石屋神社と岩樟神社
2023年3月11日土曜日
11:14
まず、『日本書紀』の神代上・第五段には、次のようにある。
次生蛭児。雖已三歳、脚猶不立。故載之於天磐櫲樟船、而順風放棄。ヒルコを海に流す話は、一書(第二)や『古事記』にもある。
(次にヒルコを生んだ。三年経っても足が立たなかった。それで天磐櫲樟船 (丈夫なクスの船)に乗せて、風のまにまに放流した)
~中略~
是後、伊弉諾尊、神功既畢、霊運当遷。是以、構幽宮於淡路之洲、寂然長隠者矣。
(この後、イザナギは、神としての仕事を終えられて、あの世に行こうとされていた。そこで、幽宮を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた)
ここから一気に江戸中期まで時代が下ってしまうけど、
石屋神社次に、『古事記伝』の中で宣長先輩も、「淤能碁呂島」について諸説挙げながら、岩樟神社にも触れている。
岩屋浦絵島の南の海浜にあり、今天地明神と称す。又は岩屋明神とも絵島明神ともいふ。~中略~式に何れの神とも注せざれば、後世その神名は定めがたかるべし。
~中略~
石窟
同じ浦の絵島を去る五十歩ばかり、今の天地明神の北の海辺古城山の崖下にあり。石窟旧は甚広かりしを、城を築く時窟を切たてて今残る処の岩窟終に狭くなりたりと云惜き事なり。石窟の中に小祠あり。土人は石楠尊といふ。いぶかし。或説に、石窟は伊弉諾尊隠れませる幽宮なりといふ。因て按るに、旧事記に幽宮を淡路洲に構りて隠れますといひ、亦、淡路の多賀に座すといふ。幽宮と多賀とを分て記し、日本紀にも幽宮と日之少宮とを分て挙たれば、日之少宮を多賀とし、幽宮を石屋に擬していふにや。又、神名帳の頭注に伊佐奈岐を天地明神と云と侍るよし聞り。未だ其書を見ずといへ共、此地にある里人の称する社号と其説相合ひぬれば、或説拠なきにあらず。天地明神の社なるも石窟にある神も同神にて、伊奘諾尊といはんは、他の神名を称せる説には勝るべし。
或説に、後世歌によむ淡路の絵島これなり。日本紀に、以磤馭盧島為胞、とあるより出て、もとはそれから、国学者・胞島 の意なりと云り。又或説に、淡路の西北の隅にある胞島これなり。今も胞島と云ひ、又おのごろ島てふ名も存せり。さて其の地方に、鶺鴒島と云もあり。磐櫲樟神社と云もあり。式に石屋神社とあるこれなり。岩窟の内に、二柱の大神に蛭児を合せ祭る。其の東南の方の山に、天地大神宮といふあり。国常立の尊・伊弉諾の尊・伊弉冉の尊三座なり。
其辺に磐櫲樟神社あり。式文には岩屋神社と出たり。岩窟の内に二神に蛭児を合せ祭る。二尊始め蛭児を産給ひ磐櫲樟船に載せて流し給ふといへる事跡を残せり。其東南の方の山に天地大神宮の鎮座あり。国常立尊・伊弉詰尊・伊弉冊尊三柱まします。とあり、こちらも岩樟神社を式内社の石屋神社に比定しつつ、御祭神ヒルコのことを語っている。
これがとても興味深い!イザナギとイザナミの間に生まれたヒルコは、記紀によれば不具の子だったため岩樟船に乗せて海に流されたわけだけど、この伝承は、その流した場所こそが岩屋の地だったといっている。対岸にある西宮市の西宮神社は、流されたヒルコが漂着した地であるという。繋がった!岩樟神社の名も、岩樟船に因んだもの。
石屋神社は元々、岩樟神社背後の山の頂に鎮座していたが、岩屋城を築くにあたって、現在の場所に移されたそうだ。岩屋城は、慶長十五年(1610)の池田輝政による築城。岩樟神社のある岩窟も、この時に削られて浅くなってしまったと。
