはいえ天皇に無断でヤマトヒメがヤマトタケルに授けてもいいのかという、新たな疑問が生まれる。

『日本書紀』は大筋としては同じだけど、違いや『古事記』には無い記事もあるので、差分を挙げていこう。
  • ・草薙剣のもとの名は天叢雲剣あまのむらくものつるぎで、ヤマトタケルに至って草薙剣と改名したという一説がある。
  • ・神代巻の一書に、草薙剣は今、尾張国の吾湯市あゆち村にあり、熱田の祝部はふりが祀っている神とある。景行巻にも、草薙剣が尾張国の年魚市あゆち郡の熱田社にあると記されている。
  • ・アマテラスがニニギに勾玉・鏡・草薙剣を賜る話が、本文ではなく一書。
  • ・火に囲まれたヤマトタケルは、火打石で向かい火を着けるが、草薙剣で草を刈り払わない。一説として、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払ったので、草薙剣と名づけたとある。
  • ・天智巻に、道行どうぎょうという僧が草薙剣を盗んで新羅に逃げようとしたが、途中で風雨に遭って道に迷い、また戻ったとある。
  • ・天武巻に、天皇の病を占うと草薙剣の祟りと出たので、即日、尾張国の熱田社に送り安置したとある。
天智天皇の時代、どこからと明記されていないものの、草薙剣が盗まれそうになったという。時代が下る文献ながら、早くとも平安末期成立とみられる『尾張国熱田太神宮縁記』には、「神社から剣を取った」とある。宮中よりずっと警備は手薄だろうし、何より神宮側の責任で書かれていることからして、事実と認めて良いと思われる。
また、それがどこに戻されたかも明確でない。その後、天武天皇を祟ったことからすれば、宮中に収められたと考えるのが自然だろうね。壬申の乱を経て、近江大津宮から飛鳥浄御原宮へ。天武天皇方に加勢した尾張氏が、乱後に剣の返却を要求し、それが祟りとしても現れたのかもしれない。
草薙剣が熱田神宮に奉斎される経緯は、先の『尾張国熱田太神宮縁記』に詳しい。草薙剣を託されたミヤズヒメは、ヤマトタケルの死後もそれを守り続けたが、年を重ねたのち神意を占って社地を定め、その地に社を建てて剣を移し奉り、熱田社と名づけたという。
これを合わせて整理すると、

・ミヤズヒメ → 熱田神宮 → (盗難) → 近江大津宮 → 飛鳥浄御原宮 → 熱田神宮

となる。
ただ引っかかるのが、天智巻の記事は大切な神器が盗まれたにしてはあっさりとした書きぶりだし、天武巻の記事は祟りと判明するやすぐさま熱田神宮に送っており、これまた皇位のシンボルに対する扱いとは思えないこと。
要するに草薙剣は本来、神器ではなかったんじゃあないか。この考えを裏付ける記事が、持統巻にある。
忌部宿祢色夫知奉上神璽剣鏡於皇后。皇后即天皇位。
忌部宿祢いんべのすくねが神璽の剣・鏡を皇后に奉った。皇后は天皇に即位した。」
との持統天皇即位の儀式に、剣と鏡が用いられている。草薙剣は熱田神宮にすでに返したのだから、この儀式の剣は明らかに別物。草薙剣は皇位のあかしではないということになる。

天智朝か天武朝か、あるいは両方か、草薙剣を入手した王権は、これを神器に加えようと企んだんじゃないか。少なくとも天武天皇の即位には実際に用いたんじゃないか。草薙剣の別名を天叢雲剣としているけど、これらが別々の伝承と考えれば、神器の剣は天叢雲剣であって、これを草薙剣と同一視する神話が創られたんじゃないか。ところが、この企みが祟りによって挫折したため、草薙剣は熱田神宮に返された。
だとすれば、草薙剣が神器であるという伝承だけが残った。あるいは一度きりとはいえ神器として扱われたからウソとは言い切れず、どちらにしても熱田神宮にとっては栄誉で否定する必要が無かった。これが最初の疑問に対する答えになるだろうね。
こうなると、途中で生まれた疑問も自然と解消する。神器の剣と草薙剣が別なら、ニニギまでが神器の剣で、ヤマトヒメからが草薙剣ということ。今は熱田神宮にある理由を説明するため、ヤマトタケルは尾張氏の先祖ミヤズヒメの所に草薙剣を残して行かなければならなかったということ。
ニニギからヤマトヒメへ、言い換えれば宮中から伊勢神宮へ移ったことは『記』『紀』にみえず、伊勢神宮や熱田神宮の御神体であるはずの鏡や剣が、天皇の即位儀礼に用いられる矛盾。平安初期に斎部広成いんべのひろなりが著した『古語拾遺』の、「更に鏡・剣を鋳造した」とか「アマテラスと草薙剣を宮中から移した」とかいう記事は、これらのつじつま合わせを行ったものといえるね。

