鹿島神宮

2023年9月15日金曜日 11:07

鹿島神宮かしまじんぐうは、茨城県鹿嶋市にある神社。御祭神はタケミカヅチ。鹿島神と香取神の詳細については、別途整理した通りだ。
『延喜式神名帳』に記載のある神社の中で、伊勢の太神宮を除けば、“神宮”の名を冠しているのは鹿島神宮と香取神宮のみ。このことから、いかに特別な存在か推し量れるというもの。全国の鹿島神社の総本社であり、東国一の大社ともいわれるお社を参拝してきたよ!
ちなみに、『記』『紀』においてはフツノミタマを御祭神とする石上神宮も“神宮”が付いているけど、『神名帳』では「石上坐布都御魂神社」との名で記されており、奈良時代と平安時代中頃とでは、“神宮”に対する認識が変わっているのかもしれない。

さて、ディズニーランドホテルを離れた僕らは、タクシーでトヨタレンタカー浦安やなぎ通り店まで。旅先まで自家用車を運ぶのはタイムロスが大きいので、レンタカー利用が現実的。どうせなら同じ車種のほうが扱いやすい。そう考えて予約したんだけど、用意された車が色まで同じだったのには思わずニンマリしてしまった。さすがにグレードやカーナビは違ったけど、予めリストアップしておいたマップコードを入力すれば、目的地設定もスムーズ。慣れた操作でドライビングポジションを作ったら、出発だ。
東京湾岸道路に合流し、右車線のランプから東関東道に入る。四街道IC付近から成田JCT付近までは、最高速度規制が120km/hになっているのには驚いた。法定最高速度は100㎞/hとの認識だけど、例外的にそれを超える区間もあるんだね。その規制に納得の走りやすさ。
東関東道を潮来ICで下りる。これで「いたこ」と読むのか。『常陸国風土記』の行方郡にある「板来いたく村」、「伊多玖いたく郷」の遺称地なんだろうけど、軽く調べてみたら、元禄十一年(1698)水戸藩主徳川光圀が、常陸の方言で「潮」を「いた」と言うことから「潮来」に変えさせたとか。割と勝手だねぇ。
1時間ほどのドライブでスーパーホテル鹿嶋に到着。若いフロントマンがやけに張り切っていた。近くのコンビニで調達したビールとおつまみで、自分のスイッチをオフに。


翌朝、7時起床。軽く朝食を摂ったら、まずは大船津の一之鳥居へ。鹿島神宮西の一之鳥居にあたる。水上の鳥居としては日本最大級らしい。短時間だけ土手の前のスペースに車を停めた。
いわゆる霞ヶ浦は、霞ヶ浦(西浦)・北浦・鰐川・常陸利根川の総称。『常陸国風土記』には「流海」などと記され、現在よりも海が内陸部に深く入り込む、大きな入江の一部だったという。せっかく常陸国を訪れるんだから、見ておきたかったんだよね。連日の晴天に感謝。

鹿島神宮の駐車場には9時前に着いたけど、早くも多くの車が詰めかけていた。さすがは関東有数の神社。
大鳥居は2014年に境内の杉の木を用いての再建。これと御手洗池口の旧鳥居は東日本大震災で倒壊したものの、他にはほとんど被害が出なかったといい、鳥居の結界で守られたといえるかもしれない。


鳥居をくぐって参道の脇に、面白いものを見つけた。境内案内などを参照できるタッチディスプレイだ。由緒ある神社で新しい技術が導入されていると、ワクワクするね。ここに力を入れられるのも凄い。


寛永十一年(1634)建立の楼門は、福岡の筥崎宮、熊本の阿蘇神社と並ぶ日本三大楼門の一つ。扁額は東郷平八郎の直筆だとか。武神としての信仰の篤さが窺える。
令和の大改修の真っ只中とあって、楼門の左右の建物が素屋根で隠れていた。


本宮の前に、摂社の高房社たかふさのやしろをお参り。御祭神はタケハヅチ。
『日本書紀』によれば、フツヌシ・タケミカヅチが葦原の中つ国を平定した時、最後まで従わなかった星の神カカセオを服させたのが、タケハヅチだ。タケミカヅチという名前を考察するにあたり、気になる存在でもある。


拝殿もすっぽり覆われて見えない。下調べの段階でわかっていたことだけどね。拝礼するのには支障がない。


サイドに回り込めば、本殿と背後の御神木が良く見える。本殿は三間社流造。装飾が華やかだね~。
東西に延びる参道に対し社殿は横を向いており、北の蝦夷えみしににらみを利かせているといわれる。鹿島神は陸奥遠征の要だったからね。十分あり得る話だと思う。


