豊浦宮と小墾田宮

2022年6月26日日曜日 16:09
それでは宮都巡りを始めよう。最初は豊浦宮とゆらのみや小墾田宮おはりだのみや
日本で最初の女性天皇・推古天皇の即位をもって、幕を開ける飛鳥時代。この女帝の宮都は、豊浦宮から耳梨行宮みみなしのかりみやを経て小墾田宮へと遷る。そして、豊浦宮は豊浦寺とゆらでらとなった。このあたりの経緯を整理するには、少し時代をさかのぼる。

『日本書紀』欽明天皇十三年(552)冬十月条にあるように、仏教公伝の時、
蘇我大臣稲目~中略~淨捨向原家為寺。
(蘇我稲目(そがのいなめ)が向原むくはらの家を清めて寺とした)
が、その後の疫病流行の原因とされ、
有司乃以仏像流棄難波堀江。復縦火於伽藍、焼燼更無余。
(役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた。また寺に火をつけ、余すところなく焼き尽くした)
という事態に。
元興寺伽藍縁起并流記資財帳がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう(以下、元興寺縁起と略す)』にも、欽明天皇七年(547)十二月と年が異なるものの、
時天王召大々王告、汝牟原後宮寺我欲為他国神宮也。時大々王白、依佐賀利奉白岐。其殿坐而礼始。
と、稲目が牟久原むくはら(向原)の後宮を寺にして仏を礼拝することになったという、ほぼ同様の記述がある。稲目が薨去したあと、庚寅年(570)に、
焼切堂舎、仏像経教流於難波江也。
と、寺が焼かれ仏像が捨てられたのも同じ。
『元興寺縁起』ではその後、稲目の子の馬子うまこが、
牟久原殿楷井、癸卯始作桜井道場。
(牟久原殿を楷井に、癸卯年(583)に初めて桜井道場(寺)を作った)
と。
『日本書紀』推古天皇即位前紀・崇峻天皇五年(592)冬十二月壬申朔己卯(8日)条に、
皇后、即天皇位於豊浦宮。
(皇后が豊浦宮にて天皇に即位した)
とある。推古天皇だ。
『元興寺縁起』癸丑年(593)、推古天皇が厩戸皇子(聖徳太子)に、
我者此等由良宮者寺成念故、宮門遷入急速作也。~中略~為我者小治田宮作。
(私の等由良宮(豊浦宮)を寺とするため、宮門を速やかに遷せ。私のために小治田宮おはりだのみやを作れ)
と告げ、皇子は命じられた通りにし、
等由良宮成寺、故名等由良寺。
(等由良宮が寺となったことから、等由良寺(豊浦寺)と名付けた)
という。
『日本三代実録』にも、
彼寺、推古天皇之旧宮也。元号豊浦、故為寺名。
(推古天皇の旧宮を寺として豊浦寺と名付けた)
とある。
『日本書紀』においても「桜井寺」の存在が窺えるが、いつ建てられたかは触れられていない。推古天皇十一年(603)冬十月己巳朔壬申(4日)条に、
遷于小墾田宮。
(小墾田宮に遷った)
とあるが、『元興寺縁起』とはここでも年が合わない。ちなみに「豊浦寺」の初出は、舒明天皇即位前紀・推古天皇三十六年(628)九月。
また、『聖徳太子伝暦』には舒明天皇六年(634)春正月十五日のこととして、
建豊浦寺塔心柱。
(豊浦寺の塔の心柱を建てた)
とあり、伽藍の整備が長期に渡っているように見える。
これらの記述をどこまで信用して良いか(特に年)という問題があるけど、ひとまず事績については素直に受け入れておこう。

以上のように、少々複雑な経緯を辿っているが要約すると、蘇我稲目が向原の邸宅の敷地にあった後宮に仏像を祀ったが、焼き払われたため、蘇我馬子が桜井道場(桜井寺)として再建し、推古天皇が即位後に豊浦宮から小墾田宮に遷り、代わりに豊浦宮の地に桜井道場を遷して豊浦寺とした、となる。
推古天皇は、蘇我稲目の娘・堅塩媛きたしひめを母とする。堅塩媛は欽明天皇の妃、推古天皇は敏達天皇の皇后。そんな彼女らが向原(豊浦)に住んでいたから、『元興寺縁起』はそこを「後宮」といっているのだろう。推古天皇は即位にあたり、住まいであった「後宮」をそのまま宮都とし、豊浦宮と呼んだわけか。
余談になるけど、元興寺(現在の飛鳥寺)や日本最初の僧尼・善信尼ぜんしんににも派生していく話題なんだよね。歴史とは続いていくものだし、無数に事柄が枝分かれする。それがまたひとつの面白さだけど、これらはまた別の機会に。


現在、豊浦寺の跡地には向原寺こうげんじが建つ。門の手前に、「豊浦寺址」と刻まれた石碑があった。


発掘調査により、創建期の豊浦寺の基壇跡や瓦などのほか、その下層に豊浦宮の遺構が、極めて良好な状態で残存していることが確認されているという。
1400年も前の宮跡が綺麗に残っているなんて、まさに奇跡、まさにロマン!前段で引用した各史料の記述が、考古学的に裏付けられたということでもある。こういうの、たまらなくワクワクするよね!
本堂の奥からは話し込む声が聞こえたので、上がるのは遠慮した。でも、もう少し突っ込んでも良かったかなぁ。


境内の南には、難波池。仏像が流し捨てられた「難波の堀江」であるとの伝承を持つらしい。寺を焼き、仏像はそのそばにあった池に捨てたというなら、なるほど確かにと納得。「難波」を文字通り大阪と捉えると、なぜそんな遠くまで持っていって捨てたのかが説明できないと、如何にも不自然に感じる。
ただね、「流棄」したと書かれているんだよ、「投棄」ではなく。池に流れは無い。流すということは、水路を想起させる。「難波の堀江」といえば、仁徳天皇が現在の大阪に造ったという水路があるし。どちらにしろ諸説あることなので、この目で池を見ることができたのが、何よりの収穫。

続いては小墾田宮。小治田宮とも書き、推古朝の宮の位置はまだ確定していない。
万葉集の歌にも詠まれている雷丘いかづちのおかの西側、飛鳥川の向こうにある古宮遺跡ふるみやいせきが、かつては有力視されていた。しかし、反対側にある雷丘東方遺跡いかづちのおかとうほういせきが現在では濃厚とされている。


その理由がわかる、明日香村埋蔵文化財展示室を先に見学。雷丘東方遺跡から多数出土した、「小治田宮」と記された墨書土器が展示されているのだ。じゃあもう確定じゃないか、と言いたくなるところだけど、これは奈良時代の土器だとかで、百年以上の隔たりがある。


「小治田宮」は、『続日本紀』天平宝字四年(760)八月乙亥(18日)条に「幸小治田宮」と見え、奈良時代の淳仁天皇が一時遷っている宮なのだ。推古天皇の「小墾田宮」と同じ場所なのかは、まだ詳らかになっていない。


墨書土器が入っていた井戸枠も、実物が置かれている。


雷丘の南を通る県道124号(橿原神宮東口停車場飛鳥線)は、古代の幹線道路・山田道やまだみちとほぼ重なるとされる。古代と同じ道の上を歩ける!これもまた大きなロマンだよなぁ。


山田道の北側。手前のこんもりしているのが雷丘。
同じ名前の宮がそんなに離れた所にあるとは考えにくいので、雷丘東方遺跡のどこか、というのは堅いんじゃないかなぁ。

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