橘寺
2022年6月27日月曜日
14:01
また、境内にある
今も地名の大字に残っている「橘」。
『日本書紀』垂仁天皇九十年春二月庚子朔条に、
天皇命田道間守、遣常世国、令求非時香菓。〈香菓。此云箇倶能未。〉今謂橘是也。とあり、『古事記』にもほぼ同様の説話が載っている。この“トキジクノカクノミ”の種を蒔いたところ橘が生えたので、当地を橘と呼ぶようになったとの伝承があるらしい。典拠を探してみたけど、見つけられなかった。
(垂仁天皇は田道間守 に命じて、常世国 に派遣し“トキジクノカクノミ”を求めさせた。今、橘と呼んでいるものはこれである)
最近こういう例によく当たるけど、書物には無い口伝なのかな、と納得するようにしている。
それから時代が下り飛鳥時代、この地には、
欽明の第四皇子であった、のちの
『日本書紀』によれば、用明天皇は最初、厩戸皇子を「宮の南の上殿(上宮)」に住まわせたとある。用明の宮は「
一方、橘寺は、地理的には東池尻・池之内遺跡の南にあるものの、やや距離が離れている。
いずれも決定打に欠けるけれど、こうした伝承が生まれる背景が、この地にはあったわけだ。それを大切にしたい。
聖徳太子が建立したと伝わる七大寺の中に、橘寺が含まれる。『
太子起七寺。四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺〈并彼宮賜/川勝秦公〉、池後寺、葛木寺〈賜葛/木臣〉。『
小治田大宮御宇天皇并東宮上宮聖徳法王、法隆学問寺、并四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂丘寺、池後尼寺、葛城尼寺乎、敬造仕奉。とある。
その縁起については『
(推古天皇)十四年秋七月、天皇詔太子曰、諸仏所説諸経演竟。然勝鬘経未具其説。宜於朕之前講説其義。太子辞奏、臣頃将製疏。思其義理、適未通逹。伏念、五六日至旬時乃応握麈尾登師子座。天皇答勅、試講、令諸名僧、大徳問其妙義。太子受天皇請、其儀如僧、三日而竟。講竟之夜、蓮花零。花長二三尺而溢方三四丈之地。明旦奏之。天皇大奇、車駕而覧之。即於其地誓立寺堂〈是今橘樹寺也〉。正史である『日本書紀』における橘寺の初出は、天武天皇九年(680)四月乙卯(11日)の、
(推古天皇十四年(606)秋七月、推古天皇は聖徳太子に、勝鬘経 の講義を命ぜられた。これを受けた太子は、装いを僧侶のようにして、三日間かけて説き終えた。講じ終えた夜、蓮の花が降った。積もった花が一平方メートルから溢れ出るほどだった。明くる日、このことを申し上げると、天皇は大いに不思議に思われ、くるまに乗って行幸されご覧になった。そこで、その地に寺を建てることを誓われた。これが今の橘樹寺 である)
橘寺尼房失火、以焚十房。だ。この頃には堂宇が整っていたんだろう。
「橘尼寺」という表現や、失火したという「尼房」を持つ点などから、当時は尼寺だったと考えられている。すぐ北にある僧寺の川原寺と、対とみる考えもある。
岡寺を後にした僕らは、橘寺の西に設けられた駐車場へ。車の到着に気づいてくださったようで、空だった受付に係の方が入られた。この日は参詣客が少ないのだろうか。拝観料を納めると、境内について簡単に説明してくださった。物腰の丁寧な人だったなぁ。
西門から入ったけど、正門だという東門まで行ってそこから回ることにした。門を出た向かいの丘陵の中腹に、先ほどまでいた岡寺の三重宝塔が小さく見えた。
結果的に、最初に往生院に入ることに。靴を脱いで上がり、誰もいない綺麗な畳の上を見上げると、
ちなみに格天井とは、木を格子に組んでそれに板を張った天井のことで、格式の高い部屋に用いるんだそうだ。
思わず先に花の絵に見とれてしまったけど、当院御本尊の阿弥陀三尊や聖徳太子像に、手を合わせた。
しばらく二人占めしていたら、4人組の女性たちがやってきた。天井画を前にキャッキャして、楽しそうだったな。あっという間の嵐。
改めて正門から本堂を向く。
創建時には、中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並び、それを回廊が囲むという、四天王寺式伽藍配置だったことが、発掘調査にて確認されている。一般的に南面している伽藍配置が多いが、ここ橘寺は東に面して並んでおり、珍しい。今も東を正門とするのは、これに倣っているんだろう。
五重塔跡には、当時の心礎が露出している。変わった形をしているよね。ぱっと見、心礎だと思わなかった。法隆寺若草伽藍の心礎に似ているとか。だとすれば、厩戸皇子との関係の深さを物語っているようだ。
旧跡を辿りつつ、観音堂に寄る。ここの御本尊、木造の六臂如意輪観音菩薩坐像が、とても素晴らしかった!柔和なご尊顔とお姿に、惚れ惚れ。嫁も同感だと。正座して拝んでからも、二人してしばらく眺めていた。
太子が勝鬘経を講じた折に降り積もった伝説の、蓮の花を埋めた所だという、蓮華塚。
飛鳥時代の石造物のひとつ、二面石。右が善面、左が悪面らしいけど、僕には解らなかった。飛鳥にはホント、謎の石造物が多い。これも宝おばあちゃんと関連があるんだろうか。
本堂の太子堂にて、木造の聖徳太子勝鬘経講讃坐像などを参拝。橘の地名由来に関わる田道間守像も安置されていて、思わぬ出会いに嬉しくなった。
最後に、西門を出て北の「佛法/最初 聖徳皇太子御誕生所」と刻まれた石碑。かつての橘寺の北限域に立っており、川原寺がもう目の前だ。
歴史に触れ、伝承に触れ、美しい花々に触れ、素敵な仏さまにも触れ、良いお参りになったなぁ。