山田寺跡と飛鳥資料館

2020年8月1日土曜日 19:49

山田寺は、奈良県桜井市山田にあった寺院で、飛鳥時代の朝臣・蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかわのまろの創建。石川麻呂は持統天皇や元明天皇の祖父にあたる。
元明天皇こと阿閇ちゃんのおじいちゃんゆかりのお寺ということで、俄然興味が湧いたので、資料館で予習してから訪れてみた。

高取町でお茶したあと、お隣の明日香村へ。時間は限られるけど、せっかく近くまで行ったのだから、少しだけでも巡っておきたい。
まず石舞台古墳程近くの売店『あすか野』を物色。一度家で古代米食べてみたくて買っちゃった。


それから嶋宮しまのみや推定地とされる島庄しまのしょう遺跡。
蘇我馬子の邸宅跡で、庭園には中に島のある池があったという。その後離宮となり、壬申の乱の直前に大海人皇子(後の天武天皇)が吉野宮に行く途中で立ち寄っているし、さらに皇太子の草壁皇子の宮となったと考えられている。


池の跡に沿うように不自然にまがった田んぼ。遺跡はすべて埋め戻されているだけでなく、そのほとんどが石舞台の駐車場の下。かつての姿を偲ばせる場所はほぼ無く、この地形を確認できればそれで満足だ。
馬子さん嫌いじゃないけど、阿閇ちゃんの夫・草壁くんゆかりの地だからね。このあたりには何度か訪れているけど、そういう意識で見始めたの割と最近で……行けて良かった。

次へ行こう。桜井明日香吉野線をぐっと北上して、飛鳥資料館。駐車場はガラガラで、便利な位置に停められた。ここもゲートで検温と消毒。


山田寺の御本尊の仏頭を先月興福寺で拝観して、石川麻呂おじいちゃぁぁぁんって気持ちが高ぶっていたから、山田寺展示を改めて見学したかったんだ。3年前はまるで興味持てなかったのに、変われば変わるもの。
山田寺跡の発掘調査時の再現ジオラマを見て、その伽藍の広さに驚く。


東回廊は出土した部材を使用しての再現展示。これがどれほど貴重なものなのか、ようやく理解できた。寺の歴史や、出土品の数々、既知のことや、知らなかったことなど、解説を頭に叩き込みつつすべての展示を見て回る。閉館まで30分を切っていた。嫁にも嚙み砕いて説明はしたものの、退屈させてごめんねとあとで謝った。
また、仏頭の複製だけでなく、仏像を彫ったタイルである磚仏せんぶつの数々や、銅板五尊像などからも、在りし日の仏塔内部の様子などが浮かんでくるようで、そこに込められた信仰の篤さにも感嘆した。

山田寺展示だけを隈なく巡ったら、資料館を後にして史跡のほうへ。狭くて入り組んだ集落の路に迷い込んでしまったりしたけど、なんとか到着。駐車場があるのが有り難いね。しかし、もう少しちゃんと地図を見ておけば良かった。


特別史跡・山田寺跡。文化庁の立派な石碑が立っていた。
山田寺を建立した石川麻呂おじいちゃんは、蘇我本宗家滅亡に至った乙巳の変から始まる大化改新に参画するも、弟の讒言によって自害に追い込まれた。反逆を企ててなどおらず、寺院建立は天皇のために祈ることを目的としていたと語ったとされる。その最期の場所も山田寺であり、彼の死によって建設が一時中断していたが、天武朝になって再開。天武の皇后となった孫の讃良ちゃん(後の持統天皇)のお陰とみられる。


寺跡を歩きながら見渡す。
前方に白っぽく見えているのは『宝蔵』の案内石板で、この左側が伽藍の東端ということになるか。


手前の段差が『回廊』、その奥のさらに一段上がる場所が『金堂』で、隣の高まりが『塔』のあたりだ。
ちなみに、向こうのこんもりした森は東大谷日女命神社やまとおおたにひめじんじゃ


『金堂』南面中央では、『礼拝石らいはいせき』と考えられる板石が発見されたそうで、その原寸大復原が展示されていた。
飛鳥資料館の解説によれば、「彼は、この礼拝石の上で最期のときを迎えたのかもしれない」と。思いも寄らず謀反の疑いをかけられた石川麻呂さんは、どんな思いで仏と向き合っただろうか……そんなことを考えさせられる。


『塔』は『諸寺縁起集しょじえんぎしゅう』によれば五重塔であったという。「付銅板小仏」ともあるので、それが資料館で見た磚仏だったりするんだろう。
ここに五重塔がそびえ立ち、中の壁面を小さな仏がびっしりと埋め尽くしていた――そんな姿をありありと想像できる。


そこから南には『中門』から『南門』、『参道』と続いていたはずだ。


『東面回廊』には、復原と思われる礎石や、基壇の縁石(こちらは実物?)があった。まさに、ここからあの連子窓が発掘されたわけだ。
少しぬかるんでいるところがあって、素人考えだけど、木材が保存されやすい地質なのかもと。


ぐるっと回って今度は、北側の『講堂』。草木が多く蚊が心配だから、嫁には車で待機してもらうことにした。
伽藍には講堂・金堂・塔が一直線に並ぶが、講堂は回廊の外に配置されている。いわゆる『四天王寺式』とは異なることが、発掘調査で確定している。
現在跡地の北西部に建っているのは、元禄十五年(1702)建設の観音堂。法相宗に属し、大化山山田寺と号しているとのこと。御本尊は木造十一面観音菩薩立像だそうだ。


山田寺の礎石や地覆石が境内に残されているなか、異様な雰囲気を醸していたのが、鉄柵に囲われた石碑。「十市郡山田邑」とか「仏像及堂塔」といった文字が読めたから、山田寺か観音堂に関する碑文だとは思うんだけど、柵が邪魔で全部読む気になれなかった。なんでこんな物々しいんだろう。
他にも、判読できない石碑や謎の祠があった。


境内の入口を入ってすぐ右手には、万葉歌碑。「山川に鴛鴦二ついて偶ひよく たぐへる妹を誰か率にけむ」、「もとごとに花は咲けども何とかも 愛し妹がまた咲き出こぬ」と、野中川原史満のなかのかわらのふびとみつの2首が刻まれている。
石川麻呂さんの屍が斬られたと聞いた彼の娘・遠智娘おちのいらつめさんは、心痛のあまり亡くなってしまう。彼女は中大兄皇子の妃であり、その死を中大兄は悲しんだ。そんな彼を慰めようとして、野中川原満が詠んだ歌だ。遠回しではあるけど、石川麻呂さんひいては山田寺と縁のある歌、ということになる。歌碑を置く側もよく考えてるなぁ。
石川麻呂さんだけでなく、遠智娘さんをも悼む場所といえるのか……どうにもしんみりしてしまうね。
なお、遠智娘さんは讃良ちゃんを産んでいるし、妹の姪娘めいのいらつめさんは阿閇ちゃんのお母さんだ。

予習してから現地に立つと、やっぱ高感度で得られるものがあるね。伽藍の広さを体感できたのも大きい。
石川麻呂おじいちゃんは阿閇ちゃん誕生前に没しているので、直接の面識はない。だけど、幼い頃に姪娘さんに手を引かれて、山田寺を参拝したことがあったかもしれない。あるいは、異母姉で従姉妹で義母の讃良ちゃんと一緒に、御本尊に手を合わせたかも知れない……そんなことを思いつつ。

唐突な思いつきでのおでかけだったけど、快く付き合ってくれた嫁のお陰で、とても充実した一日になったよ。いつもありがとう。

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