石と水の都を造った斉明天皇
2022年6月26日日曜日
17:06
推古天皇の在位が長期に及んだ結果、厩戸皇子や同世代の皇子たちが亡くなっていたため、その下の世代である
天皇遷於飛鳥岡傍。是謂岡本宮。とある。かつては飛鳥岡の比定地に諸説あったが、発掘調査の進展により現在では
(天皇は飛鳥岡のほとりに遷った。これを岡本宮という)
舒明天皇が崩御すると、皇后の
天皇遷移於小墾田宮〈或本云、遷於東宮南庭之権宮〉。とあり、推古天皇が使われた小墾田宮(もしくは近くの仮宮)に遷っている。どこから遷ったかの記述は無いけど、素直に考えれば岡本宮からかな。
(天皇は小墾田宮に遷った〈ある本がいうには、東宮の南の庭の仮宮に遷った〉)
その後、皇極天皇二年(643)四月丁未(28日)に、
自権宮移幸飛鳥板蓋新宮。と。この
(仮宮より移って飛鳥の板蓋の新宮に行幸した)
ここからが激動で、
しかし白雉四年(653)是歳、
皇太子、乃奉皇祖母尊、間人皇后、并率皇弟等、往居于倭飛鳥河辺行宮。と、孝徳天皇を難波に置き去りにして、中大兄皇子や宝皇女たちは飛鳥へ戻ってしまう。この
(皇太子(中大兄皇子)が、皇祖母尊(宝皇女)らを奉じて、飛鳥河辺行宮に移り住んだ)
孝徳天皇が崩御すると、宝皇女が
皇祖母尊、即天皇位於飛鳥板蓋宮。とあり、都も飛鳥板蓋宮へ戻る。
(皇祖母尊(宝皇女)が、飛鳥板蓋宮にて天皇に即位した)
ところが斉明天皇元年(655)是冬、
災飛鳥板蓋宮。故遷居飛鳥川原宮。という。この
(飛鳥板蓋宮が火事になった。それで、飛鳥川原宮に遷った)
斉明天皇二年(656)是歳、
遂起宮室。天皇乃遷。号曰後飛鳥岡本宮。とあり、火災で失われた板蓋宮の地に、新たに
(ついに宮室が建った。そこで天皇は遷った。名付けて後飛鳥岡本宮という)
さらに斉明天皇二年(656)是歳、
於田身嶺、冠以周垣。復於嶺上両槻樹辺起観。号為両槻宮。とあるように、
(多武峰に、頂上の周りを巡らせる垣を築いた。頂上の二本の槻木のほとりに高殿を建てた。名付けて両槻宮といった)
続いて、
時好興事。迺使水工穿渠、自香山西、至石上山。以舟二百隻、載石上山石、順流控引、於宮東山、累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。とも語られている。
(天皇は工事を好んだ。すなわち水工に運河を掘らせ、それは香久山の西から石上山にまで及んだ。舟二百隻に石上山の石を積んで、流れに従って引き、宮の東の山に石を積み重ねて垣とした。時の人は非難して、「常軌を逸した心の運河」などといった)
工事を好んだと評されるように、斉明天皇三年(657)七月辛丑(15日)には、
作須弥山像於飛鳥寺西。斉明天皇五年(659)三月甲午(17日)にも、
(須弥山の像を飛鳥寺の西に作った)
甘檮丘東之川上、造須弥山而饗陸奥与越蝦夷。といい、北東日本の人々や朝鮮半島の使節などをもてなす饗応施設も造っていたようだ。
(甘樫丘の東の川上に須弥山を造って、陸奥国と越国の蝦夷を接待した)
これらとは文脈が異なるかも知れないが、六斉明天皇六年(660)五月是月、
又皇太子初造漏尅、使民知時。とあって、日本初の時計が設置されたのも、斉明女帝の御世。
(また、皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻(水時計)を造り、人民に時を知らせるようにした)
では、斉明女帝までの飛鳥宮跡とその事業を『日本書紀』より振り返ったところで、各史跡を巡っていこう。
元明天皇こと阿閇ちゃん推しの僕にとっては、舒明天皇は田村おじいちゃんだし、斉明天皇は宝おばあちゃん、って目線で見てしまう。近しい存在だから、興味も強くなるんだよね。
やはりまずは飛鳥宮跡。飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、そののちの天武・持統天皇の
5年ぶりの再訪だけど、また見え方が変わってくるなぁ。
たとえば名前。岡寺の所在地は明日香村岡で、今も大字に「岡」が残っているように、飛鳥時代においてもあの丘陵を「岡」と呼んでいたわけだ。その岡の
ところで、キックボードで石敷きの上を走る少年がいたんだけど、近所に住んでいるんだろうか。古代史ど真ん中で遊ぶ環境って、傍から見ると凄いって思わずにいられない。彼にとっては日常なんだろうけど。
次は
