魚住住吉神社

2023年2月5日日曜日 21:41

兵庫県明石市魚住町中尾。昔、この辺り一帯は住吉大社の領地――神領しんりょうだったといわれる。それを証明するように、周辺には住吉大神を祭祀する神社が数多くある。
中でも魚住うおずみにある住吉神社は、海を望む風光明媚なお社だ。行きたいと前々から思いつつ、中々足が向かなかったのだけど、ようやくお参りできたよ。

平安時代成立とみられる『住吉神社神代記すみよしじんじゃじんだいき』(以下『神代記』)に、神領として「明石郡魚次浜一処」を挙げ、
右、自巻向玉木宮大八島国所知食活目天皇橿日宮気「帯」長足姫皇后御世、此二御世、平伏熊襲并新羅国訖賜、還上賜、大神奉鎮於木国藤代嶺、時荒振神令誅服賜、宍背鳴矢射立為堺。「我欲居住処、如向大屋、渡住於針間国」。即切大藤浮海、盟宣賜、「斯藤流着処、将鎮祀我」宣時、流着此浜浦。故、号藤江。
(明石郡の魚次浜なすきのはまは、垂仁天皇より神功皇后の御代に、熊襲と新羅国を平伏され、お帰りになって、大神を紀伊国の藤代の嶺(和歌山市伊都郡富貴村)に鎮め奉った。のちに荒ぶる神を討伐なさって、背肉に鳴矢を射立てて国境とされた。「私は、大きな家に向かうように、播磨国に渡り住みたい」とおっしゃった。そこで大藤を切って海に浮かべ、占って、「この藤の流れ着いた所に、私を祀りなさい」とおっしゃったところ、この浜浦に流れ着いた。それで、藤江と名づけた)
とある。
大神がまず祀られた「木国藤代嶺」は、和歌山県伊都郡高野町上筒香あたりとされる。

これと関連すると思われる説話として、『播磨国風土記』逸文にも、神功皇后(息長帯日女命)が西征時に諸神に祈った話が出てくる。
爾保都比売命~中略~乃鎮奉其神於紀伊国管川藤代之峰。
(ニホツヒメを紀伊国の管川つつかわにある藤代ふじしろの峰に祀った)
とあり、爾保都比売命は丹生都比売命(ニウツヒメ)と同神とみられる。

「藤代嶺」あるいは「藤代之峰」に、『神代記』は「大神」を、『播磨国風土記』は「爾保都比売命」を祀ったという。
また『神代記』は、「部類神」として「廣田大神」や「播磨国明石郡垂水明神」などと並んで「紀伊国名草郡丹生咩姫神子神」を記しており、神功皇后説話に関連する神々として、列挙しているように見える。一方、「子神」として「魚次神」がある。子神は支社くらいの意味だろうから、播磨国に住みたいと言って「魚次浜」に勧請された神を指している。
説話の流れとしては、「藤代嶺」に祀られた「大神」が、「藤」の流れ着いた所に渡り住んだという、「藤」に引っかけたものとみて良いだろう。

しかし判然としないのが、「大神」と「爾保都比売命」の関係だ。どちらも同じ話のように読めるのに、『神代記』は明らかに住吉大神のことを語っているし、『播磨国風土記』はニウツヒメだと明記してある。
「藤代嶺」に祀られたのはニウツヒメで、播磨に住みたいと言ったのが住吉大神だとしたら、一応つじつまは合うけど、それじゃあ続けて語った意味が弱くなる。素直に同一神の話とみるべき。
とすれば、話の内容は同じでも、主人公が『神代記』と『播磨国風土記』とでは異なる伝承である、と考えるしかない。

