鹿島神と香取神について自分なりに整理してみた
2023年9月15日金曜日
00:00
茨城県鹿嶋市の
『常陸国風土記』
先に結論を言ってしまうと、香島天之大神=鹿島神=タケミカヅチ、普都大神=香取神=フツヌシとの理解でいいと思う。ただしここに、春日大社の第一殿に鹿島神・第二殿に香取神をお祀りする藤原(中臣)氏だけでなく、多氏・物部氏による東国経略も関係するから複雑怪奇なのだ。
中臣氏の祖神がアメノコヤネであることは、『古事記』にも『日本書紀』にも書いてある。なのになぜ春日大社の第一殿がタケミカヅチで、アメノコヤネは三番目に過ぎないのか。石上神宮のフツノミタマは物部氏の氏神とされるけど、フツヌシと関係するのか、するとすればなぜ春日大社第二の祭神となっているのか。
まず前提として、氏族の奉斎する神として「
と、その前に、「祖神」と「氏神」の関係として、中臣(藤原)氏の祖神がアメノコヤネで氏神がタケミカヅチであり、物部氏の祖神がニギハヤヒで氏神がフツノミタマであるように、奈良時代における認識として、「氏神」に氏の祖先というような意義が微塵も含まれていないことに、注意しなければならない。
以下、煩雑さ回避のため、『古事記』は『記』、『日本書紀』は『紀』として、神代巻なら『神代記』、『神代紀』などと表記する。
では多氏。祖神が神武天皇の皇子の
九州では、『景行紀』十二年条に、
多臣(多氏)の祖のとある。武諸木 ・物部君(物部氏)の祖の夏花 らが派遣された。
東国では、『常陸国風土記』の
建借間命はタケカシマノミコトと読み、「カシマ」を含むのが示唆的。那賀国造が多氏の同族なのは『記』で確認したけど、当地の里が割かれて後に
建借間命の軍勢が、
毎年の春と秋に宴をし歌い舞うのがという。つまり建借間命は、九州から常陸国へ遠征させられた将軍なのだ。杵島曲 だ。
『肥前国風土記』杵島郡条(逸文ではない)に、
景行天皇の船がこの郡の村に停泊した時、カシ(船をつなぐ杭)の穴から冷水が自然と流れ出たので、とある。香島(鹿島)の地名「カシマ」も「カシ・シマ」に由来するとされる。牂㢦島 の郡と名づけたといい、今は訛って杵島郡というのだ。
鹿島の地は霞ヶ浦に面した水上交通の要衝。鹿島の分社が海岸に沿って東北地方に鎮座することから、
鹿島神の神格が海上安全にあることは、『常陸国風土記』香島郡条から読み取れる。ヤマトタケル天皇の世のこととして、
(香島)天之大神が、中臣という。鹿島神は船を自在に操れるわけだ。臣狭山命 の船を海の中や岡の上に置くことを繰り返したので、臣狭山命は恐れ畏んで新たに船三隻を奉納した。
中臣の名が出たところで、中臣氏に話題を移そう。祖神アメノコヤネは、『記』での
『常陸国風土記』香島郡条に、
とあり、鹿島神と天皇との間でも中臣氏は職掌を全うしている。天津大御神 から下された神託の意味を、崇神天皇が多くの部族の長を集めて尋ねたところ、大中臣神聞勝命 が答えた。
『
中臣連の姓を初めて賜る(元は卜部)。とあり、中臣連の
系図だけでは弱いけど、『続日本紀』天平十八年条に、
常陸国鹿島郡の中臣部・占部に中臣鹿島連の姓を賜った。とあり、中臣部と占部(卜部)に同族意識のあったことが窺われる。『常陸国風土記』香島郡条で、
神社の周りは卜部氏の住む所。といい、この卜部こそが中臣氏の前身集団ではないかと。
中臣氏常陸国出身説は鹿島神を奉斎する卜部が根拠だけど、他に河内国出身説、豊前国や対馬国とする九州出身説もある。この場合、九州の多氏の下で卜占に従事していた中臣氏が、多氏の東国遠征に伴って移住してきた可能性があるわけだ。鹿島神との関係を紐解く上では関連が薄いので、今は深入りしないけど。
『垂仁紀』の神祇祭祀を怠らないようにとの詔を受けた五大夫たちの中に、中臣連(中臣氏)の祖として大鹿島という人名が登場することからも、中臣氏と鹿島の関係の深さを示唆しているように思う。
時は流れて孝徳天皇の世、『常陸国風土記』香島郡条に、
