草壁皇子と義淵僧正と岡寺のあじさゐ回廊

2022年6月27日月曜日 13:39

岡寺おかでらは奈良県高市郡明日香村岡にある寺院。岡寺は通称で、正式には龍蓋寺りゅうがいじという。“花の寺”としても知られ、『大和三大観音 あぢさゐ回廊』の開催に合わせ、参詣してきた。なお、他の2か寺は壷阪寺と長谷寺。
また、草壁皇子くさかべのみこ岡宮おかのみやの地に開かれたのが岡寺といわれており、皇子と開祖である義淵僧正ぎえんそうじょうのゆかりも深い。

義淵僧正その人については、『東大寺要録とうだいじようろく』の巻第一・本願章第一に、
(神亀四年)十二月丁丑。勅日。僧正義淵法師、俗姓市往氏也。禅枝早茂、法梁惟隆、扇玄風於四方、照恵炬於三界。加以、自先帝御世、迄于朕代、供奉内裏、無一咎。愆念斯若人、年徳共隆。宜改市往氏、賜岡連姓、伝其兄弟。
と伝えられている。
個人的に重視したいのが、その次の段。「龍蓋寺記云」として、
大和国高市郡居住、天津守婦阿刀氏。多年無子、祈乞観音。爰夜聞小児音、奇出見之。在柴垣上被裹白帖也。薫香満宅、悦取養之。不日生長。天智天皇聞食之、与日並智王子共令移岡宮。遂以宮賜僧正、為寺号龍蓋寺謂。
と、龍蓋寺の縁起とともに日並智王子ひなみしのみこ=草壁皇子との関係が語られているのだ。
扶桑略記ふそうりゃっき』にも、
(大宝三年)三月乙酉日。以興福寺僧義淵、任僧正。大和国高市郡人、俗姓阿部氏。其父依無子息、多年祈請観音。然間、夜聞小児啼音、奇出見之。柴垣之上、有裹白帖。香気普満、歓以取養。不日長大。天智天皇伝聞、相共皇子、令養岡本宮。至是、任僧正。造寺、号龍蓋寺。俗云、造五箇龍寺。龍門、龍福等。
と、細部に違いがみられるものの、ほぼ同様の伝説が記されている。

意訳すると次の通り。
大和国高市郡に長年子供に恵まれない夫婦がおり、日々観音さまに祈っていたところ、ある夜に子供の泣き声が聞こえてきた。不思議に思った夫婦が表に出てみると、柴垣の上に白い布に包まれた赤子がいて、その薫香は家の中に満ちるほどだった。夫婦が喜んでその子を養育すると、瞬く間に立派に成長した。その噂を聞いた天智天皇は、その子供を引き取られ、草壁皇子とともに岡宮に移された。その後、若くしてこの世を去った草壁皇子の宮を、義淵僧正に下賜された。その地を寺とし、龍蓋寺と号したという。
つまり、草壁くんと義淵さんは一緒に育った幼馴染で、草壁くんの宮を義淵さんが譲り受け、岡寺を創建した、と。
義淵さんを観音さまから授けられた特別な子とするのは、高僧伝説あるあるなので良いとして、葛城パパが甥っ子である草壁くんの養育に関わっているのが、不自然に感じるんだよね。ただ、かえってそれが、言い伝えの信憑性を増しているようにも思える。いったいどんな事情があったんだ……。

さてさて、明日香村を日が傾くまであちこち巡った1日目、はま寿司で夕食にした。奈良まで行って全国チェーン店を選ぶことはないとも思うけど、お寿司以外も色々食べられるし、何より気楽にゆったり過ごせるから、疲れたとき重宝するんだよ。それから兵庫では見かけないスーパー・オークワを物色して朝食にするメロンパンを調達し、フェアフィールド・バイ・マリオット奈良天理山の辺の道に宿泊。やっぱここの枕とベッドの寝心地は最高。チェックアウトの時に嫁が訊いたところ、枕は特注品だが購入も可能とのこと。検討してもいいかも知れない。

2日目の朝、岡寺の開門時間に合わせて出発。駐車スペースに至る参道が非常に細いと公式サイトにあり、確かにその通りだったけど、このくらいなら慣れている。とはいえ慎重に運転し、無事到着。


受付にて入山料を納めたら、一礼して仁王門をくぐる。


すると早速、色鮮やかな花手水が出迎えてくれた。この日も暑くなりそうだったけど、流れ落ちる水が涼やか。
嫁もメチャメチャ喜んで眺めていた。


石段を上った先で南のほうを向くと、三重宝塔。カッコいいなぁ。この写真だと見えづらいけど、軒先に琴が吊るされている。


蓮の花も咲いていた。


本堂にて御本尊の塑造如意輪観音坐像を拝む。奈良時代に造られたとみられ、重文に指定されている。日本最大の塑像だという。座られている姿で4m超という大仏さまだ。
なんと内陣参拝ができて、より近くで拝観させていただける。有り難い。ほとんどグレー一色になっているけど、唇のくぼんだ下側など、所々にほんのり彩色が残っているのが見えた。


