弘法大師の霊水から失われた地名を考える

2017年3月19日日曜日 18:14

南毘都麻ナビツマ伝説最大の謎は、所在地不明の『廝御井かしわでのみい』。この失われた地名に、おこがましくも新説を唱えてみようと思う。
播磨国風土記に、
(景行天皇は)遂に赤石郡あかしのこおり廝御井に至り、神饌を捧げる神事を行った。
とある。また、播磨国風土記の逸文に、
明石駅家あかしのうまや。仁徳天皇のお食事にと駒手御井こまでのみいの水を汲んだ。
とある。ナビツマ伝説とは無関係の逸文まで引き合いに出すのは、『廝御井』の位置を比定するにあたり、『駒手御井』の位置もヒントになるからだ。

まず、従来の説を整理する。
明石市史では、「魚住町清水か」としている。これを掘り下げて調べてみたところ、野中の清水という湧水があると判明。古今和歌集に詠まれるほど古来より湧き、明石市魚住町清水の地名の由来ともなっている。しかもその地は神戸市西区岩岡町野中に、野中の清水公園として整備されて現存する。
田井恭一氏は、著書『「播磨国風土記」の謎に迫る』で『廝』の字は“くりや”と読むとしたうえで、明石市の大蔵谷に比定している。

次に、ナビツマ伝説における景行天皇の足取りを追っていこう。
都を発った天皇は、摂津国の高瀬の済から船を出し、播磨国の廝御井に着き、阿閇津(兵庫県加古郡播磨町本荘の阿閇漁港)、御坏江(兵庫県加古川市別府町港の別府港)、榭津(兵庫県加古川市尾上町長田あたり)と港や入江を辿っている。つまり、海路を採っていると考えるのが自然。
これらの比定地をより強固にするために、古代播磨の海岸線について考えてみる。現代の海岸沿いは埋め立て地が非常に多いので、本来の海岸線がもっと内陸にあるかも知れず、それ次第では各港の比定地が間違っていることになってしまう。だからそこを潰していく。

回り道になるようだが、結果的に旧山陽道について調べたことで、それが叶った。
古代山陽道の駅家は明石あかし駅,邑美おうみ駅,賀古かこ駅と続いていく。明石駅家はこれまで太寺たいでら廃寺が比定地とされてきた。
2014年のことであるが、明石市教育委員会による『明石市大蔵中町における市道整備事業に先立つ埋蔵文化財発掘調査成果』において、大蔵中町遺跡から瓦積井戸3基が見つかったと発表した。瓦の多くが奈良時代の播磨国の公的施設で使われていた物であったことから、明石駅家が近くに存在するのではないかとしている。
旧山陽道の明石駅家が大蔵中町にあったとすると、少なくともそこまで陸地であったということ。思った以上に現在の海岸に近い。となると、先述の阿閇津や御坏江、榭津の比定地が現実味を帯びてくる。

ここらで従来説を否定してしまおう。
野中の清水説は大変魅力的な説となったが、如何せん海岸からも旧山陽道からも遠過ぎる。
明石市の大蔵谷説については、大蔵中町で発見された井戸こそ明石駅家の『駒手御井』であり、それを指すことになる。

ここでひとつの仮説が立つ。明石市大蔵中町から播磨町までの間に、『廝御井』はあったのでは、と。
『廝』の字を“かしわで”ではなく“くりや”と読むとする説は不自然ではない。明石で“くりや”といえば……御厨神社みくりやじんじゃ!その場所は明石市二見町東二見と、上記地域に合致するじゃないか。
神社の由緒に井戸に関する言及は無い。ならばと、この周辺に湧水があるか調べたところ、弘法大師の霊水という名水が存在する!

というワケで、御厨神社と弘法大師の霊水を、この目で確かめるべく行ってみた。大中遺跡からはすぐそこだ。


御厨神社は旧浜国道に面して鎮座し、参拝者用駐車場が鳥居前と境内北東にあった。


拝殿にて拝礼。御祭神は応神天皇,菅原道真,スサノオ。
社伝によると、神功皇后の三韓征伐の際、二見浦に船を停泊していたときに、土地の者が食物を奉ったといい、それにより御厨と名付けられたとされる。厨とは台所のことだ。


拝殿に帆前船の絵馬が奉納されているのも見たし、この付近に港があったと考えて良さそうだ。
ただひとつ注意したいのは、現在の社地には11世紀頃に遷座してきたということ。ここより少し南東の海に近い場所にある、君貢神社きみつきじんじゃが元宮だという。

ではいよいよ湧水の出ている所へ向かう。
御厨神社から徒歩5分。住宅街の中の墓地の隣に、それは在った。


弘法大師の霊水。


清く澄んだ水だ。


周囲の道路から一段下がった所にあり、そばには大師の像が立つ。実に不思議な空間だ。
言い伝えによれば、空海がたまたまこの地を通った際に、水に困っている住民のため、杖で山裾を突くと清水が湧き出したとか。数多の伝説を持つ空海なれば、さもありなん。

材料が出揃ったところで、結論を出そう。

御厨の名が起こったのは神饌を奉ったからだが、お食事を用意するのに必要なものは、水だ。どこで調達するかといえば、近くに井戸があったと考えるべき。それが現在、弘法大師の霊水として伝わっているのではないか。御厨神社・弘法大師の霊水・君貢神社の位置関係をみても、湧水は両神社どちらからでも数百メートルの距離で、そう考えてもおかしくない。
榭津と御坏江、御坏江と阿閇津の距離感と、阿閇津と弘法大師の霊水の間も、だいたい同じくらいだということを、付け加えておく。ほぼ一定間隔に、景行天皇は神事を行っていったと捉えることができる。

ナビツマ伝説の主人公・景行天皇は(実在するとして)1~2世紀の人物。神功皇后でも3世紀。8~9世紀の僧侶である空海とは、数百年も離れている。しかし播磨国風土記の成立は8世紀初頭で、一気に空海の時代に隣接する。当時『廝御井』という地名と井戸は存在していたのだから、空海の逸話が後付けだとすれば、弘法大師の霊水こそが『廝御井』といえるのではないか!港近くという条件にも符合する。

『廝御井』を明石市二見町東二見の弘法大師の霊水に比定する。これが結論。どうだろうか……それなりに筋は通っていると思うのだけど。
保険を掛けるつもりじゃないけど、ぶっちゃけ、この説が正しかろうが誤っていようが、ここまで推論を重ねてきたこと自体が、メチャクチャ楽しかった。そしてそれを実際に見に行ったことも。
大蔵中町遺跡のように、考古学的進展がみられれば途端にひっくり返ることだってある。でもそれも含めて、古代史の醍醐味さ。

もはや旅行の範疇を逸脱している気がしないではない。しかし、知らない土地を訪ね歩くことは旅行そのもの。考察の色が濃いとはいえ、頭の中だけでこねくり回しているだけじゃない。現地に行って確認しているのだ。と自分に言い訳しておこう。
最近変なところに行く機会が増えてるけど、こんなところがあるんだ~って嫁は結構楽しんでくれてる。毎度ながら有り難いよ。

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