五稜郭の歴史と土方歳三の最期
2025年4月11日金曜日
16:27

にわか知識しかない佐幕派だけど、幕末維新のロマンあふれる当地へ行ってきた!
嘉永六年(1853)、アメリカ海軍軍人マシュー・ペリー率いる艦隊が浦賀沖に現れ、開国を要求。いわゆる黒船来航だ。翌年には日米和親条約が結ばれ、下田と箱館の2港を開港することとなった。ペリー提督が、帰国後アメリカ政府の要請により編纂した記録『日本遠征記(1856)』の翻訳によれば、
日本人が汐首岬と呼び、提督がその友人であるニューヨークのエドムンド・アンド・ジョージ・ブルントの名になぞらへてブルント岬と名付けた岬に近づくと、奥地とトリーティ岬とを結びつけてゐる地峡部の彼方に、先日急派された中の三艦が函館港內に安らかに投錨してゐるのを認めることができた。汽船が近づくと、士官達の乗込んだボートが先日発した提督の指令に従つて、パウアタン号とミシシッピ号とを案内して入港せしめる手筈を整へて、艦隊から出て来た。両艦は遂に五月十七日の朝九時に投錨した。とあり、日本側の記録(逐一引用はしないけど)にも残っているように、嘉永七年四月二十一日(1854/05/17)、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号とミシシッピ号が箱館港に渡来。視察と測量を行うべく、松前藩と交渉するためだった。
日米和親条約附録では、
第十一条 此度箱館の境、日本里数五里を定置き、其地にての作法は、此条約第一ヶ条に記す処の規則に倣ふべし。と、箱館における遊歩区域が5里四方と定められた。この範囲には箱館山をも含み、山に登られれば、市街地はもちろん箱館奉行所などの重要施設も丸裸にされる事態。この由々しき課題への最終結論として、五稜郭の築造に至ることとなる。
箱館奉行が安政二年(1855)十二月二日に老中・
異人共陸遊歩之地にな、御台場は勿論、奉行居所御手薄と候へば、自然嘲笑をも可受……などとあり、この「外構」は万一の場合に備え、役人の家族から土民に至るまでが立てこもれる根城として構想されていた。しかし財政上の問題から、当初の方針より大きく後退。とはいえ、開港後に入港する外国人に対応するなかで、軍事的脅威は薄いと箱館奉行が認識したからではないかという。なお、
それでも国威を示すためか、計画に着手。箱館奉行が安政三年(1856)五月二十六日に老中に提出した予算書「箱館表定式臨時御入用辻之儀ニ付相伺候書付」には、
一 金九万八千両 御役所構、五稜郭惣堀御入用とあり、ここから「五稜郭」という名称が関係記録に登場しだす。『函館区史(明治四十四年(1911)函館区役所)』に、
亀田役所即ち五稜郭とあるように、五稜郭の設計は蘭学者・
~中略~
安政三年十一月十日組頭河津三郞太郞、調役並鈴木孫四郞、下役元〆山口顕之進、諸術教授役武田斐三郞等を台場並に亀田役所土塁普請掛となす〈此後係員に変更あり〉其設計は何れも斐三郞が一部の和蘭築城書により、苦心研究して成せるものなり。
ところが慶応三年(1867)、大政奉還により幕府は崩壊。明治元年(1868)には、箱館奉行から明治政府へ引継ぎが行われた。
江戸城開城に納得しない旧幕臣たちからは、江戸を脱走する者が続出。新政府と軍艦を折半して品川沖にあった
脱走した旧幕府軍は、対外的配慮から開港場の箱館を避け、北の
その後、態勢を整えた新政府軍が反転攻勢。明治二年五月十一日(1869/06/20)、総攻撃を開始する。この日の戦闘で、土方歳三が死亡。当時の記録は(信頼性の高低はともかく)非常に多いものの、その戦死の時刻・場所・死因などについての明確な史料は、一切現存しない。
旧幕府軍の陸軍奉行だった
十一日、本日は官軍海陸両道より五稜郭とあり、また明治政府の機関紙『太政官日誌』明治二年第七十七号には、並 に箱館を攻撃し来 る事前日より分明なれば~中略~急遽之 を防げども己 に皆上陸し、山上に昇りし上なれば衆寡敵せず敗走して、新選組は弁天砲台に入り、伝習士官隊は連戦して一本木関門の方に退きたり。夫 より津軽陣屋にありし額兵隊、見国隊を出して之 を防ぎ、烈戦二、三に及びたる由 。此時 土方歲三流丸 に中 りて戦死せり。
(五月)十一日~中略~鶴岡町辺ニテ銃声相聞ヘ候間、直ニ八番隊進撃、各藩ト合兵、一本木柵外迄凡三丁程追撃。六番隊ハ七面山腹ニ予備仕リ、御指揮ニ依テ、一本木関門ヘ、八番隊ト合併。厳備仕候內、昼十一字頃賊再ビ守返シ、暫時奮戦。賊兵又々敗走シ、元津軽陣屋ヘ引退候。とあり、「分捕」品の中に「馬 二匹」が含まれる。旧幕府軍の指揮官の記録と新政府の官報に一致するので、一本木関門あたりで激しい戦いがあったということだろう。その後の記録に土方がぱったり出てこなくなることから、戦死したことも確からしい。
旧幕府方の
土方公は一本木にて、松平公の命にて下馬して進まんとせしに、飛丸にとあることを踏まえると、『太政官日誌』で六・八番隊が奪ったという馬のうち一匹は、土方が乗っていたものだろうね。殪 る。
遺体の埋葬地すら不詳と、物的証拠が何一つ無いけど、状況証拠を積み上げていくと、土方歳三最期の伝承地はおおよそ合っているんじゃないかな。
明治二年五月十八日(1869/06/27)、旧幕府軍が降伏。五稜郭が明け渡され、箱館戦争は終結した。
土方歳三の最期を想うとき、印象に残ったエピソードがある。新鮮組の支援者だった
前此武揚等之上書独義豊愀然曰吾所以不死於流山者聊望有為焉也今乃如此朝議儻処寛典吾将何面目以見昌宜於地下我則有一死而已矣聞者感奮為涙下云とある。意訳しよう。これより前、武揚らが政府に嘆願書を提出したとき、ただ独り、
盟友近藤勇の処刑を知ったあとも戦い続け、箱館へと向かった彼は、ただ死に場所を求めていたのだ。この逸話が本当なら、なんて悲しくも雄々しい人なんだ、とそのカッコよさにしびれるしかない。

