元町公園の地は箱館の要

2025年4月11日金曜日 17:52
元町公園は、北海道函館市にある公園。基坂もといざかの突き当たりに位置する。「はこだて」の地名由来の地であり、長い歴史の中で函館を象徴する場所でもある。洋風の名建築が見られるというだけでも訪れる価値のある場所だけど、歴史がギュッと詰まったとても面白い所だった!

そもそも函館を擁する北海道南部の記録は、なんと『日本書紀』から存在する。
斉明天皇四年夏四月、阿陪臣〈闕名。〉率船師一百八十艘、伐蝦夷。~中略~遂於有間浜、召聚渡島蝦夷等、大饗而帰。
~中略~
是歳、越国守阿部引田臣比羅夫、粛慎討、献生羆二・羆皮七十枚。
斉明天皇四年(658)四月、阿陪臣あべのおみ〈名を欠いている〉が船軍180艘を率いて、蝦夷えみしを討伐した。遂に有間浜ありまのはまに、渡島わたりのしまの 蝦夷どもを召し集めて、大いにもてなして帰らせた。この年、越国守こしのくにのかみ阿部引田臣比羅夫あべのひけたのおみひらふ粛慎みしはせのくにを討伐して、生羆しくま(ヒグマ)2つ・しくまの皮70枚を献上した。とある。
四月条を阿陪氏の家記、是歳条を政府記録とみて、飛鳥時代の将軍・阿倍比羅夫あべのひらふによる蝦夷討伐と解釈されている。ここにみえる「渡島わたりのしま」が北海道南部を指すとされる。なお、新井白石や本居宣長などの頃から渡島=北海道は唱えられていたけど、津軽の北は北海道であるという単純な理解に過ぎず、津田左右吉らの史料批判により本州北部説が戦後の通説となってきた。それが近年の考古学成果を背景に渡島=北海道説が復活、現在の通説となったという。

函館の地名由来で最も有名なものは、室町時代の逸話から来ている。
現存最古の北海道の歴史文献『新羅之記録しんらのきろく』は、寛永二十年(1643)に幕命により編纂された松前家系図を松前景広まつまえかげひろが後補したもの。これに、
伊駒政季朝臣者十三之湊盛季之舎弟安東四郎道貞之息男潮潟四郎重季之嫡男也。十三之湊破滅之節若冠、而被生虜糠部之八戸、而改名号安東太政季、知行田名部継家督。而蠣崎武田若狭守信広朝臣、相原周防守政胤、河野加賀右衛門尉越智政通、以計略同(享徳)三年八月二十八日従大畑出船渡狄島也。
~中略~
箱館之河野加賀守政通
~中略~
宇須岸之館主河野加賀弥二郎右衛門尉季通
とあり、また、アイヌ民族誌『蝦夷島奇観えぞがしまきかん(寛政十二年(1800)村上島之允むらかみしまのじょう秦檍麿はたのあわきまろ))』に、
享禄年間河野加賀左衛門なる者ありて此地に来り始てウスケシ山址に塁を築く。七居浜より是を望むに其形箱の如し。故に土人是を名づけて箱館といいしより後いつとなく地名となりぬ。
とある。
これらを要約すると、津軽の武将・安東盛季あんどうもりすえ南部なんぶ氏に破れて本拠の十三湊とさみなとを放棄した時、安東氏傍流の安東政季あんどうまさすえはいまだ弱年であったので、南部氏に捕われ八戸に人質となっていた。それがその後成人して田名部の領地を与えられ家督を継いでいたが、享徳三年(1454)、武田信広たけだのぶひろ相原政胤あいはらまさたね河野政通こうのまさみちらが、ひそかに計って政季を奉じ、南部大畑から蝦夷地へ渡航した。このうち河野政通は、宇須岸(ウスケシ)と呼ばれる地に館を構えた。ウスケシの原語は、アイヌ語で「湾の端」を意味するウショロ・ケシ。七居浜(現在の七重浜ななえはま)から見た政通の館の形が箱のようだったので箱館はこだてと呼ばれ、いつしか地名となった、と言い伝えられている。
ちなみに、「箱館」の字を「函館」に改めたのは明治二年(1869)、開拓使出張所の看板を掲げた時といわれる。

箱館と呼ばれた河野政通の館のあったウスケシの地は、アイヌの蜂起以降歴史の表舞台から姿を消すが、江戸時代に再び隆盛する。松前藩に関する史料の集大成『福山秘府ふくやまひふ(安永九年(1780)松前広長まつまえひろなが)』の寛保元年条に、
是歳、移転亀田邑衛所于函館。
とあり、『蝦夷島奇観』にも、
亀田村に番所を建て近郷を守らしむ。後、延享四年四月此番所を箱館古塁の内に移し造営して亀田番所と号す。〈今、吟味役御役宅。〉
とあるように、松前藩の亀田番所が、名称はそのままにウスケシ館跡地に移された。
寛政十一年(1799)には、東蝦夷地は幕府直轄地とされた。幕府による蝦夷地直轄の状況を詳細に記録した『休明光記きゅうめいこうき(文化四年(1804)羽太正養はぶとまさやす)』によれば、
享和三年春箱館御役宅出来総搆地坪三千三十坪余、建坪六百三十坪余なり。
~中略~
かくて箱館の御役所成就し、井を掘るに及て、海岸に添たる山陰なれば、巌石多くして掘得がたく、ようやくひとつを作り成すといへども、事ゆくべきにあらず。ここにおゐて、調役並富山元十郎殊に心を労し、ところどころを点検し、すなはち箱館山の内より清水の湧出る所を見出し、梘をつたへにこれを引事をなし得たり。
という。享和三年(1803)、箱館奉行所を建築したものの、海岸沿いの山の北側のため岩石が多く、井戸を掘るのが困難だった。そこで幕吏・富山元十郎とみやまもとじゅうろうが所々を探したところ、箱館山中に清泉を発見し、樋を架設して水を引くことができたのだと。
こうして当初は函館山麓にあった箱館奉行所が、黒船来航を契機に五稜郭へ移ったわけだけど、明治に入ってからも開拓使出張所(開拓使函館支庁)、函館県庁、北海道庁函館支庁が置かれ、この地は政治の中心であり続けた。