大化五年、とある。いつの間にか、多氏の下にいたであろうはずの中臣氏が祭祀の中心にいる。中臣□子 ・中臣部兎子 らが総領に願い出て、下総 国海上 国造の所轄の里一つと、那賀国造の所轄の里五つとを割いて、神郡 を設置し、香島天之大神にちなんで郡の名とした。
多氏から中臣氏に取って代わった理由を説明した論考は、見つけられなかった。常陸国における多氏の存在が無視できないのは確かだけど、なぜかフェードアウトしていてスッキリしない。ここは疑問が残る。
『
『常陸国風土記』逸文によれば、孝徳天皇の世のこととして、
白雉四年、物部とある。下総国の香取郡と隣接する地域にも、物部氏の拠点があったわけだ。河内 ・物部会津 らが総領に願い出て、筑波郡と茨城郡の一部を割いて、信太郡を設置した。
『常陸国風土記』信太郡条に、
天地の初めに天より降った神である普都大神が、葦原の中つ国の平定を終えて、身に着けていた武器をすべて取り外して天に還った。とある。物部氏が討伐に際して奉斎していた氏神が、この
物部氏の氏神を語る上で、
五十瓊敷命は皇族であり、天皇の命で神宝を管理していることからも、石上神宮はあくまでも王権の奉斎する神宮だということ。物部氏にとっての石上神宮の祭神は、氏神だということでもある。
『紀』には別伝として、
剣はまずとある。「物部」ではあるけど「忍坂 に収め、その後、石上神宮に移した。この時に神が、春日臣の同族の市河に治めさせるよう命じた。市河は物部首の祖。
『垂仁紀』にはその後、
五十瓊敷命が老いを理由に、妹に神宝の管理を任せようとしたが、妹は辞退して、物部とあり、これが、今も物部連(物部氏)らが石上の神宝を管理している由来だという。石上神宮の神宝の管理者は、物部首なのか物部連(物部氏)なのか。十千根大連 に授けて治めさせた。
そもそも物部氏は、崇神朝に疫病が流行した時に、その祖のイカガシコヲが祭器を作製したことが『記』『紀』にみえるように、王権の祭祀に関わる集団であり、それらを統率する立場にあったと思われる。となれば、物部連(物部氏)と物部首は、職務上の上下関係をもって、両者が石上神宮の祭祀に当たったと考えていい。
視点を香取の地に向けよう。『続日本紀』
物部氏の氏神が、石上神宮の祭神フツノミタマであることに疑いがなく、東国で物部氏が奉斎していた氏神が
ところで、香取神がフツヌシで、鹿島神がタケミカヅチだとは、『記』『紀』では一切語られない。この関係を明記した初出が『古語拾遺(大同二年(807)
香取神を考える上でややこしいのが、イハヒヌシの存在。『神代紀』第九段一書(第二)に、
フツヌシ・タケミカヅチが葦原の中つ国を平定した時、二神はとある。天津甕星 という悪神をまず討伐しようと言って、この時、斎主神を斎之大人といった。この神は今、東国の楫取 の地にいる。
楫取は香取のことでいいとして、香取神のことを
イハヒヌシとフツヌシは別神なのかと混乱してくるけど、『春日社私記(永仁三年(1295))』に、
斎主命 経津主明神 正一位とあるのを見つけた。香取神がフツヌシとされるのは江戸期に入ってからとする説があるけど、遅くとも鎌倉後期にはその認識があったということ。恐らくもっと遡れるだろう。
イハヒヌシがフツヌシの別名に過ぎないのだとしたら、なぜイハヒヌシのほうで呼ばれるのか。これを紐解くには、フツヌシとタケミカヅチの関係を明らかにする必要がある。『記』『紀』から抜き出した二神の事績を、ある意図をもって並び変えてみよう。
『神代紀』第五段一書(第七):カグツチの血が岩群を染めて成った神の子孫からフツヌシが現れる。タケミカヅチは現れない。高天原の司令神は、元はタカミムスヒだけだったとする説がある。これに従えば、アマテラスは後から加わったことになる。タケミカヅチは、そのアマテラスと一緒にしか登場しない。となると、フツヌシだけが天降りする話が、原形に近いのかもしれない。
『神代紀』第五段一書(第六):カグツチを斬った剣の刃から滴った血がフツヌシの先祖に成る。また剣の鍔から滴った血がタケミカヅチの先祖に成る。異説としてタケミカヅチも成ったとする。
『神代記』:カグツチを斬った剣の手元に付いた血が岩群に付いて成った神の中にタケミカヅチがいる。別名を建布都 神・豊布都 神ともいう。