1泊2日で十分とはいえ、可能な限り活動時間を長く確保したい。それで検討した結果、伊丹から函館の往路、青森から伊丹の復路ともに、JALを選択。国内線だとANAとスカイマークしか乗ったことがなかったから、JALは初めてだ。今まで機会がなかったのが、不思議なくらいではある。
11時発のフライトなら、さすがに前泊は不要。8時に自宅を発って、山陽道と中国道を走り、中国池田ICで下りたら大阪国際空港まではすぐ。駐車場へ向かう途中、検問設置の案内を見て身構えたけどまだ始めていないようで、誘導旗で進むよう合図された。空きを見つけるのにやや苦労しつつ、駐車。そこからターミナルへ歩いたのだけど、ものすごい数の警察官がウロウロしていた。旅行客より圧倒的に多い。万博に関係するのかなと思った僕と、VIPが来るんじゃないかと言った嫁の二人とも正解で、大阪・関西万博の開会式にご出席なさるため天皇皇后両陛下がお越しになるので、その警備のようだ。
『丸福珈琲店』にて軽く朝食を摂ってから、北ターミナルの搭乗口へ。飛行機の離着陸は向かい風が選ばれる。函館の風向きが東南東なのを確認して、着陸方向を考えたら自分が座る左側の窓からは、五稜郭が見えるはずだ。とスマホのカメラを構えていたら思いのほか近すぎて、翼で手前が隠れてしまった。当てが外れたなぁ。それにしてもJALとANAは、シートの色が黒か青かくらいの違いしかほとんど感じなかったな。定刻より数分遅れで函館到着。

トヨタレンタカー函館空港店にて自家用車と同じ車種を借りて、発進。グレードまで同じだったから笑った。自分の運転で函館を走るのは初めてだけど、前にタクシーから見た景色と雰囲気が重なる。上手く言語化できないんだけど、道に函館っぽさを感じるんだよ。嫁も同感してくれたから、なんか伝わるものがあるんじゃないかと。

まずは上から見下ろしてみよう。予めコンビニで購入しておいたチケットを提示し、エレベーターガールの乗務するエレベーターにて展望2階へ。

五稜郭といえば桜の季節が特に有名だけど、今は葉が無く枝だけの状態だから、全体として茶色っぽい。北のほうには、函館市最高峰の袴腰岳から烏帽子岳にかけてだろうか、冠雪している山が見えた。4月だけど、まだ冬みたい。と雪が珍しい関西人としては感じてしまう。




それから展望売店で『五稜郭歴史回廊ガイド』Vol.1と2を買った。1階売店には見当たらなかったから、無事入手できて良かった。
下りエレベーターは2階まで。ここで休憩するつもりはないので、さっさと階段で1階へ。






奥にある白壁の土蔵は、五稜郭築造時から唯一現存する建物。こうして、往時をしのぶものが並べられているのは良いね。
その横の

内部も見学できるのだけど、こちらはパス。時間が無いことに加え、そこまで建物自体に興味が持てなかったので。



一本木関門があったとされる場所は、ここから少し北西の海岸町・若松町交差点あたり。歴史のことだから、そこは案内に補足が欲しいな。とはいえ、ここに添えてあるとグッとくるものがあるのも確か。

僕らが立ち去ろうとしたところ、一組の男女が現れた。平日でもお仲間とすれ違うほど惹きつける、やはり凄いお人だ。
土方歳三はふんわり好きだったけど、今回ちゃんと調べてゆかりの地を尋ね歩いて、はっきり好きになった。五稜郭は、五稜郭そのものの歴史が面白い。嫁もなんだかんだ楽しんでくれていたし、滞在時間は短くても行って良かったよ。
【参考文献】
土屋喬雄,玉城肇 共訳『ペルリ提督日本遠征記 (4)』岩波書店,1955年
東京大学史料編纂所『大日本古文書 幕末外国関係文書 (13)』東京大学,1920年
東京大学史料編纂所『大日本古文書 幕末外国関係文書 (14)』東京大学,1922年
函館市史編さん室『函館市史 通説編 (2)』函館市,1990年
土屋喬雄,玉城肇 共訳『ペルリ提督日本遠征記 (4)』岩波書店,1955年
東京大学史料編纂所『大日本古文書 幕末外国関係文書 (13)』東京大学,1920年
東京大学史料編纂所『大日本古文書 幕末外国関係文書 (14)』東京大学,1922年
函館市史編さん室『函館市史 通説編 (2)』函館市,1990年