海神社
2023年2月5日日曜日
14:40
『日本書紀』によれば、
神功皇后が三韓征伐から凱旋した際、船を進めることができなくなり、という。務古水門 (武庫川河口付近)に帰って神意を占った。すると、アマテラスが廣田国(廣田神社)に、ワカヒルメが活田長峡国(生田神社)に、コトシロヌシが長田国(長田神社)に、住吉三神が大津渟中倉之長峡(住吉大社)に、それぞれ祀るよう神託を授けた。そこで、教えのままに鎮座していただいたところ、平穏に海を渡ることができた。
海神社所蔵の『日向大明神御縁起』には、
神功皇后~中略~三韓の~中略~御凱陣あり、竜頭鷁首の御船、西海の波平かに、日月の御旗天に翻り、供奉の兵船まで恙なく此沖まて還幸ありしに、俄に辰巳の方より異風頻りに起つて、山樹枝たちまちに折れ、逆浪沙を捲く、御船を初め、数多の兵船潮に漂ひ、波に浮沈て危き事云計なし、此時に皇后恭しく御誓願有て、御身の穢をはらひ給ひ、海童三柱の太神を爰に勧請したまひしかば、風波悉に静まり、海上穏になりて帰京ましましけり。とある。
これらを読み比べると、海神社の縁起は、『日本書紀』の神功皇后凱旋の折の住吉三神らの鎮座由来とほぼ同じだが、そこにワタツミ三神は登場しない。
ここで目線を変えて、明石という土地に触れたい。
文献上は、『日本書紀』神功皇后摂政元年二月に、
詣播磨興山陵於赤石。というのが初見。
(播磨に行き山陵を明石に立てた)
『先代旧事本紀』国造本紀には、「明石国造」は、
軽島豊明朝御世、大倭直同祖、八代足尼児都弥自足尼、定賜国造。とある。令制国として明石郡は播磨国に含まれるが、それ以前には針間(播磨)国とは別に、明石国があったことを示している。
(応神天皇の御代に、大倭直と同じ先祖の八代足尼 の子の都弥自足尼 を国造に定められた)
『続日本紀』神護景雲三年六月癸夘(7日)条には、
播磨国明石郡人、外従八位下海直溝長等十九人、大和赤石連。とある。明石郡の有力者が「大和赤石連」姓を授かっており、ヤマトと明石の関係の深さを窺わせる。
(播磨国の明石郡の人、海直溝長 らが大和赤石連 の姓を賜った)
明石国造が大倭直と同祖であるといい、大和赤石連が海直を名乗っていたことから、溝長たちも都弥自足尼の子孫ということだろう。
海神社の御祭神は海神。とすれば、明石国造の奉斎する神をお祀りしたのかもしれない。それが中央にすり寄る形で、由緒を神功皇后に仮託した……といったら、邪推が過ぎるかな。
また、海神社の鎮座地から、県内最大の五色塚古墳までは、目と鼻の先。明石海峡を見下ろず絶好のロケーションにあり、その被葬者として明石国造が考えられている。前方後円墳という形式がまた、ヤマトと明石の結びつきの強さを表している。
ちなみに、『書紀』で明石に立てたという「山陵」は、この五色塚古墳を想定していると思われる。そのため、被葬者を仲哀天皇とする説もあった。
倭直といえば、神武東征神話において「速吸之門(速吸門)」にて一向に加わったシイネツヒコ。海路に詳しい海人族の協力があればこそ、潮流の激しい海を渡ることができたのだろう。
ただ、「速吸之門」がどこかという問題があって、『日本書紀』からは豊予海峡と読み取れ、『古事記』では明石海峡とみられる。
もしシイネツヒコと出会ったのが明石海峡だったとして、一族の主流はヤマトへ移り倭直となり、傍流は明石国造として引き続きこの地方を治めた……という風に考えられないだろうか。
明石海峡の南にある淡路島もまた、イザナギを祖神とする海人族の領域。
国生み神話において、最初に生まれたのが淡路島。ヤマトにとって、大阪湾から明石海峡にかけたあたりは、九州やその向こうの大陸との往来に欠かせないし、海の最終防衛線でもある。海人族の航海技術や戦力も必要。淡路の海人との関係を重視し、淡路島を最初の国に位置付けたとする説がある。
倭直、明石国造、淡路島。いずれもヤマトとの関係が強い海人族という、共通項が浮かび上がってくるんだよね。諸説織り交ぜつつ、想像をたくましくしただけだから、鵜呑みにはしないでほしいけど。知り得たことで円を描いていくと、すべての円が重なる場所が見えてくるようで、妄想せずにはいられない。神話と歴史のロマンがそこにあるの。
話を海神社に戻そう。
海神社の「海」は現在、「ワタツミ」と読んでいるが、「カイ」と音読みもするようで、公式サイトのドメインにも「kaijinjya」とある。
他に「タルミ」、「アマ」とする説もある。『古事記伝』の中で宣長先輩は、
タルミと読むとすれば「垂」の字が脱落したことになるが、どの史料にも海神社とあるばかりで脱字は考えられない。とすれば、タルミと読むのはおかしい。それは鎮座地のこと。ワタツミと読むべき。と言っている。さすが先輩、理路整然としていて首肯するばかり。だけど、海直の氏神なら「アマ」と読む説も捨てがたい。
中世には日向大明神と称していたけど、また海神社に戻る。その理由について『日向大明神御縁起』は、
此三神にとし、「憚海神社」を「たるみじんじゃ」と訓じているけど、ここは「はばかりて海神社」と読むんじゃないかな。つまり、アマテラスに由来する日向の御名を冠するのは畏れ多く憚られるので、海神社と号した、と。このほうが文意が通ると思う。大日孁貴 (=アマテラス)を添祭りて四座に拝し奉り重くおもんするの御名を憚海神社と号し奉り
この日、兵庫県立図書館での用事を済ませた僕たちは、海神社へ向かった。相変わらず垂水周辺の国道2号は混んでいる。
駐車場の利用は、参拝者は20分無料。車用の入口から入庫すると受付の方が寄って来られたので、参拝の旨をお伝えした。それから指示された場所に停める。
拝殿にて拝礼。国道とは違い人影まばら、まるで別世界だ。真裏はJR垂水駅なのに、不思議と騒がしさを感じない。
本殿は銅板葺の流造。陽に照らされ、輝いて見える。
境内社として、本殿の東に天神社。
西に猿田彦大神・蛭子大神・稲荷大神があった。
連なる赤い鳥居の横に、七福神。等身が低くてちょっと可愛らしい。
拝殿から振り返れば、参道の奥にもうひとつ大きな鳥居が。そのさらに向こうには、建物に遮られているものの、海原が広がっているはず。直接見えないのはちょっぴり残念だけど。
知識だけでなく、現地に立つことで感じるもの、受け取れるものがある。うん、行けて良かった。