『神代紀』第九段本文:タカミムスヒが神々を集めて葦原の中つ国に派遣する者としてフツヌシを選ぶ。そこへタケミカヅチも名乗り出てきたので、フツヌシに添えて向かわせた。
『神代紀』第九段一書(第一):アマテラスがタケミカヅチとフツヌシを派遣する。
『神代記』:アマテラスが天鳥船 神をタケミカヅチに添えて派遣する。
『神武紀』:アマテラスがタケミカヅチに下るよう命じたが、タケミカヅチの剣を下すことになり、高倉下 に「私の剣の名はフツノミタマ」と言う。
『神武記』:アマテラスとタカミムスヒがタケミカヅチに下るよう命じたが、タケミカヅチの剣を下すことになる。剣の名はフツノミタマの他に佐士布都 神・甕布都 神ともいい、石上神宮に鎮座しているという。
タケミカヅチは生まれ方がフツヌシに似ていたり、別名に「フツ」が付いたり、逆にフツノミタマの別名に「ミカ」が付いたり、二神を同一神化していっているように見える。神武東征に至っては、フツノミタマはタケミカヅチの剣になっていて、格下げされた印象さえある。
フツヌシがイハヒヌシ(祭祀を行う人)と一段下げたような呼ばれ方をするのも、タケミカヅチとの関係と同じものを感じる。事実、『続日本紀』宝亀八年条に、
鹿島社に正三位、香取神に正四位上を叙位した。とあるように、神階に差を付けられている。
では鹿島神を上位に、香取神を下位に位置付けたのは誰か。ここまでくると、中臣(藤原)氏と考えるのが自然だろう。中臣氏が常陸国出身なら鹿島神は元々氏神だろうし、九州出身だとしても多氏の下で鹿島神の祭祀に携わっていたと考えられる。いずれにしても、中臣氏の最も信仰する神は鹿島神だろう。
中臣氏が常陸国在地の氏族だとしたら、物部氏の東国進出により配下の卜部として香取神の祭祀にも関わるようになったと考えられるし、九州から移ったのだとしたら、物部氏は多氏や中臣氏より後に東国へ遠征し、香取神を奉じたことになる。中臣氏の淵源がどちらにあるかは、ここでは問わない。
ただ、『神武紀』に、
筑紫国の菟狭(宇佐)に着いた時ウサツヒコ・ウサツヒメに歓迎され、中臣氏の祖のとある。『中臣氏系図』にある、天多祢伎命(天種子命)の子の天種子命 にウサツヒメが賜われ妻とした。
天種子命の話は『記』には無く、わざわざこんな記事を入れるということは、中臣氏のルーツが九州にあることを示しているんじゃないかと考えさせられる。
なお、中臣氏河内国出身説はやや否定的に見ている。中臣氏と常陸国の関係が密接なのは明らかで、河内国の中臣氏との同族意識が希薄に感じるから。多氏とともに一部が畿内へ移ったか、東国の物部氏に連れられて物部氏の本拠に近い河内国に移住してきたかのどちらかが、河内国の中臣氏ではないかと。
伝説ではなく史実と考えられる人物で、中央でまず活躍した中臣氏は、中臣
『常陸国風土記』
藤原内大臣(鎌足)のとあり、鎌足と常陸国の縁を物語っている。『大鏡』などの鎌足常陸国出身説は、こうしたことが背景にあり、鎌足の祖先の話が本人のこととして結び付いていったんだろう。封戸 (貴族の給料)を調べた。
丁未の乱により物部守屋・中臣勝海が討伐され、物部氏・中臣氏の両本宗家は滅亡。傍系だった常陸国の中臣氏が中央に進出し、本家の拠点である河内国の枚方も治めていったとみられる。物部氏も滅んだわけではないけど、その後
中臣氏本家から祖神アメノコヤネの祭祀を引き継ぐ一方、勢いの衰えた物部氏に代わり、香取神の祭祀も中臣氏が掌握。奈良時代に入り、蝦夷征伐の拠点として鹿島・香取が重視され、遠征軍の精神的支柱として鹿島神・香取神は存在感を強めていくと同時に、武神として篤く崇敬されていったと考えられる。
『続日本紀』宝亀八年条に、鹿島社と香取神への叙位があったと前述したけど、これは藤原朝臣
香取神宮の宮司家は物部系の香取連だったことも先述したけど、『香取系図』によれば五百島の代で子がいなくなり、大中臣清暢(清麻呂)を養子に迎え、大中臣に改姓したという。こうして香取の宮司家も中臣系に置き換わった。清麻呂は『続日本紀』神護景雲三年条にて大中臣朝臣の姓を賜った神祇官で、元は中臣。