草薙剣が最初から草薙剣だったとすると、その名の意味は何だろう。
『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』など上代の文献において、草を刈る表現は「カル・キル・ハラフ・コル」で、「ナギ(ナグ)」がまったく用いられていないという。日本語の「ナギ(ナグ)」に元々草を刈る意があるのなら、一般の用例に当然現れるべきなのに、それが無い。つまり、「草を薙ぎ払ったので草薙剣と名づけた」とする命名由来は、実は強引なこじつけに過ぎないわけだ。
「クサ」は「くさし」の語幹で獰猛の意、「ナギ」は蛇の方言とされ、「クサナギノツルギ」は獰猛な蛇から出た剣を意味するという説が有力。石上神宮の刀剣信仰を語るうえで、剣と蛇を同一視する古代の観念を取り上げたけど、そのことからも納得できる見解だよね。

草薙剣がなぜ熱田神宮にあるのかは、おおよそ筋道が通せた。だけどまだ判らないことがある。ヤマトタケルを介してヤマトヒメからミヤズヒメへ、伊勢神宮から熱田神宮へ移されたことの意義だ。これらの伝承が史実とは考えられないものの、伊勢神宮と草薙剣、あるいは伊勢神宮と熱田神宮に、何らかの関係があるんだろうか。
気になることに、「クサナギ」を冠する神社が伊勢神宮にある。草奈伎くさなぎ神社といって、ただし内宮ではなく外宮の摂社。『止由気宮儀式帳』にも「草奈支神社」とある。
『豊受太神宮禰宜補任次第』の大若子命オオワクゴのみことの条に、
越国荒振凶賊阿彦在〈天〉不従皇化。取平〈仁〉罷〈止〉詔〈天〉、標剣賜遺〈久〉。即幡上罷行取平〈天〉返事白時、天皇歓給〈天〉、大幡主名加給〈支〉。
こしの国に荒ぶる賊・阿彦あひこがいて、天皇の教えに従おうとしなかった。そこで、彼を討伐するよう命じ、しるしとしての剣を授けた。そこではたを立てて出発し、平定して帰還し、その結果を奏上した。天皇は大変お喜びになり、大幡主おおはたぬしという名を賜った。」
とある。外宮神主である度会氏の祖先・大若子命が、垂仁天皇から「標剣」を賜ったという。草奈伎神社の御祭神は御剣仗神みしるしのつるぎのかみとされ、この「標剣」をお祀りしたものと考えられる。
この神社がアマテラスを奉る内宮ではなく、外宮に属している点に留意したいし、この伝承にヤマトタケルの名が一切現れないことも興味深い。「クサナギノツルギ」は普通名詞であるとする説もあり、少なくとも草奈伎神社の御剣と、熱田神宮の神剣は無縁ということだろうね。この謎は、機会を改めて深堀りしてみたい。

さてさて、なごやめしで楽しく飲んだ日の翌朝は、熱田神宮参詣。三連休初日とはいえ、8時過ぎとあって参拝者第一駐車場にすんなり停められた。今回は真っ直ぐ本宮に向かい、拝礼。
前日の不安定な天気とは打って変わって、良く晴れている。だから暑い。

境内には別宮や摂社など20数社があるけど、それ以外にも寄りたい所がある。正参道を南へ進み、東参道に少しだけ入ったところで小径に折れる。すると、ひっそりと門が佇んでいる。

