稗田神社と斑鳩寺

2021年12月26日日曜日 22:30

稗田神社ひえだじんじゃは兵庫県揖保郡太子町に鎮座する神社で、主祭神は稗田阿礼ひえだのあれ。古事記の編纂に携わった舎人とねりとされながら、女性説も唱えられている謎多き人物だ。しかも兵庫県神社庁の稗田神社のページでは、『阿礼比売命』と表記されている。アレヒメ……完全に女性の名前だ。ただ一方で、主祭神を聖徳太子の妃の一人・膳大娘かしわでのおおいらつめとする説もある。同町にある斑鳩寺いかるがでらともゆかりが深いことと関係がありそう。
結局のところ、稗田神社の主祭神はどなたなのか、それはいつお祀りされたのか……ロマンを追い求めて行ってきたよ。

年の瀬も追い詰まった寒波の厳しい日、思い立って稗田神社に参拝することにした。あれこれ調べてあとは現地で確かめようと思ってから、はや数年が経ってしまっていた。ずうっとモヤモヤしていたから、今年の内に片付けてしまおうと。
陽射しは暖かいが、風が冷たい。寒い、とにかく寒い。それでも嫁は付き合ってくれた。ありがとう。


玉垣に囲われ、四脚門が入口になっていた。社号標は特に無いようだ。


まずは拝殿にて二礼二拍手一礼。鉄筋コンクリート造りの社殿もさることながら、『上宮 稗田神社』と刻まれた標柱が気になる。


本殿は神明造のように見えるけど、掘立柱ということはないだろう。なんにしても変わった造り。


境内には、小さな祠がいくつかあるほか、結構な太さの樹木が何本か生えていた。周辺はすっかり宅地開発されているが、さすがは崇敬を集めるお社だなぁ。

さて、僕はただお参りするためだけに訪れたわけじゃあない。叶うものなら、神職さんにお話をお伺いしたいのだ。そこで社務所に向かうと、御用の方は奥の宮司宅へとの張り紙が。意を決してインターホンを押した。
しばらくすると女性の方が出てこられたので、御朱印と御札を頂きたいとお伝えした。御朱印帳を受け取られたその方は、寒いだろうから中に入って待つよう、我々を気遣ってくださった。なんていい人なんだ。境内といっても人様のお宅の玄関だから、あまりじろじろ見るのも失礼。控え目な声で嫁と喋りつつ待つ。
ややあって、今度は男性の方――宮司さんが御朱印帳と御札とを持ってこられたので、初穂料をお納めして授かった。そして、少しお聞きしてもよろしいでしょうかと切り出すと、快く応じてくださった。
古事記が大好きだから、稗田阿礼命をお祀りしているこちらを参拝した旨を前置きしたうえで、単刀直入に、主祭神が『阿礼比売命あれひめのみこと』と表記されていることについてお尋ねした。すると、そこから派生して、稗田阿礼女性説のご見解や、秋祭りを通じた斑鳩寺との現在の関係、僕ら以外の参拝者から受けた質問のことなど、色んなお話を聞かせてくださった。本当に有り難い限り。柔らかい物腰ながらお話しぶりは明瞭、とても親切な宮司さんで、ホッとした。
というわけで、稗田神社の御祭神は『阿礼比売命』とのご認識を確認できた。いつからお祀りされているのか判らなかったものの、ここをはっきりさせられたのは大きな収穫。勇気を振り絞った甲斐があったよ。


心からの謝意を述べて神社を後にした僕たちは、参道を南へ。鳥居をくぐったところで振り返ってみたりもした。


わずか10分足らずで斑鳩寺に着く。こちらは立派な寺号標。仁王門と、奥には三重塔も見える。


境内に入って西にあるのが、聖徳殿前殿しょうとくでんぜんでん。旧太子堂で、斑鳩寺で最も重要な建造物だそうだ。元はここに太子像をお祀りしていたが、現在は後年に増築した中殿・後殿に移しているとのこと。