前述の通り、香取神がフツヌシで、鹿島神がタケミカヅチであると『古語拾遺』が初めて明記したわけだけど、これは著者の勘違いなんかではなく、香取神をイハヒヌシとして祀る中臣(藤原)氏に対する批判であると考えられるんじゃないかな。
香取神フツヌシは、フツノミタマ剣を神格化した存在であり、
『筑後国風土記』逸文に、
筑紫君と肥君たちが占いによって、筑紫君たちの祖であるとある。多氏の同族の肥君らの祖に甕依姫がいて、この「甕」が祭具だとしたら、多氏が中臣氏とともに奉斎した氏神は、水神・甕神だったんじゃないか。甕依姫 に、荒ぶる神を祭らせた。
鹿島神の元はさておき、タケミカヅチは雷神であると考えられている。古代の人は雷は船に乗って空と地上を行き来したと考えたそうで、タケミカヅチが天鳥船神とともにやってくるのは、そうした思想の反映だろう。
蝦夷討伐は海路から行われており、鹿島の水神と香取の武神を奉じて遠征していくうちに、鹿島神にも武神としての性格が強まっていくのは、自然なことじゃないかと。水神と雷神の性格は近しいものがあるので、武神としての素地もあったといえるかもしれない。
鹿島・香取の武神としての功績が上がるのと前後して、中臣(藤原)氏の力も増していっただろう。そういう文脈から、春日大社の四柱を見たらいいんじゃないかな。
まとめ。
鹿島神宮の鎮座する鹿島郡は、九州から来た多氏が治めていた土地だったが、多氏から中臣氏の土地に変わった。鹿島神は中臣氏にとっても大切な氏神。元来は海上安全の神で、タケミカヅチという名前ではなかったかもしれない。
香取神宮の鎮座する香取郡に隣接する地域は、物部氏が治めていた土地であり、おそらく香取郡も同様。香取神は物部氏の氏神で、物部氏などとの関係からフツヌシと考えられる。
中臣氏の最も信仰する神がタケミカヅチ、第二にフツヌシ、鎌足の系図と直結しない祖神のアメノコヤネとその姫神はその次。
物部氏の氏神の石上神宮のフツノミタマ、これを神格化したのがフツヌシ。物部氏の衰退に伴って中臣氏がその祭祀の中心を担うようになったため、春日大社第二の祭神となったと思われる。
繰り返しになるけど、あくまで諸説ある中から自分なりに整理してみたに過ぎない。上記と矛盾する説も当然あるし、そちらにも一定の説得力がある。だけど、一旦は納得した上で参拝したかったんだよね。
さあ、これらを踏まえて、東国三社詣へ向かおう。
【参考文献】
太田亮「多物部二氏の奥州経営と鹿島香取社」『日本古代史新研究』磯部甲陽堂,1928年
大和岩雄『中臣・藤原氏の研究』大和書房,2018年
久信田喜一「古代常陸国鹿嶋郡鹿嶋郷について」『茨城県立歴史館報 (24)』茨城県立歴史館,1997年
志賀剛「香取・鹿島・春日神社の関係」『式内社の研究 (6)』雄山閣,1984年
篠川賢『物部氏 古代氏族の起源と盛衰』吉川弘文館,2022年
津田左右吉「上代の部の研究」『日本上代史研究』岩波書店,1930年
直木孝次郎「物部連に関する二、三の考察」『日本書紀研究 (2)』塙書房,1966年
三品彰英「天孫降臨の物語」『三品彰英論文集 (1) 日本神話論』平凡社,1970年
横田健一「中臣氏と卜部」『日本古代神話と氏族伝承』塙書房,1982年
太田亮「多物部二氏の奥州経営と鹿島香取社」『日本古代史新研究』磯部甲陽堂,1928年
大和岩雄『中臣・藤原氏の研究』大和書房,2018年
久信田喜一「古代常陸国鹿嶋郡鹿嶋郷について」『茨城県立歴史館報 (24)』茨城県立歴史館,1997年
志賀剛「香取・鹿島・春日神社の関係」『式内社の研究 (6)』雄山閣,1984年
篠川賢『物部氏 古代氏族の起源と盛衰』吉川弘文館,2022年
津田左右吉「上代の部の研究」『日本上代史研究』岩波書店,1930年
直木孝次郎「物部連に関する二、三の考察」『日本書紀研究 (2)』塙書房,1966年
三品彰英「天孫降臨の物語」『三品彰英論文集 (1) 日本神話論』平凡社,1970年
横田健一「中臣氏と卜部」『日本古代神話と氏族伝承』塙書房,1982年