石屋神社の坐していた山の麓に岩樟神社があることを考えれば、両社が近しい関係にあったことは想像に難くない。現在のそれぞれの御祭神は、石屋神社が国常立尊・イザナギ・イザナミ、岩樟神社がイザナギ・イザナミ・ヒルコとされているものの、『常磐草』も『古事記伝』も『磤馭盧島日記』も、岩樟神社を式内・石屋神社としている。『延喜式神名帳』のいう「天地明神」の正体は不明だけど、岩室をイザナギがお隠れになった「幽宮」とする伝承といい、国生み神話とのゆかりを窺わせるし、2社を一体とみなして良いように思う。
さてさて、「春の観光シーズンに向け明石海峡大橋をめぐる遊覧船が運航再開」というニュースをテレビでたまたま見て、その場で嫁に行く?と聞いたらいいよと返ってきた。遊覧船が淡路市の岩屋港から出航とのことで、岩樟神社もすぐそばじゃないか。行っちゃえーと、ネット予約。
翌朝、渋滞の恐れを考慮して早めの9時出発。交通量は多いものの、幸いスムースに乗船者専用駐車場に到着。発券手続きを済ませたら、出船まで随分時間が余った。丁度いい、神社巡りに使おう。
乗船場から東へ国道28号沿いに歩いていくと、絵島が姿を現す。淡路島の北端に浮かんでおり、宣長先輩や大神貫道らがオノゴロ島伝承地として紹介している島だ。
昔は渡れたそうだけど、砂岩でできている島で、波による侵食が進み危険なため、今は上陸禁止。古代においては、もう少し大きかったんだろうな。
そこから道なりに南下していくと、石屋神社の立派な門構えが。
向かいには海水浴場の砂浜が広がっていた。
随身門をぐぐって、拝殿にて拝礼。「天地大明神」と書かれた扁額が掛かっている。主祭神としては、イザナギのほか、ツクヨミとする説やアメノオハバリとする説もある。
境内北側は駐車スペースになっていたので、車で行くことも可能だ。
本殿は東面している。三対山の上にあったときも同じだったのかな。
拝殿の南には、摂社の八百万神社。
反対側には稲荷神社があった。
来た道を戻って、絵島を横切り、岩屋港前の交差点を過ぎると、恵比須神社に着いた。「古事記神話ゆかりの地」の石碑が目を引く。
ここの御祭神はヒルコとコトシロヌシらしい。どちらもエビスさまとして知られる神さまだけど、両方とはね。珍しいといえば珍しいけど、同様の例はそこそこあるようだ。
この裏手に岩樟神社があるのだけど、恵比須神社については、旧社格制度で無格社にも名前が無く、良く分らなかった。
岩樟神社の祠は、洞穴にめり込むようにして佇んでいた。さらに、洞門が塗り固められていて、奥を窺うことはできない。こちらにもお参り。
横に回ると、なるほど切り立てた跡のように見える。この上にかつて城があったし、その前には石屋神社があった。
祠のある所以外にも空洞が二つあって、神社の物置として利用されているようだ。
不思議だらけの場所に、嫁も興味深そうにしていた。
「岩屋」の地名の由縁について、『歴史と神戸』第25巻特別号(1986)の『淡路島の古代地名』にて武田信一氏が、
地質学的には淡路層群の岩屋累層という浸食されやすい砂岩層から成っている。この地層が波浪によって削られ、多くの洞窟をつくり、また絵島などの奇景をつくったのである。~中略~岩屋には、岩樟神社の洞窟を含めて、いくつかの洞窟があったところから「石屋」の名が出たものと考えられる。と提示されている。この洞窟や絵島を巡ってきて、納得するところだね。
言い伝えの通り、岩樟神社がヒルコを乗せて流した天磐樟船に由来するなら、絵島がオノゴロ島ということにもなるんだなぁ。そして、最初にイザナミと一緒に造った島のそばに、イザナギが幽宮を構えて隠れたとしても、全然おかしくないどころか、相応しいんだよなぁ。面白い!