聖徳殿後殿こうでんは八角堂。伽藍の中でも一際大きく、迫力がある。


東側にあるのが三重塔。


正面の北に位置するのが講堂。
僕ら以外にも参拝客がちらほらいて、子供たちが駆け回って遊んでいた。寒いのに元気だな~。


その東に聖霊権現社しょうりょうごんげんしゃ。こちらには『下宮 稗田神社御旅所』と記されている。


江戸時代ごろの公式記録である『斑鳩寺記録』に志略が載っており、それによれば、
推古天皇14年(606)10月、聖徳太子が岡本宮にて法華経を講経させたことなどを天皇がお喜びになり、播磨国揖保郡に水田三六十町を与えられ、太子はそこに寺院を建立し、斑鳩寺と号した。
という。
日本書紀の推古14年の条に、
皇太子亦講法華経於岡本宮。天皇大喜之、播磨国水田百町施于皇太子。因以納于斑鳩寺。
と、ほぼ同様の記述がある。志略はこれに沿ったものだろう。ただし、ここでいう斑鳩寺とは現在の法隆寺のことを指していると考えられる。
つまり、志略の語る斑鳩寺の創建は、おそらく意図的な読み替えが行われている。水田を下賜されたのは史実とみて間違いないが、この時に播磨国の斑鳩寺が建てられたとは考えにくい。歴史をより長く見せるための捏造とみたほうが良いと思われる。
斑鳩寺志略にはまた、
聖霊大権現には太子をお祀りし、稗田大明神には妃膳氏をお祀りする。
とある。現在は稗田神社の御旅所となっているが、近世は太子をお祀りするお社だったということだ。妃膳氏とは膳大娘のことなので、この頃の稗田神社の御祭神は膳大娘とみなされていたことになる。


ここで改めて、稗田神社の御祭神について考えてみたい。野田喜平治氏が著した『稗田神社考』という史料を参考にすると、氏は膳大娘とする説に否定的。神社は斑鳩寺より古く、本社は大和国にあるという説を採っている。本社とは現在の奈良県大和郡山市の売太神社めたじんじゃ。播磨国に賜った水田の管理のため、大和国添上郡稗田村の人々が移住し、その地に彼らの信奉していた神をお祀りしたのが、稗田神社ということだ。なので、聖徳太子の妃が御祭神とは考えられない。たくさんの妃がいるなかで、膳大娘がいかに太子にとって大切であったとしても、経緯をみるにやはり不自然。
ちなみに、聖徳太子と稗田を結び付けるものが一応あるにはあって、天保8年(1837)の『大和国稗田池由来』という文献。
推古21年(613)、聖徳太子が稗田の里に寄った時、村人から稗飯を出された。「なぜ稗飯なのか」と問うと、「村に水が無く稲が実らない」と村人は嘆いた。不憫に思った太子が、秦河勝に命じて溜池を造らせ、稗田郷へ灌漑用の水を送った。また、池の近くに広大寺を建立した。
という。数年前、売太神社の社務所で伺ったお話はこれだったんだね。
では、稗田の人々が尊崇していた神とはどなただったのか。近世において売太神社の御祭神は三社明神と称しており、困ったことに具体的な神名が不詳なのだ。稗田氏は猿女君さるめのきみの同族であるとして、その祖神アメノウズメを主祭神とし、のちに夫神サルタヒコ、さらに同族で大功ある稗田阿礼を合祀したとの説がある。アメノウズメ・サルタヒコ・稗田阿礼の3柱で、三社明神とするわけだ。しかし神名がハッキリしない以上、これを鵜呑みにはできない。
他に、稗田ヒエダ比売陀ヒメダの転訛、売太メタ比売太ヒメタの転訛とする説に従い、比売陀君ひめだのきみの祖である菟上王うなかみのみこを御祭神とする考えも存在する。
とはいえ、稗田神社の御祭神は『阿礼比売命』とされている。勧請元と思われる売太神社の御祭神がどうであれ、稗田神社としては、あくまで稗田阿礼――それも女性――が御祭神。結局判然とはしないけれど、阿礼比売命がお祀りされていると考えると、やはり夢があるよね~。

わからないものはわからない。だけど、ひとまず可能な範囲で整理できたかな。数年越しの宿題が片付いて、気分はスッキリしたよ。凍えるような冬空の下、付き合ってくれて嫁にも感謝。

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