川原宮と牽牛子塚古墳

2022年6月27日月曜日 13:01

火災に遭った板蓋宮を一旦離れ、後飛鳥岡本宮が建つまでの間、斉明天皇が宮を置いたのが飛鳥川原宮あすかのかわらのみやだったことは、飛鳥宮跡の変遷を辿った前回触れた。
その後、百済を救援すべく九州まで出向いたが、『日本書紀』斉明天皇七年(661)秋七月甲午朔丁巳(24日)条に、
天皇崩于朝倉宮。
(天皇が朝倉宮にて崩御した)
とあるように、遠征先の宮で崩御。御遺体は大和国へ帰り、斉明天皇七年(661)十一月壬辰朔戊戌(7日)、
以天皇喪殯于飛鳥川原。
(天皇の遺骸を、飛鳥の川原で殯(棺に納め仮安置)した)
とあり、川原宮で葬送儀礼が催された。
母の死後、遺志を継いだ中大兄皇子は、白村江の戦いに挑むも惨敗、防人を置くなど防備に追われる。
そうして天智天皇六年(667)春二月壬辰朔戊午(27日)、
合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵。
(斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬した)
と、斉明天皇は若くして亡くなった娘の間人はしひと皇女と一緒に葬られた。また、
是日、以皇孫大田皇女、葬於陵前之墓。
(この日に、大田皇女を陵の前の墓に葬った)
ともあり、斉明天皇らの御陵の前に、中大兄の娘の大田おおた皇女も埋葬された。

中大兄が即位し天智天皇となったのち、その皇位継承を巡って、大友皇子と大海人皇子が争うことになる。大海人が近江を脱出し、天智天皇十年(671)十月壬午(9日)、「是夕、御嶋宮(この夕べ、嶋宮にいた)」あと吉野へ入った。この嶋宮しまのみやについては、別エントリーで。
そして壬申の乱じんしんのらんに勝利した大海人は、天武天皇元年(672)是歳、
営宮室於岡本宮南、即冬遷以居。焉是謂飛鳥淨御原宮。
(宮室を岡本宮の南に造り、冬に遷った。これを飛鳥淨御原宮という)
のように、飛鳥宮跡の地に宮都を遷し、天武天皇として即位する。
また、天武天皇十四年(685)十一月戊申(6日)に、
幸白錦後苑。
(白錦後苑に行幸した)
という記事がみえる。

ということで、前回後回しにした川原宮から見ていこう。


川原宮の跡地に建てられたと考えられているのが、川原寺かわらでら。平安末期に焼失したが、その法灯は弘福寺ぐふくじに受け継がれている。門前には復元された礎石や基壇があり、往時の伽藍の姿を偲ばせてくれる。
藤原京の時代には、大官大寺・飛鳥寺・薬師寺と並び、四大寺に数えられるほど高い寺格を誇っていた川原寺だが、その創建については謎が多い。発掘された瓦の様式などから天智天皇の頃と考えられ、斉明崩御から近江大津宮遷都までの間に、天智が亡母の冥福を祈るために建立したとされる。
同母弟の天武天皇も、天武天皇二年(673)三月是月、
聚書生、始写一切経於川原寺。
(書生を集めて、初めて一切経を川原寺にて写した)
とか、天武天皇十四年(685)八月丙戌(13日)、
幸于川原寺。
(川原寺に行幸した)
とある。
斉明女帝が、息子たちに愛され慕われていたようすが窺えるのが、川原寺だともいえるんだよね。


現在の弘福寺本堂は、川原寺の中金堂跡に建つ。
右手奥の受付で入山料を納めると、本堂内へと案内してくださった。そこには御本尊の十一面観音をはじめ、持国天、多聞天、十二神将と、平安初期の作とみられる仏像群が安置されていた。宝おばあちゃんに思いを馳せ、合掌。


本堂前には、飛鳥時代の実物の礎石。“瑪瑙めのうの礎石”と呼ばれているが、白大理石でできている。どちらにしろ、なんて贅沢な!壮大な寺院であったことを、こういうところからも想像させられる。