函館の人気観光地として名高い元町公園は、歴史的に非常に意義深い場所だったんだね。しかも、五稜郭との係わりも密接っていう。点と点が繋がるから、やっぱり歴史は面白い!

さて、土方歳三最期の地碑をあとにした僕らは、函館山の麓にあるホテルへ向かい、チェックイン。ホテルの詳細は別エントリーに譲るとして、元町エリア散策へ。せっかく歩くのだから、異国情緒のある教会群を見ながらが良いだろうと、大三坂から上っていくことにした。カトリック元町教会、函館聖ヨハネ教会、函館ハリストス正教会、それに八幡坂を、懐かしさを覚えつつ通り過ぎる。程なくして元町公園の前に着いた。

まずは、一番見たかった旧函館区公会堂!設計者は函館区技師・小西朝次郎。明治四十三年(1910)竣工の擬洋風建築で、重要文化財。ブルーグレーとビビッドなイエローの外壁が、ド派手なのにむしろ品がある。これはスゴい。
門の前には人だかりができていて、人気の高さを窺わせる。前回僕らがここに立ち寄らなかった理由は単純で、敢えて下調べをしなかったから、これほど有名なスポットすら抜け落ちたという。

屋根が桟瓦葺だったり破風飾りが唐草文様だったり、和洋折衷の意匠がこの独特な佇まいを生んでいるんだろうね。はぁ~、どの角度からでも絵になる。

内部も見学できるので、入館料を払い靴を脱いで館内へ。シャンデリアや随所に施されたレリーフなどに着目しつつ、球技室に大食堂、事務室と1階を回ったら、階段を上がる。この、洋風建築の階段が好きなんだよね。
そうそう、大食堂ではカフェ『十字屋』のコーヒーが頂けるそうなんだけど、閉店が15時半と早い。時間が合えば一服したかったなぁ。

2階の大広間は、ダンスパーティーでも催したのかなと、思わず想像するほど広々とした床が印象的。

バルコニーからは函館港が一望!なんて素敵な景色。オランダのクルーズ船「ノールダム」が停泊しており、その向こうには五稜郭タワーも。
そして、こうも思う。なるほど、軍艦なんて無かった時代には港も町も見渡せるこの場所は、行政機関を置くのに最適だっただろう。しかし火砲搭載の艦船が入港してくるとなると、向こうからも丸見えなわけで、そりゃあ危機感を抱くはずだ。

続いて、団体観光客の横をすり抜けて元町公園へ。旧北海道庁函館支庁庁舎は、北海道庁技師・家田於菟之助いえだおとのすけの設計。明治四十二年(1909)竣工。オパールグリーンの壁とエンタシス風の柱が可愛らしい。
こちらはレストランが入っているのだけど、クローズドで中には入れず。

隣接する赤レンガの建物が、旧開拓使函館支庁書籍庫。設計・施工とも不詳。明治十三年(1880)竣工の、明治四十年(1907)の大火で焼け残った数少ない貴重な建物。

見どころは、小口と長手を交互に並べたフランス積みのレンガ……の刻印。「明治七年 函館製造」などと刻まれている。近づかないと気づけないし、年代を感じさせるものであり、複数パターンがあってなかなか面白い。

背後から説明する声が聞こえてきたので振り返ると、箱館奉行所跡の木碑あたりに団体が屯していた。大半の旅行客がスルーする物で、箱館奉行所で検索しても五稜郭のほうばかりがヒットしてしまうけど、さすがはツアーガイドさん。この地の意味を知ると函館旅行の深みが増す、と僕も思うよ。

簡素な木碑と華やかな洋館の対比が、物悲しいなぁ。歴史好きとしては、目印が立ってくれているだけでも有り難いけど。

公園を出て基坂を少し下ると、ペリー広場。ペリー提督来航記念碑くらいしか見るものがないけど、箱館における激動の幕末を迎える端緒となった出来事を伝える、欠かせないスポットだ。

函館の町を見下ろすように立つペリー提督像。なんとも示唆的な構図だ……などとこの時代の歴史を少々かじったから言えるけど、恥ずかしながら今回予習するまで、ペリーが函館に来ていたことすら知らなかった。だから余計に興味を持ったんだよね。
広場の南には、宇須岸河野館うすけしこうのたて跡の案内板もあった。

五稜郭と、旧函館区公会堂を見るために元町公園へ行こう。そう旅程を決めたのは偶然に過ぎないのだけど、これほどまでに切っても切れない関係にあったとはね。加えて、素晴らしい洋風建築も堪能できる。嫁も僕も、大満足だよ。

【参考文献】
小口雅史「渡嶋再考」『国立歴史民俗博物館研究報告 (84)』国立歴史民俗博物館,2000年
函館市『函館市史 通説編 (1)』函館市,1980年
函館市史編さん室『函館市史 通説編 (2)』函館市,1990年

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