受付があり、文化財保存協力金として大人ひとり3百円ずつを支払った。ボランティアガイドさんがスタンバってくれていて、案内をお願いすると、早速記念撮影をしてくださった。
それにしても、真新しい石碑。「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として世界遺産登録を目指しているというから、その一環で整備されたのかな。
ひとまず導水施設の実物を見てから、「今日は暑いから」と木陰の石に腰かけて、ガイドさんの解説を聞くことに。ここは祭祀空間とする説があるんだけど、それをより具体的に紙芝居で披露してくださった。あくまで諸説あるうちのひとつとはいえ、なかなか説得的で、語り口も簡潔で聞きやすかった。良い人に当たったなぁ。
石敷きのテラスは周囲より低い位置に造られており、東にある
亀の奥には排水溝もあり、お尻部分に栓をすれば、石槽に水が溜められる仕組み。ポンプなどが無くても、自然の力を利用することでこれだけの設備を整えたのだから、古代といっても侮れない。
階段状の石垣も立派で、いかに大規模な土木工事だったかを実感。これらは天武朝前後の遺構とのこと。斉明朝に造営されその後も存続していたと判るわけだけど、『日本書紀』はこの湧水施設について、何も語ってくれない。不思議だよねぇ。
受付を出てすぐ裏手の階段から、丘を登る。子供でも行けるくらいの軽いハイキングだ。
その途上に、石垣が展示されていた。倒壊した状態で発見された石垣の一部を復原しているそうだ。これこそまさに、斉明女帝の行った「宮の東の山に石を積み重ねて垣とした」事業とピタリと符合する!その実物を見られる!ワクワクが止まらない!
ここで、当遺跡を「両槻宮」とする説について触れておきたい。『日本書紀』持統十年(676)三月癸卯朔乙巳(3日)条に、
幸二槻宮。『続日本紀』大宝二年(702)三月甲申(17日)条に、
(二槻宮(両槻宮)に行幸した)
令大倭国繕治二槻離宮。とあり、斉明朝以降も利用されていたことが判る。
(大和国の二槻離宮(両槻宮)の修繕を命じた)
一方、石垣が倒壊していたというのがミソで、天武天皇十三年(684)十月壬辰(14日)に、
逮于人定、大地震。挙国男女叫唱、不知東西。則山崩河涌。とある白鳳地震の影響と考えられている。倒壊後に積極的に修復した痕跡がみられないとのことで、持統天皇の行幸や文武天皇が命じた修繕の記録とは合致しない。つまり考古学的には、酒船石遺跡を「両槻宮」とすることは否定されているわけ。
(午後八時(十時とも)に大地震が起こった。国中の男も女も叫び逃げまどった。山は崩れ、川は湧いた)
話が逸れるけど、白鳳地震は、南海トラフ巨大地震と推定される地震の確実な記録としては、最古のものらしい。またえらい話題と結び付いたもんだ。
それにしても、ここで蚊にたかられまくって参ったよ。カメラを構えたその指にも止まるんだもん。
丘の上にあるのが、酒船石という石造物。酒の醸造施設とする説からこのように呼ばれている。
本居宣長が『
あやしき大石あり。~中略~里人はむかしの長者の酒ぶねといひつたへてなどと、この不思議な形の石を紹介している。
他に、水を使った祭祀や占いの道具とする説などもある。先ほど見てきた石垣などとの関連性も検討されているものの、その用途は不明。
この酒船石らしき記述も、『日本書紀』には見当たらない。意味ありげな溝と凹みが、なるほど用途をあれこれ想像してみたくなる。
テーマとは関係ないんだけど、
拝殿にて拝礼。本殿の姿はほとんど見えなかったけど、拝殿が銅葺ながら立派でカッコいい。
飛鳥坐神社のすぐ南にあるのが、
遺跡のすぐ西側を流れる中の川。「狂心渠」のルートと重なると推定されている。
民衆の目からは、意味の分からないくらい馬鹿デカい工事だったかも知れないけど、何かしら意図があったはず。緊迫する東アジア情勢において、宝おばあちゃんなりに描いた構想を、実現しようとしたんじゃないかな。
続いては
須弥山石について、「飛鳥寺の西に作った」ものと「甘樫丘の東の川上に」造ったものが同一かはわからないものの、こうした記述が示す場所と一致する。今は田植えが終わって緑の美しい水田が広がるばかりのここに、かつて日本の威厳を示す豪奢な宴が催されたんだろうか。
最後に、石神遺跡のすぐ南にある
東隣りには飛鳥寺の広大な境内があったはずで、北側には小墾田宮。飛鳥宮から少し離れているけど、このあたりに重要な施設が建ち並んでいたわけだ。想像を遥かに超える、堂々たる都が存在していたんだろうな……と、よりイメージが湧いてきた。