次の目的地はちょっと離れたエリアにあるので、道の駅飛鳥の駐車場へ。そこから徒歩で踏切を渡って向かったのだけど、陽射しが厳しさを増してくる。こまめに水分補給をし、暑さに参りそうな嫁を励ましつつ、歩いた。


ゆっくりゆっくり20分かけて、牽牛子塚古墳けんごしづかこふんに到着。丘の上に白く輝いて見える。なかなか異様な光景だ。
整備が終わって、まだ半年も経っていないホットスポット。なるべく人が少ない状態で見たいなと思い、平日を狙って行ったんだけど、その甲斐あってほとんどいなかったよ。一人だけ、僕らとは逆方向から来られた方がいたなぁ。


酒船石遺跡で見たのと同じタイプの真新しい石碑。その奥の花壇はアサガオの丘になるようだ。墳丘がアサガオの花びらのような形をしていることから、江戸時代には「あさがお塚」と呼ばれていたらしい。


容赦ない陽光を浴びながら丘陵を登っていくと、中腹に越塚御門古墳こしつかごもんこふん


登り切って展望広場から見下ろすと、アサガオの花にも例えられた墳形がよくわかる。凝灰岩切石に覆われていたとされる造営当時を復元しているんだけど、弱体化している墳丘の保護という側面もあるそう。巧いこと考えたもんだ。
八角墳は天皇陵の特徴とみられている。埋葬施設は2つの墓室が設けられた横口式石槨で、築造当初から合葬を意図したものと考えられるとか。これは、「斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵おちのおかのうえのみささぎに合葬した」とする『日本書紀』の記事と合致する!
当地の現在の地名は明日香村こし。「小市(越智)」は「越」に通ずる、つまり地名に御陵を築いたとされる「小市岡」が残っている!
石室内からは、最上級の棺である夾紵棺きょうちょかん片のほか、七宝飾金具や金銅八花形飾金具といった豪華な副葬品が出土!


さらに、東南にある方墳・越塚御門古墳の存在が、「大田皇女を陵の前の墓に葬った」こととも符合する!
宮内庁は、高取町にある車木ケンノウ古墳くるまきけんのうこふんを斉明天皇陵に治定しているけど、牽牛子塚古墳こそが、真の斉明天皇陵であるとの考えには、大きく頷ける!これほどまでにピッタリ条件が揃っているのって、凄いよね!
ただ唯一、
皇太子謂群臣曰、我奉皇太后天皇之所勅、憂恤万民之故、不起石槨之役。所冀、永代以為鏡誡焉。
(皇太子(中大兄)が群臣たちに、「私は斉明天皇の勅命を承ってから、人民を憐れむゆえに、墳墓造営の労役は起こさない。願わくば、後々の世まで手本とせよ」と言った)
との記述とは矛盾する。とはいえ、中大兄の命に従ったとは書かれていないし、誰かさん(チラッ)が忖度して、この言葉を付け足したのかも知れない。ここまでいうと、ほとんど難癖付けているだけではあるけど、可能性としてね。


ところで、道の端にこんな石が置かれていたんだけど、凝灰岩切石の実物だろうか。土日にはボランティアガイドさんがいらっしゃるそうなので、その時の説明に使っていそうなくらい、これ見よがしだしなぁ。


事前予約制で石室特別公開もあるんだけど、それは参加しなくてもいいかなって。だって、宝おばあちゃんのお墓だもの。


さて、続いては飛鳥宮跡から徒歩圏内にある史跡・飛鳥京跡苑池あすかきょうあとえんち。そのすぐそばに休憩舎があり、中のパネル解説や模型で、苑池について学べるようになっていた。
流水施設と石槽は、橿考研博物館のエントランスに展示されていたのを見たなぁ、と思い出す。


飛鳥京跡苑池は天武が行幸したという、「白錦後苑しらにしきのみその」とする説がある。南池と北池という2つの池から構成されており、他に掘立柱建物などが確認されている。南池に設置された石造物の特徴から、酒船石遺跡との共通点も指摘されている。
今は埋め戻されて見えないけど、2021年12月の、水路南護岸や水路周辺の石積みが検出されたときのニュースは、鮮烈だったなぁ。
飛鳥の調査は今も続いている。これまでの考えをひっくり返すような、また新たな発見があるかも知れないんだよね。楽しみで仕方ない。

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