それから奥参道へと進む。道幅が広いながらも社叢の影が落ちて、とても良い雰囲気。NHKの時代劇ドラマ「塚原卜伝」のロケ地になったそうだ。


その先に鹿園。春日大社の由緒を伝える『古社記』によれば、タケミカヅチは鹿に乗って鹿島神宮から大和の御蓋山に鎮座したという。でもここに現在いる鹿たちは、むしろ春日大社の鹿の子孫を受け継いでいるとか。鹿島から大和へ、そして再び大和から鹿島へ、ということか。


旧本殿を移築したという奥宮。タケミカヅチの荒魂をお祀りする。飾りは控えめだけどカッコいい。


続いて要石かなめいし方面へ。すると、大ナマズを制するタケミカヅチの彫像が。こういうわかりやすいオブジェがあると嬉しくなる。
大地の下で大ナマズが暴れると地震が起こるという民間伝承は、いつごろ生まれたか判然としないが、江戸時代ごろとみられる。


そのあとうっかり要石を通り過ぎるというポカをやらかし、戻ってきた。嫁を無駄に歩かせてしまって申し訳ない。


気を取り直して、要石について。地震を起こすナマズの頭を押さえているといわれる。
要石が地震を抑えているという伝説は、どうやら近世よりも遡る。鎌倉時代成立とみられる『鹿島宮社例伝記』に、
奥之院の奥に石の御座がある。これを俗にかなめ石という。金輪際に連なっているという。近江の湖の竹生島もそのようになっているらしい。だから竹生島は地震にも動かないという。
とある。金輪際とは仏教語で、大地の最下底、世界の果てのこと。鹿島と琵琶湖の竹生島は、大地の底と繋がる要石があるから、地震にも動揺しないのだと。
大地と繋がっているとされたものが、いつしかナマズの頭を押さえていることに転じたんだろうか。要石が、大地が揺れ動かないよう支えているという、観念としては変わっていないね。鹿島神の地震除け信仰は、思いの外歴史がある。


奥宮まで戻り、今度は坂をどんどん下って御手洗池へ。こちらも『鹿島宮社例伝記』に、
神官たちはこの神泉で身を清めてから、参詣し儀式を行う。
とある。
中世まではこの辺りまで船で往来できていたらしい。だからこの池で禊ぎをすることが、鹿島神宮参詣の起点になったわけだ。
昔はもっと奇麗だったという声があるようだけど、今も水底まで見通せるほど澄んでいる。鯉が泳いでいるのもハッキリ見えた。


この日も蒸し暑い。池のそばの『湧水茶屋 一休ひとやすみ』で一服することにした。
店内には扇風機しかなかったけど、案外涼しい。


三色だんごと梅ソーダを注文。三色だんごは、特製味噌で焼いたみたらしだんご、草だんご、きなこと黒蜜のきびだんごが一串になっていて、一つひとつが大きい上どれも美味。特にみたらし。とろっとした甘いタレのはあまり好きじゃないんだけど、これは味噌の風味があって気に入った。
梅ソーダは鹿島神宮の湧水で作っているそうだ。こちらも疲れた身体に染み渡る。そういえば、御手洗池の奥で湧水を汲んでいる人を見かけたなぁ。
僕たちは食べなかったけど、9時半開店でお蕎麦などの食事メニューを頼めるのが嬉しいポイント。


休憩できたところで坂を上り、楼門近くの授与所に寄ってみた。真新しい建物で、なんと空調完備。参拝客はもちろん中で働く人にも有り難い。


楼門から出て、坂戸社・沼尾社遥拝所へ。『常陸国風土記』に天之大神社・坂戸社・沼尾社の三所を合わせた総称が香島天之大神とあるように、三位一体の存在。叶うことなら坂戸神社と沼尾神社も詣でたかったんだけど、スケジュールの都合上断念。これほど遥拝所があって良かったと思ったことはないよ。中でも沼尾社は水神と考えられ、鹿島神の大本かもしれないお社だからね。


最後に、表参道の歩道にある親子鹿像「むつみ」を見物。筋肉の隆起した牡鹿の雄々しいこと。


次なる目的地へ向けて、車に乗り込み神宮橋を渡っていると、大船津の一之鳥居が見えた。厳密には、後方に見えるはずだから見てみて、と嫁に撮ってもらったものだけど。

茨城県初上陸、念願の鹿島神宮参拝を果たせた。今回はいつにも増してたくさん文献や論文を読んで勉強したけど、そういうものでは得られない感覚が、現地にはやっぱりあるね。良いお参りだった。

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