粒丘の伝承と式内社
2022年3月6日日曜日
20:57
嫁がウォーキングしたいと言ってきた。いいよいいよ、駐車場が無いから歩かないと行けない神社・史跡ならたくさんあるから。軽いドライブにもなるしということで、目的地は中臣印達神社に決定。太子竜野バイパスを走り抜けて、揖保川沿いの公園の駐車場に車を置き、河川敷をまずはてくてく。少々風は強いが、陽射しが暖かい。
それから土手に上がり、田畑の間の路を通る。その途上、「夜比良神社」と書かれた案内が立っていた。こちらも式内社だそうだ。地図を見たとき、ちょっと離れていると思ったんだけど、これなら帰りに寄れそうだ。
北を向くと、
参道に出たら北進。住宅地の先に神域らしい雰囲気が。ちなみに鳥居はもっと南のほうにあるようだ。
まずは拝殿にてお参り。御祭神は
『和名類聚抄』巻第八の播磨国の揖保郡の条に「中臣」とあり、当地は平安期において中臣郷という地名だった。それが明治期には揖西郡
結果的に、これが僕らの初詣となった。
西側に境内社が建ち並ぶ。最も目立つのが
向かって左が天満宮(菅原道真)、右が
この斜面の上に道が通っているようで、人の姿を見掛けた。その中の一人、少年が斜面を滑り降りてきたから、ちょっとビックリ。地元の子だろうか、遊んでいるのかな。
さて、粒坐天照神社のお社はどこかなと探すも、見当たらない。社号標だけ見つけた。社殿は無いのかもしれない。この山が御神体ということも考えられる。
手水舎の近くまで戻って、もうひとつの標柱を確認。正面には「粒丘」、側面には「粒丘は中臣山の古称にしてそのいわれは播磨国風土記に有り」と刻まれている。
播磨国風土記には次のように記されている。
食べていたご飯をうっかり落としたのか、意図的に落としたかは判らないけど、土地で食事をしたり持ち物を落とす行為は、そこを占有した証しと考えられ、一種の儀式だ。アシハラノシコオは、アメノヒボコより先回りしてこの地を得ることができたわけだ。揖保里 。粒 という理由は粒山 の名前にちなんでいる。この土地の神・アシハラノシコオが、韓国から渡ってきた神・アメノヒボコと争ったとき、先に土地を占有しようと思って、この丘に登って食事をした。その時、口から粒 が落ちた。だから、粒丘 と名付けた。
粒丘――現在は中臣山と呼ばれるこの山には、3基の古墳と遺跡(中臣山古墳群・中臣山遺跡)が見つかっており、周辺にも古墳や縄文・弥生時代の遺跡が点在する。太古より人が暮らしてきた何よりの証拠。
人が生きていく上で欠かせないのが、水。ここはそばを流れる揖保川から容易く水を確保できるので、生活に向いた土地なのだ。しかし、川は時に氾濫する。そんな時でも、高台であれば安心して住める。
つまり、粒丘を占有するのは、とても重要な意味を持つということ。そう考えると、アシハラノシコオの行動が、神話が、一気にリアリティを持って迫ってくる!
ここから数キロ北の同市龍野町日山に鎮座する粒坐天照神社の背後に佇む白鷺山も、粒丘の比定地とされる。両方の地に立ってみた感覚としては、甲乙つけがたいね。どちらもとても良い空気。
境内にはまだまだ見所があった。特にこの変わった姿の狛犬たち。おしりが可愛いんだ。
それとこの社号標。「中臣印達神社」と並んで「阿波庭神社」とある。阿波遅神社の別表記だ。しかし、ここに合祀されたいわれも、御祭神についても、境内には何ひとつ示すものが無かった。
坂の途中にある厳島神社(イチキシマヒメ)を見つつ、参道を戻る。
それから行きに見つけた
播磨国の一の宮である伊和神社を「北方殿」と呼ぶのに対し、夜比良神社を「南方殿」と言います。と。伊和神社の御祭神・伊和大神は、オオナムチと同一神とする考えがあり、それに沿った信仰がこの地にもあったということか。面白い。思わぬ拾い物をした。
また、境内や参道にスイセンの花が咲いていて、思いがけず心が潤った。
都合4社の式内社を巡ったことになる。2か所しか行っていないのに。
ともあれ、久しぶりに風土記ゆかりの地を訪れることができて、大満足のウォーキングになった。綺麗な花々に出会えて、嫁にも喜んでもらえたよ。