寺号の由来に繋がる伝説をもつ、龍蓋池。


境内の案内板には『大和名所図会』と書いてあるけど、正しくは『西国三十三所名所図会』。これによれば、
天智天皇の御世、この岡の里山に大蛇が住んでいて、人民を悩ませていた。武士たちも退治できずにいたので、時の高僧、義淵僧正に退治するよう勅命が下った。義淵が秘文を唱え、数珠を持って大蛇の頭を打ち据えると、大蛇はたちまち体が縮み、身動きできなくなった。そこで大蛇の角を持って引っ張り出し、小池があったのをこれ幸いと、その中に捕らえ、梵字の阿を書いた石で、池に蓋をした。のちに当寺を建立し、龍を封じた蓋という由縁によって、龍蓋寺と名付けた。
と。
龍の角を掴んで池にぶち込んだ上、石で蓋をする……高僧の怪物退治にしては、えらく物理攻撃が強い。義淵さん、パワフルだわぁ。義淵さんを仮に草壁くんと同い年とすると、天智崩御時点でも10歳なので、時代設定には少々無理がある説話だけど、そこにつっこむのは野暮というもの。


その先には奥之院、鎮守の稲荷明神社へと続く道。アジサイが咲き乱れている!一つひとつ手入しているわけだよね、スゴいよね。


花の川!なんて美しい光景……。


花がない所でも、木漏れ日に照らされた苔が綺麗。突き当たりの如意稲荷社を拝礼し、石窟堂にも身をかがめて入り、弥勒菩薩に手を合わせた。


そこから緩やかな坂道を進むと、義淵僧正の廟所という宝篋印塔ほうきょういんとうが、ひっそりと佇んでいた。ここでも合掌。

ところで、公式サイトにて義淵さんは「日本で最初の『僧正』」と紹介されているのだけど、但し書きが必要と思う。
まず僧正そうじょうとは、僧尼を統率する官職である僧綱そうごうの最上位のこと。
『日本書紀』推古天皇三二年(624)四月壬戌(17日)条に、
以観勒僧為僧正。
とあるのが、僧正の初出。日本初の僧正といえば、一般にこの観勒かんろくのことを指す。とはいえ、まだ制度化されてはいない。でも、天武天皇十二年(683)三月戊子朔己丑(2日)条に、
任僧正、僧都、律師。因以勅曰、統領僧尼如法云々。
とあって、浄御原令に先駆けて僧綱が制度化されている。その後、『続日本紀』大宝二年(702)十月戊申(14日)条に、
頒下律令于天下諸国。
と大宝律令が発布され、大宝三年(703)三月乙酉(24日)条に、
以義淵法師為僧正。
と、義淵法師が僧正に任じられる。
なので、「日本で(はじめて体系的な法律が施行されてから)最初の『僧正』」が義淵である、ということになる。


本堂を見下ろしつつ歩いていくと、三重宝塔の袂に出た。それから大師堂の前を通り、境内を一周したことに。

や~、見応えたっぷり!たくさんお参りもできた!
……なんて満たされたからか、次の目的地のことを考え始めてしまったからか、寄るのを忘れていたんだよね!史跡・岡寺跡に。
隣接する治田神社はるたじんじゃからは、発掘調査によって奈良時代の基壇の遺構などが見つかっており、岡寺の創建地とされているのだ。

うっかりしていたので、現地を確かめないまま話をすることになったけど、最後に草壁くんの宮について。
『続日本紀』天平宝字二年(758)八月戊申(9日)条に、
又勅、日並知皇子命、天下未称天皇。追崇尊号、古今恒典。自今以後、宜奉称岡宮御宇天皇。
とあり、日並知皇子=草壁くんは「岡宮御宇天皇」と追尊されている。龍蓋寺記にて、草壁くんが「岡宮」で育てられたとあるのは、前述の通り。
一方、天武天皇の頃の離宮として「嶋宮」がある。草壁くん薨御に際し、柿本人麻呂や草壁くんの舎人たちが悲しんで詠んだ万葉歌の中に、「嶋宮」が登場することから、「嶋宮」は草壁くんの宮になっていたと考えられている。
これらのことから、「岡宮」と「嶋宮」を同一視する説がある。地理的には、「岡宮」=岡寺と「嶋宮」推定地の島庄遺跡は隣り合っている。
しかしこの2つが同じかどうかは、ちょっと慎重に考えたほうがいいんじゃないかな。同じ宮に複数の名前が付くことはあるにしても、呼び分けていたのなら何かしら区別があったはず。それに、離宮にしてはエリアが広すぎるようにも思う。
いずれにしても、この地で草壁くんが暮らしていたのは確かだろう。妻の阿閇ちゃんも一緒だったに違いない……そんな風に思いを巡らすのが、楽しいんだ。
いつか行こうと思っていたんだよ。良い機会をくれた、嫁にありがとう。

サイト内検索