廣瀬・龍田詣でと御幸瀬ノ渡

2022年4月16日土曜日 15:49
廣瀬神社ひろせじんじゃは奈良県北葛城郡河合町川合にある神社で、龍田大社たつたたいしゃは同県生駒郡三郷町立野南にある神社。日本書紀の天武天皇四年四月癸末(10日)条に、
遣小紫美濃王、小錦下佐伯連廣足、祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖、大山中曽禰連韓犬、祭大忌神於廣瀬河曲。
とあり、以降、国家による廣瀬と龍田の祭祀は、同時一対で行われていく。だからこそ、両社をセットで詣でたい。
さらに、廣瀬には天武・元明の行幸伝承も残っている。これは行きたい。

奈良盆地を横切る大和川は、生駒山地と金剛山地との間を割って流れており、西からの強風が吹き抜ける通り道になっている。龍田大社は、その大和側の入口に位置する。大和の農作物に被害をもたらす強風を鎮めるために、「龍田風神」を祀ったんだろう。また、大和川沿いに河内と大和を結ぶ、龍田道という幹道も通っていた。
一方、廣瀬神社は、富雄川・佐保川・寺川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川など、多くの河川が合流する地帯にあり、水を司る神の居場所に相応しいといえるかも知れない。しかし、廣瀬の神は水神とは書かれていない。「廣瀬大忌神」であり、風神を「大いに忌む」ための神と考えられる。
廣瀬と龍田は、農耕と関わりの深い五穀豊穣を祈願する神であるばかりでなく、水陸交通の要衝に鎮座する神でもあった。律令体制の確立を目指す国家にとって、この二つの地域を押さえることが重要だったわけだ。

応募していた天平行列参加に当選したため、その事前説明会とリハーサルに出席すべく、急遽奈良行きが決定。奈良で行きたい所がまだまだ山ほどあるけど、計画を組んでいなかったし、先日かなりタフな旅行もしたしで、今回はゆっくり回りたい。特に、歩く距離を短めにしたい。
というわけでテーマをコンパクトにし、廣瀬・龍田詣でをすることにした。いずれも駐車場完備の大きなお社だ。
おうちでのんびり昼食を摂ってから、11時半頃出発。阪神高速神戸線にリニューアル工事による通行止め区間があるので、山陽道から中国道へと広域迂回をした。中国池田ICで一旦出て、阪神高速池田線に入る。松原線まで乗り継いで、西名阪へ。香芝SAでトイレ休憩したら、香芝ICで下りて北進。最後の最後にカーナビに変な案内されて回り道したけど、2時間ちょっとで着いた。距離的なロスは意外と少なかったけど、日中ということもあって時間かかったな。


龍田大社の鳥居前は、舗装された駐車場。停めやすくて有り難い。僕らのほかにも参拝者がちらほら。


拝殿にてお参り。御祭神はアメノミハシラ・クニノミハシラ。
吹き抜ける風が、吊り下げられた風鈴をチリンと鳴らして、なんとも心地よい。風の神さまをお祀りしているから、尚更それを感じる。


それにしても目を引くのが、拝殿の柱に巻き付く注連縄。これは珍しい。まさに龍だ。


東面している拝殿の横に回り込むと、南側にタツタヒコ・タツタヒメをお祀りする摂社があり、奥には祝詞殿、北側には末社が3つ。本殿は祝詞殿に隠れて、この位置からは見えない。


そこからさらに南にも、白龍神社・龍田恵美須神社・三室稲荷神社が並んでいた。鳥居の朱に新緑と青空のコントラストが美しい。

続いて、龍田大社から7キロほど東へ。


廣瀬大社の駐車場へのアクセスが少しわかりにくかったので、備忘のため記しておく。まず、一の鳥居を車に乗ったままくぐる。


すると、すぐに駐車場への道標が右手に見える。未舗装の区画が参拝者用駐車場で、舗装されている区画は隣接する企業のものだと思われる。
車を下りたら、改めて鳥居を一礼してくぐった。こちらにも参詣客がぽつぽつ。


鬱蒼とした杜の中の参道は、やっぱり清々しいね。途上の左右には、境内社がいくつか建っていた。


二の鳥居の手前には、大砲の展示が。日露戦争の戦利品らしい。今の世界情勢を鑑みてしまい、ウッとなる。


その先に拝殿。御祭神はワカウカノメ。
ここも青葉が映えるね。


本殿は春日造。朱が入っていてカッコいい。


だいぶ葉っぱが出てきていたけど、まだ桜が咲いていた。これはこれで綺麗。


さて、廣瀬大社から足を延ばして御幸橋のほうへ。参道の祓戸社に背を向けて西へ行き、廣瀬橋で不毛田川ふけたがわを渡る。川沿いの小径を北西へ進むと、御幸橋の袂に出た。


すぐそこの川合町の交差点の脇に、「御幸瀬ノ渡ごがせのわたし川合浜かわいはま跡」の案内板が立っている。
案内にもある『川合村諸色明細帳控』は享保9年(1724)9月の成立とみられ、その廣瀬大明神の条に、
行幸ハ天武天皇白鳳十三年甲申七月四日ニ当社并ニ竜田神社与共ニ行幸アリ(日本書紀)、此時ニ大河ニ橋ヲ渡ス、其旧跡ヲ行幸ノ瀬ト申ス。
とある。天武天皇が廣瀬・龍田に行幸した際、大和川を渡ったので行幸ノ瀬と名付けられたんだと。
案内には、
また、元明天皇が廣瀬神社に行幸の折に板橋を架け、廣瀬川(大和川)を渡られたことにちなんで、その橋を「御幸橋」と呼び、後世に橋が無くなり舟で渡すようになると「御幸瀬」と呼ぶようになったとも伝えられています。
と併記されているものの、こちらの典拠は不明。口伝かも知れない。なんにせよ、阿閇ちゃん由来との伝承があるわけだ。
天武朝に祭祀が恒例化し、持統朝には欠かさず使者を派遣した廣瀬・龍田。続日本紀に記載は無いものの、文武・元明の代にも当然続けられただろうし、行幸することがあったとしても不思議ではない。記録に無いからといって、無かったことにはならない。こうした伝承が生まれた背景があるはずなのだ。そこにロマンを感じるんだよ。


御幸瀬はこのあたりだろうか。阿閇ちゃんもここを渡って廣瀬に行幸されたかも……と想像するのが楽しい。

静かで雰囲気の良いお社を巡って、川沿いを歩いて、とゆったりした時間を過ごせた。こういうのもいいね。

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