清雪門せいせつもん。もとは本宮の北門と伝えられ、かつては八剣宮の東門として建っていたが、現在はこの東の方角へ移されている。草薙剣を盗もうと僧侶がこの門を通った出来事以来、不吉の門とされ、何百年もの間「不開門あかずのもん」として閉ざされたまま今日に至っているとか。
ある意味、草薙剣を語るうえで外せない場所だなと思って。境内社を巡るにも通る必要のない道にあるから、参拝客の姿はほとんど見当たらない。

正門を出て別宮の八剣宮をお参りしたら、一度境外へ。宮の渡し跡を見学してから、再度正門をくぐる。

強烈な陽射しの下を日傘差しながら歩いたあとだと、社叢の陰のありがたみが良く分かる。こんなに涼しいんだ。

向かったのは「剣の宝庫 草薙館くさなぎかん」。熱田神宮は、古くから武士や刀鍛冶たちの信仰を集め、多くの日本刀が奉納されてきた。国宝や重要文化財に指定された刀剣も20振りにのぼる。そうした貴重な刀剣を公開するために、2021年に開館した神社博物館だ。太郎太刀・次郎太刀の号でも知られる「真柄まがらの大太刀」を常時展示しているのが、魅力の一つ。
入口にちょっとした列ができていたので並ぶ。宝物館との共通拝観料もあったけど、草薙館のみを選んだ。
展示室に入ると、蜘蛛切丸や痣丸といった刀がズラリ。しかも、一振りひと振りが宙に浮かぶようなケースで、なんとも神秘的かつ荘厳。伝統工芸品としての美しさだけでなく、神聖な奉納品としての尊さも伝わってくる。
「真柄の大太刀」二口はやはり別格。次郎太刀こと「大太刀 銘 千代鶴国安ちよづるくにやす」は京博2018年秋の特別展「京のかたな」で一度拝見したことがあったので、久しぶりの再会だ。太郎太刀こと「大太刀 銘 末之青江すえのあおえ」と並んでの展示は、やはり嬉しいし圧巻!
といって刀身に彫られた細長い溝に、朱漆しゅうるしが塗られている。樋は「血流し」とも呼ばれる汚れやすい部位。手入れの手間を省くために朱漆を塗ることがあったとか。これら大太刀は常人にはとても扱えそうにない大きさだけど、刃こぼれの跡などがあり、あくまで実戦用だったというから驚く。樋の朱漆もその証拠といえそう。

続いて隣室の体験コーナーへ。ここでは実物の日本刀に触れることができる。しかも真剣。脇差と刀(打刀)をそれぞれ構えてみた。部活で剣道をやっていた頃の癖が出て、気づいたら左足を引いていた。意外と軽い。

しかし次郎太刀はそうもいかない。こしらえ総長267cm、総重量約8kgと実サイズの複製で、重たい!持ち上げるのがやっと。横には太郎太刀の複製もあったけど、結果は同じ。試す前から分かっていたけど、やっぱり実戦なんて無理無理。真柄一族って凄いな。
嫁ももちろん挑戦。あまりの重たさに、「は?」って表情をしていたのが面白可愛かった。

ヤマトタケル、尾張氏、あるいは縁起など、草薙剣について勉強してから参拝できて、ホント良かった。例によって身も蓋もない説に行き当たりがちだけど、それでも神話が、神社が好きなんだよねぇ。

【参考文献】
『日本古典文学大系 日本書紀 (上)』岩波書店,1967年
Halla Istva'n,毛利正守「『草ナギ剣』について」『古代文学論集』桜楓社,1974年
筑紫申真『アマテラスの誕生』講談社,2002年
津田左右吉『神代史の研究』岩波書店,1924年
宮良当壮「虹の語学的研究」『南島叢考』一誠社,1934年
吉井巌「ヤマトタケル物語形成に関する一試案」『天皇の系譜と神話』塙書房,1967年
吉井巌『ヤマトタケル』学生社,1977年
吉田研司「熱田社成立の基礎的考察」『古代天皇制と社会構造』校倉書房,1980年
吉田研司「熱田社と草薙剣からみた三種の神器成立の一側面」『律令制と古代社会』東京堂出版,1984年

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