天智天皇陵と弘文天皇陵

2018年11月11日日曜日 09:16

天智天皇てんじてんのうは、通称の中大兄皇子で知られる第38代の天皇。中臣鎌足らと蘇我氏を討った乙巳の変、大化改新と呼ばれる一連の政治改革、庚午年籍の作成など、古代日本において新時代を切り開いた、中興の祖といえる偉人だ。
大友皇子おおとものみこは、天智天皇の第1皇子。壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇)に敗れた。即位したかどうか諸説あるが、明治に入ってから在位が認められ、弘文天皇こうぶんてんのうと追諡されている。漢詩に長けた文化人という側面もある。
飛鳥時代へのロマンを胸に、二人の御陵である京都市山科区の山科陵やましなのみささぎ、滋賀県大津市の長等山前陵ながらのやまさきのみささぎを参拝してきたよ。

珍しく今回は一人旅。主目的に嫁が興味ないことと、徒歩を余儀なくされる場所が多いことから、そうなった。
加えてメインの目的地付近で駐車場の確保が難しそうなため、『秋の関西1デイパス』を使うことに。最寄駅から京都までの往復だけで、元が取れてしまう。ただし、当日使用はできないので、事前に購入しておいた。
未明に家を発つ。一人なら自分の体力だけ考えて動けるのが利点。始発の快速に乗り、京都駅を過ぎて次の山科駅で下車。
地図をあらかじめ見て頭に入れておいたから、地下道で京阪山科駅の南まで出て、旧東海道を西へ。


途中、何やら歴史のありそうな石柱が目に付いた。『史跡 五条別れ道標』とある。道標の北面に「右ハ三条通」、東面に「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよ水道」と刻まれていた。
今歩いているのがまさに、かつての交通の要衝であったことを教えてくれている。旧道ってのもロマンがあるなぁ。
まばらにしかいない駅に向かう人たちは、誰も目に留めない。そりゃそうか。地元民にとっては、あるのが当たり前の物だもんな。
それにしても寒い。身震いする。


府道143号すなわち三条通にぶつかったら、道なりに北西へ。すると、住宅街の中で、木々の生い茂る場所が唐突に現れる。あ、ここだ。危うく通り過ぎるところだった。
……ん、そのまま進んで良かったような気がする……何か引っかかるものを感じた僕の勘は、当たっていた。でも御陵を見つけたことに安堵して、その勘を無視したのがいけなかった。なぜなら、この少し先に日時計碑があるのだ。地図を確認したときに目印にしたほどなのに、うっかり忘れてしまうことに。アホやな~。


橋の向こうは聖域。真っ直ぐに延びる参道に人影はなく、凛とした清浄な空気が僕の背筋をピンと正した。
こんな早朝に訪れる人はいないよね。お陰で清々しい。ここまで歩いてきたことで、体も温まりだした。


途中に門があった。ここからわずかに道が北に曲がっている。
また、この辺りにも台風21号の爪痕が。むき出しになった木の根を見ると、痛ましい。


天智天皇陵に到着したら、二礼二拍手一礼。ようやくご挨拶することが叶った。
日本書紀に天智天皇の埋葬に関する記事は無い。続日本紀文武3年10月13日条に、
為欲営造越智山科二山陵也。
同20日に、
遣~中略~浄広肆大石王~中略~於山科山陵並分功修造焉。
とあり、天智天皇のための山科陵を造営したということ。天智が崩御してから実に28年も経っている。
「修造」と表現しているので、御陵が無かったわけではないのだろう。ただ本格的な墳墓としては、この時整備されたとみられる。
天智天皇陵がこの山科陵であることは、他に候補となる墳墓がなく、考古学的にもほぼ間違いない。宮内庁治定には疑問のある陵墓が多いが、ここと天武・持統陵だけは別だ。
しかしながら、亡骸がこの地に葬られたかどうかは判然としない。それでも、ここから天智の偉業に想いを馳せたい。

山科での用を済ませ、駅に戻る途中、参道で犬の散歩している人を見かけたけど、それはよろしくないんじゃないの。公園じゃなくてお墓なんだからね。

JR湖西線で大津京駅まで行き、府道47号に出たら南下。日曜日だというのに、学生の姿がやけに目立つ。
交差点名などで気づいたんだけど、この辺『皇子が丘』っていうんだね。大友くん、メッチャ愛されてる感ある。地名としてはかなり新しそうだけど、なんだか嬉しいというか胸が熱くなるね。


不思議なモニュメントと参拝道の案内を見つけたところで、西に折れる。少し勾配がある道を登っていく。
迎賓館の前を曲がって再び南進。ずいぶんカクカクと回り道させられるな。市の建物をまるで避けているみたいだ。


参道を歩いてきたはずなのに、あらぬ方向に鳥居が立っていた。奥に道が続いているとしたら、三井寺みいでら新羅善神堂しんらぜんじんどうあたりに出るのだろうか。
三井寺は嫁とゆっくり回りたいので、今回はパス。


こんなところまで道が曲がっている。どうにも窮屈な場所に押し込められている印象。大友くん、ちょっとかわいそう。
場所は大津市役所の丁度真裏。


弘文天皇陵の前に立ち、拝礼。
日本書紀天武元年7月23日条に、
大友皇子、走無所入。乃還隠山前、以自縊焉。
とあり、大友皇子は山前で自害したと。この“山前”をどこに比定するか諸説ある。江戸時代後期の国学者、伴信友ばんのぶともらが唱えたのが長等山とする説で、長等山前陵はこれに従うものだろう。
山科陵と違い、こちらは大友皇子の御陵かどうか疑わしいと思う。でも、彼を思う場所のひとつとして、機能しているとも思う。少なくとも、大津の人たちに愛されている気がするじゃない。

晴れた朝の参詣は気持ちが良い。史跡と違って御陵は、歴史的な出来事よりも、人物そのものに対する気持ちを至らせてくれる。
大津エリアの“忘れ物”を取りに行った旅なのに、山科に日時計碑という“忘れ物”を置いてきちゃった。また行こう。

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