泉川から甕原離宮を想う
2019年11月17日日曜日
10:19
京都府木津川市には、聖武天皇が平城京より遷都した
続日本紀に、
和銅六年六月乙卯(23日)行幸甕原離宮。とあり、元明天皇こと阿閇さまがこの離宮に、少なくとも4度行幸なさったことがわかる。
和銅七年二月己卯(22日)行幸甕原離宮。
霊亀元年三月壬午朔(1日)車駕行甕原離宮。
霊亀元年七月己丑(10日)行幸甕原離宮。
岡田鴨神社から元来た道を戻り、さっきは前を通り過ぎた恭仁大橋へ。木津川沿いの眺めを見るためだ。
木津川はその昔、泉川と呼ばれた。万葉集などに詠まれているほど、風光明媚な流れ。その泉川沿いの地域を
橋から真下を覗き込むと、濁った水が見えて、残念ながら清流とは言い難い。とはいえ、自然というものは大きく変わらない。奈良時代に阿閇さまが眺めたであろう景色は、きっとこんな感じだったんだろうな……と、想像するには事足りる。
近くに美しい川のある離宮に通い詰めた女帝といえば、持統天皇。持統天皇が吉野宮と
古代の風景を心に思い起こし、焼き付けた。
続いて、甕原離宮の参考地を示す石碑を確認しに向かう。橋を渡らず戻り、川沿いのセンターラインのない道路を、西へと歩いた。
この辺は眺望があるからか、ランニングやウォーキングをする人と何度か出会った。スポーツサイクルで走る人たちともすれ違った。鷺もいるし、瀬もある。確かにここ、気持ちが良い。予め買っておいたコンビニのおにぎりを頬張りながら、時折写真を撮りつつ、てくてく。
県道47号に合流すると、南側にだけ歩道があったのでそちらに渡った。陽が照っていて、歩いていると暑くなってきた。ダウンジャケットをリュックに仕舞う。ハイネックのロンTだけで丁度良いくらい。
新しそうな水門の横を過ぎると、歩道も中央線も無くなった。扁額に勝手神社と書かれた赤い鳥居を横目に、さらに進む。もう川は見えず、大野山に沿うような路だ。
しばらくすると中央線が復活。しかし路肩は無いに等しく、白線の上を歩かざるを得ない。交通量はさほど多くないものの、車が体のすぐそばをビュンビュン飛ばしていく。歩くのがちょっと怖いくらい。ああ、一人で良かった。こんなとこ、嫁を連れてくるわけにいかないよ。
恭仁大橋から約4キロ、ようやく目的の石碑を見つけた。雑草に覆われて下半分がまったく読めないが、『甕原離宮國分尼寺遺阯参考地』と刻まれているらしい。甕原離宮の字が確認できるだけで、僕には十分だよ……。
阿閇さまは、甕原離宮への記録上最後の行幸の数か月後に譲位している。上皇となってからの行幸は、記録にないだけで、もっと繰り返していたのかも知れないなぁ。
知らなかったら見逃すし、判読も難しいよね、これ。
反対車線側に資材置場があって、その前だけ路肩が広く、安全確保できたのも幸いだった。ただの碑だけど、しばらく立って見つめていたかったから。
駅のほうへ戻る途中、『法花寺野』と書かれた交差点で曲がる。
甕原離宮は、明確な遺構が見つかっていないので、瓦などが出土した法花寺野集落あたりと推定されている。川と山に挟まれ、ぽっかりと開けた集落は、確かに何かが建っていたと匂わせる。
何もないのは解っているけど、ぐるっと通ってみた。茶畑や民家があるだけの、のどかな場所だ。少し土地が高くなっているので、山を拓いたんだろうか。
先程の石碑にあったように、離宮跡という以外に、山城国国分尼寺跡という説もある。国分尼寺の正称は法華滅罪之寺。地名に“法花寺”とあるってことは、少なくともこの地名になった当時、ここに国分尼寺があったと認識していたってことだよね。
勝手な想像だけど、法花寺+野だから、地名が付いた時点ではすでに寺は無く、野だったってことなのかなぁ。だとすると、本当に寺があったかは判らないわけで。
なんにしても、地名がどのくらい古いものか知りたいな。住宅の下を発掘なんてできないから、遺構の発見は難しいだろうし、せめて地名のことぐらいは。
時計を見やると、9時45分。計画した時刻ピッタリ。ひえ~、結構ギリギリじゃないか。全然余裕ないぞ。駅までペースを落とさず戻った。加茂エリアだけで9キロ近く歩いたな。