次に、「魚次浜」について。『神代記』はその範囲を、
四至〈東限大久保尻、南限海棹乃際/西限歌見江尻限、北限大路〉
(東は明石市大久保の谷八木川、南は海岸線、西は同市二見の瀬戸川、北は古代山陽道)
としている。この浜に藤が流れ着いたから、藤江と名づけたというのだけど、藤江は大久保の東隣に位置し、この範囲から外れている。
昭和十三年(1938)発行の『兵庫県神社誌』によれば、
伝へいふ~中略~雄略天皇八年四月初卯日に、摂津国住吉郡鎮座の住吉大神を、今の同じ境內地なる鎮座地より勧請し、正応五年八月六日今の地に遷座す。
とあり、藤を流すうけいに従って勧請したのが雄略天皇の時代ということになり、現在の境内地より辰巳(東南)に鎮座したが、鎌倉末期1292年に現在地に遷座したという。こちらは典拠が示されていないので、口伝に過ぎないのかもしれないけど。公式サイトによれば、この東南の旧社地というのは住吉公園内なので、やはり藤江とは離れている。
「明石郡魚次浜一処」の範囲の外に「藤江」があるのは、魚次浜の中に神領があり、浜自体はそれより広範囲を指すということかもしれないな。

『神代記』に「播磨国明石郡垂水明神」とある海神社を後にした僕らは、こちらも行こう行こうと思いつつ行けていなかった、魚住の住吉神社へ向かうことにした。海神社前の路は慢性的に渋滞しているし、住吉神社は近くの路が狭いから、どちらも少々億劫に感じていたんだよね。でも、思い立ったが吉日、意を決した次第。
明姫幹線沿いに住吉神社への案内が出ているし、南下して狭い道路に入っても車でのルートを示す道標があって、迷わず駐車場に着けた。案ずるより産むがやすしというわけか。
神社は住吉公園の中にあり、家族連れで賑わっていた。


おお~、参道から瀬戸内海が一望できる。どうして鳥居越しの海には、こんなにも惹かれるのか。言語化できないけど、とにかく気分が高揚する風景だ。


その先の楼門は、慶安元年(1648)の建立。くぐって少し離れないと全貌が捉え切れないほど、巨大。


随身門かと思いきや、赤や緑の彩色が残る狛犬一対が安置されていた。こんなの初めて見たよ。


手水舎にはウサギ。「四月初卯日」に勧請されたという、言い伝えにちなんだものだろう。


拝殿にて拝礼。御祭神はもちろん、ソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオの住吉大神と神功皇后。


その背後に第一~四本殿が並ぶ。一間社春日造が4つ連なるさまは、西隣の阿閇神社を彷彿させるなぁ。


本殿の東には、神功皇后の御子・応神天皇をお祀りする八幡社。


本殿北に、大海社(オオワタツミ・コワタツミ)、粟島社(オオナムチ・スクナビコナ)、天満社(菅原道真)、竈神社(オキツヒコ・オキツヒメ)。大海社が他より大きいのは、主祭神とゆかりが深いからだろう。
奥の藤棚は、「祓除はらいの藤」。由緒にある藤は、神木ということだ。


西側には、高良社(武内宿祢)、稲荷社(ウカノミタマ)、神明社(アマテラス・トヨウケビメ)。神功皇后を支えた武内宿祢がいらっしゃるのは、嬉しい。神明社が神明造になっているのも細かい。
他に厳島社(イチキシマヒメ)もあるんだけど、うっかり写真を取り忘れた。


境内には、「神亀三年、聖武天皇の印南野への行幸の折、笠朝臣金村がこの地で詠んだ歌」の万葉歌碑が立っていた。現地の説明板には、
往きめぐり、見とも飽かめや、名寸隅の、船瀬の浜に、しきる白波
(行き帰りに、いくら見ても見飽きることがない、魚住の船着き場の浜に、しきりに打ち寄せる白波は)
とある。
ちなみに原文は、「徃廻 雖見将飽八 名寸隅乃 船瀬之浜爾 四寸流思良名美」。「名寸隅なきすみ」は、魚次なすきと同じで魚住のことだ。


公園では、スイセンが咲いているのを見つけた。可愛らしくて、好きな花のひとつ。嫁も色んな角度から撮っていた。

狙ったわけじゃないのに、結果的に神功皇后に縁の深いお社を巡ったけど、とても充実した参詣になった。播磨をさらに知ることができたし、何より美しい景色は、心が晴れやかになるね。

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